暑気あたり(その1)
一九九九年八月一二日(木)。
この日も朝から水銀柱は軽く三〇度を超え、一向に下がる気配を見せていなかった。
見事なまでに晴れ上がった空には雲ひとつなく、灼熱の太陽が遠慮なく陽光を浴びせかけている。
そんな中、市内のとある一角でうめきにも似た声があがっていた。
「うう、あ、暑い……」
純和風に限りなく近いつくりの室内、畳すら熱を持ちそうな気温の中で、芝村舞はすっかりへばりこけていた。
***
八月は暑い。
日本という国に居住する限り、地球がひっくり返るか突如氷河期にでもならない限り、たとえ少々地域ごと、年ごとの差はあれど、当分適用されつづける大法則である。
そしてそれはここ九州・熊本の地も例外とはしなかった。
いや、むしろ熊本市などはここのところ例年の平均気温を軽く突破しつづける日々を送っている。
幻獣との半世紀にわたる、果てしない戦争で人類の生産活動のほとんどが停止させられた結果、やたらと清浄になった大気のせいか寒暖の区別がはっきりとつくようになった、とも言われているが、それにしても連日最高気温が三五度を超えているとなれば、これはもう、文字通り度を超えているというものであろう。
そういった一方で、いや、幻獣との戦闘の結果発生する火災などで排出された二酸化炭素が増加して、温暖化の傾向を見せているのだと主張する者もいたが、実際に炎暑に炙られる者にしてみればどうでもいい話ではあった。
ともあれ、このような熱波の中に熊本市はあった。
市中には陽炎が立ち昇り、まるで街全体がとろけだしてでもいるかのようだ。
せめて幻獣が出現しないのがせめてもの救いであろうか?
こんな気温では幻獣も戦う気にはならないのかもしれない。
そのせいもあって、毎年この時期は自然休戦期にあたるわけで、今年から強引に参戦させられた学徒動員兵――いわゆる学兵もしばしの休息を味わっていた。
むろん、訓練も学業もなくなったわけではないが、それとて戦闘に明け暮れていた毎日に比べれば極楽浄土もかくやといったところである。
彼らは久しぶりに取り戻した「学生らしい生活」を満喫していた。まあ、生と死の境を約二ヶ月に渡ってさ迷わさせられたのであるから、彼らには当然それを受け取る権利があろうというものだ。
そういう意味では、これもまたある意味学生らしい、というべきなのかもしれない。
……ただし、この場はどちらかといえば男子学生が適役のような気もしないでもないのだが。
***
「室内温度、三四度……」
――見なければ良かった。
舞は一瞬だけだが後悔の念を抱いた。
そもそも築六〇年という、普請のグレードから考えれば建築学への挑戦としか思えないこのアパートは、ただでさえ「夏暑く冬寒い」というきわめて季節に忠実な気温を保っているのだが、今回のこの暑さは御丁寧にもそれを強化する方向に目一杯働いていた。
「う〜……」
舞は力無く窓辺にずりずりと這い寄ると、空を見上げてみた。抜けるような快晴が、いっそのこと恨めしい。
まるでいくつもの太陽に照らされているような錯覚に陥りたくなるほどにその日差しは容赦がなかった。
今なら、フライパンの上に置かれた豆の心境がしっかりと理解できそうだ。
「風は……吹かぬ、か」
窓辺には速水が気を利かせたつもりでつるした風鈴があったのだが、今のところそれは何の役にも立っていない。
ガラス製の風鈴は日にさらされてうだっているようであり、短冊はぴくとも動かなかった。
自然の援助が期待できないと判断した舞は、再びはいずるように日陰へと後退する。なにも好き好んで日干しになる趣味は彼女にはない。
だが、日陰もたいした涼をもたらしはしなかった。
それに湿度も気温と負けず劣らずの高水準を維持しており、全身からやたらに吹き出る汗は一向に蒸発する気配すら見せず、体のあちこちを筋となって流れ落ちていく。
「この湿度では仕方がなかろうが……鬱陶しいな」
舞は手近にあったタオルで顔や手足の汗を拭うが、それもすでにあまり意味はなかった。汗はいくら拭いてもすぐに浮き出てくるし、第一タオル自体がとっくの昔にじっとりと重く濡れそぼっている。
――こうなると、あやつの目がないことだけが幸いだな。
畳に仰向けに寝転がりながら、舞はその事実だけには感謝せざるを得なかった。
今の舞はタンクトップに短パンという極めてラフな格好をしていた。むろんと言うべきか何というべきか、誰の目もないのをいいことにブラジャーなどという余計な「発刊物質」は着けてはいない。
