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GROW UP(全)



 滝川、かく語りき。
「最近、ベッドが狭くなっちまって……」
 この一言が、すべての始まりだった。

   ***

 太陽がやや西に傾き始めた頃、おなじみ五一二一小隊のプレハブ校舎を含む全校に柔らかなチャイムの音が流れた。全ての授業終了の合図である。
 背筋を寒くさせるような幻獣警戒警報と違い、その音色は聞く者の心を穏やかにさせる。
 いや、別に音色のせいではないかもしれないが。
「おーっし、今日の授業はここまで。オメーら、明日になって授業の内容を忘れたりすんじゃねえぞ? 月末にテストがあるって事、覚えてるだろうな?」
 本田の使い古された言い回しに、いささかまばらな返事があちこちから返る。
「