もしこんな姿を速水に見つけられでもしたら、一体なんと言われることか……いや、それ以前に何をされるかわかったものではなかった。
ならそんな格好なぞしなければいい、などとは言いっこなしである。
すでにこの部屋は、人類の限界へと時々刻々挑戦し続けているのだから。
***
ちょうどそのころ、舞のアパートからいささか座標を移した某所で一人の少年が目覚めようとしていた。
舞の起居するアパートよりははるかに新しいつくりの――程度問題であるが――部屋の中、少年――速水は自らの布団の中で安らかな眠りをむさぼっていた。
室内の空気はひんやりとしており、ときおり微風が彼の髪を撫でていく。
と、もぞもぞと布団が動き、二、三度寝返りを打ったかと思うと速水はぱっちりと目を開けた。
とはいってもさすがに寝起きということもあって、まるで宇宙の神秘がそこにあるとでもいうように天井板に視線をさまよわせていたが、だんだん意識が覚醒してきたのか、布団の中で大きく伸びをするとむくりと起き上がった。
「あ……ふぁ〜あ〜あ……。よっく寝たなあ……」
目の端に涙を浮かべつつ頭を掻きながら、速水はのんきらしい第一声を放った。
布団から起き出すと、たちまち足元を毛玉のような子猫がいくつかまとわりつく。ちょっと遅れてアメリカンショートヘアーの雌が、ゆったりとした足取りで足元を擦り抜けていった。
「おはよう、マイ」
速水は足元に声をかけた。マイと呼ばれた猫はにゃあと一声応え、餌皿の前に座り込む。
時計を見てみれば、既に一〇時を回っていた。それではさすがに彼女らの腹も空こうというものだ。
「ごめんごめん、ちょっと待ってね」
速水は猫缶をいくつか手早く明けると皿にあける。たちまち子猫たちは先を争うようにして皿に群がった。
少し離れた所では、マイが子猫たちを見守るように座り込んでいた。子猫たちを見守っているのだ。
「よく眠れたかい?」
「にゃあ」
速水の問いに、マイはただ一言応えた。と、彼女の傍らを涼風が流れて行く。マイは目を細めて風を味わっていた。
その様子に速水は目を細めると、ふと思いついたように窓外を振り返った。
「それにしてもよく寝たなあ……。これがなかったらやっぱまずかったよね、うん」
速水は部屋の一角で運転を続けるエアコンを見ながら満足げに頷き、カーテンをさっと開けた。
とたんに容赦のない陽光が部屋に降り注ぎ、速水はかすかに眉をしかめる。
「うわ、こりゃ表は今日も暑いみたいだなあ……。でもまああれなら舞も大丈夫だろうし」
どうやら何らかの対策は施してあったようだが、あいにくそれはいまだ効果を発揮していない。ちょうどこのころ舞は一生懸命汗をぬぐっている頃である。
知らぬということは幸せである。
***
さて、一方こちらは舞のアパート。
舞が変化しない水銀柱を眺めるのにもいい加減飽きたころ、不意に玄関のドアが数回ノックされた。
『まいちゃーん、あそびにきたのよ、あけてほしいの〜』
「うん? その声は、ののみか……」
舞はのろくさと立ち上がると、玄関によたよたと近づいていった。
鍵を開けると、この暑いのにもかかわらず元気そうなののみがひょっこりと覗き込んだ。
「えへへ〜、おはよーまいちゃん」
「ああ、おはよう、だ」
いささかぎこちないながらも舞も挨拶を返す。この数ヶ月で彼女もこういった習慣にはずいぶんと慣れてきた。
「まいちゃん、おじゃましてもいーい?」
「む、構わんが……暑いぞ?」
本人としては一応警告のつもりだったのだが、ののみがそれで、はいそうですかとあっさり引き返すわけもない。
「だいじょーぶだよ、ののみ、このあつさでもだいじょうぶだもん!」
「そうか、そこまで言うなら入るがよい」
「うん、おじゃましまーす!」
と、勢いよく入ったのはいいものの、玄関から二、三歩入り込んだところでののみの足がぴたりと止まり、眉がきつめにしかめられた。
「……ふえぇ、このへやあついの〜」
先ほどまで元気だった声がいきなり半泣きに近くなったことに、舞は軽い罪悪感を覚えた。
胸も、なんだかちくちくと針でも刺されたように痛い。
そりゃまあ、この暑い中を歩いてきたあげくに飛び込んだところが実はオーブンかサウナの中でした、では泣きたくもなろうというものである。
「の、ののみよ、ここはそんなに暑いか?」
いかに忠告したとはいえ、ここまで露骨な反応を返されては舞とてもひるむのはやむをえなかったであろう。
そんな心情を知ってか知らずか、ののみは半ば怒ったような声で言った。
「あついの! まいちゃん、このおへやあつくてめーなの。くーらーとかせんぷうきはないの?」
「う……」
目に涙さえ浮かべて自分をじっと見つめる純な瞳に、舞の心には針の代わりに太い杭が突き立った。
「その、クーラーがあるにはあるのだがな……」
「じゃあ、なんでつけないのー?」
「それが……なぜかスイッチが入らんのだ。ひょっとしたら故障したのかも知れぬ」
さきほど、速水がまったく慌てていない理由はこれであった。彼は休戦期に入った直後に自らの資金で極秘にこの工事を申し込み、ある日一挙に電撃戦のごとく作業を完了させてしまっていたのだ。
まともに交渉したら一蹴されるのがオチであると踏んだ速水の作戦勝ちである。
事実、遅れて家に帰ってきた舞は、いつのまにやら据え付けられたクーラーを見て、しばらくあいた口がふさがらなかったという。
この時、最大の功労者にして仕掛人である速水に対して舞がどう反応したか、歴史は語らない。
それはさておき、確かにこれまでは梅雨時などに十分な威力を発揮していたのであるが、それは今自らの役目を忘れ、沈黙を保っていた。
「ふええ……。じゃ、せんぷうきはぁ?」
「う、うむ……。まあ、これもあるにはあるのだが……」
舞にしては珍しく、歯切れの悪い口調でぼそぼそと呟くのだが、ののみは一縷の希望が現れたとばかりに目を輝かせた。
「ののみ、せんぷうきでもいいの! つけてつけてーっ!」
「う、うむ、そこまで言うなら……」
舞は再びのろくさと立ち上がると、奥のほうからこの家にふさわしいというべき、いささか年代ものの扇風機を取り出してきた。
コンセントをさし、ののみのほうを振り向いた。ののみはこれから吹くであろう涼風を期待し、目を輝かせている。
舞の表情が、実に珍しいことだがほんの瞬間痛ましげにゆがめられた。むろんのこと、ののみに気づかれないように、ではあるが。
「……覚悟はいいか?」
「ふえ?」
舞の言葉を理解できなかったののみはこくん、と小首を傾げたが、その時にはもう舞の指はスイッチにかかっていた。
「スイッチ、オン」
ゆっくりと扇風機の羽根が回り始める。
風が立った。
「わー……ふえ?」
もわわわわわわわぁん。
涼風の代わりにののみの全身に吹き付けたのは、熱く、湿った熱風であった。
いくら扇風機を回したところで、すでに空気はどうしようもないほどの熱を持っていたのだから当たり前である。
舞はその無駄を説明しかけ、それよりは実際に体験したほうが分かりがよいであろうとあえて何も言わずにスイッチを入れたのだ。
それは確かに効果はあったかもしれない。
なぜなら、ののみの目に見る見る涙が盛り上がっていったからだ。
「ふ、ふえ、ふええぇぇぇ……」
「ののみ……」
――ちと、やりすぎたか?
舞の心の杭が削岩機に変わりかけた次の瞬間、話はおかしな方向へと進み始めた。
「ふえぇ、まいちゃんがいじめるの〜」
「……! ちょ、ちょっと待て! どこをどうやったらそういう話になるのだ!?」
舞は驚くまいことか。
同時に彼女は己の失策をいやというほど悟ったのであるが、こうなってしまっては例え絢爛舞踏でも状況を変えるのは不可能であったに違いない。
ののみはさらに声を張り上げながら、涙混じりの抗議を続けていた。
「ふえええ、あついの、めーなの〜」
「だからなののみ、こうすればよく分かると思ってだな、その、ののみよ……」
「ふえええええええ〜……」
いかに異能を備える少女であるとはいえ、九才の子にそんなややこしい道理が通じると思った時点で舞の負けである。
一行に泣き止む気配を見せないののみを前に、舞はあることわざを、身をもって理解していた。
曰く、泣く子と地頭には勝てない。
***
「えっ、ひっく、ふええ……」
「すまぬののみ、私が悪かった。だから頼む、もう泣き止んでくれぬか……?」
急ぎ扇風機を止めて、今度は慣れぬ説得をすること十数分。ようやくののみは多少落ち着きを見せてきた。
「ふええ、まいちゃん、もうあんなことしちゃめーなの!」
言いだしっぺは自分であるということについては、蓋でもして熊本湾あたりに沈めてしまったらしい。
舞は不条理さに大きく息をつきながら、それでも懸命にあやすように言った。
「ああ、わかった。もうこんなことはせぬから、な?」
「それならいいのよ……ののみ、なんだかつかれちゃった」
ようやく泣き止んだ彼女であったが、今度は壁際にこてんと座り込むと、だるそうに俯いてしまった。
「そうか、すまぬな。……そうだ。確か冷蔵庫にジュースがあったはずだ、少し待て」
舞は急ぎ立ち上がると、この灼熱地獄の中で唯一冷気をたたえた世界への扉を開いた。
……世界は少々ご機嫌斜めのようであったが、中身は十分冷えていると言い張れる範疇である。
要は外気と温度差があればいいのだ。
――これなら、ののみも機嫌を直すであろう。
だが、台所から戻ってみると、なんだかやけに静かである。
「ののみ?」
声をかけてみるが、返事はない。部屋を覗き込んでみれば、ののみは先ほどの位置で姿勢を変えぬまま座り込んでいた。
「なんだ、そこにいたのか。ジュースを持ってきたぞ……ののみ?」
舞の眉が不安げに寄せられた。
ののみは姿勢を変えぬまま、ぴくりとも動かない。
「の、ののみ……?」
舞が恐る恐るののみに触れると、彼女の体はそのままずるずると崩れ折れてしまった。
「ぐにゅ〜……」
「の、ののみっ!? しっかりせんか、ののみーっ!!」
舞が触れたののみの身体はやたらと暑かった。どうやら、熱中症か脱水症状になりかけていたらしい。
舞はあわててののみの口にジュースをあてがうと、水気を感じた彼女は少女とも思えない勢いで、むさぼるようにジュースを飲み始めるではないか。
その様子を見ながら、舞は、
「そ、それほどに我が部屋は暑いというのか……」
と、天を仰いで嘆息した。
吹き出る汗の量が更に増えたような気がした。
***
水分を取ったあとのののみはみるみる回復の様相を見せた。
「ののみ、体の具合は、その、大丈夫か?」
「うん、もうなんともないのよ。ほらねっ」
ののみは腕をぶんぶか振り回して元気さをアピールする。さすがに心配をかけてしまったと分かっているらしい。
「う、うむ。わかったからそう暴れるな。……もうジュースはないのだぞ?」
「ふ、ふええ……えへへ」
珍しくも舞が放った冗談らしき言葉に、ののみは一瞬目を丸くした後こぼれるような笑顔を浮かべた。それにつられるように、舞も小さく笑みを浮かべる。
「じゃあ、ののみもうかえるね」
「そうか? ……そうだな、その方がいいかもしれぬ」
この部屋にい続けたら、いつ何時また先ほどのようなことが起きないとも限らない。
鼻の頭に汗粒を浮かべながら、舞は小さく頷いた。
「うんっ、それじゃまいちゃん、またね〜」
「ああ、気をつけてな」
「うんっ。……ふええ、おもてもあついの〜」
そりゃ、さっきより太陽が高くなっているのだから当たり前である。
陽炎の向こうに小さな影がよたこらと消えていくのを見送りながら、舞は自分もついていくべきであったかと思ったが、そうこうしている間に影はふいっと消えてしまった。
「……まあ、来る時も大丈夫だったのだ。心配あるまい」
そう呟きつつドアを閉める。
いささか自己欺瞞を感じなくもないが、実際彼女は口には出さなかったが、ひょっとしたら表のほうが涼しいのでは? と思っていたぐらいである。
……もっとも、その考えは実践してみてわずか数秒で瓦解したが。
「な、なるほど、それでも外よりはましなのだな。だが、それにしてもな……」
とたんに全身を再び汗が流れ落ち、一挙に暑さがぶり返す。今まではそれでもののみがいたこともあって多少は気が紛れていたものらしい。
「む……」
急上昇していく不快指数の中、舞の不快指数は一挙に臨界を突破した。
「ええい、暑いっ! なぜこんなに暑いのだ!」
舞は周囲を見回した。
周囲には彼女の生活の証がくっきりと刻まれている。
……具体的に言うならば、掃除洗濯をやった形跡がまったく見当たらない、ということなのだが。
自分のやったことながら、それが無性に癇に障る。
「ええいっ、室内がこんなにごちゃごちゃしているから暑いのだ! これが室内の通風を妨げているに違いない!」
やおら叫んだかと思うと、舞は手当たり次第に部屋の一掃作戦を唐突に開始した。
……脱水症状の初期症状に、「正常な判断ができなくなる」というのがあるそうだが、はたして……?
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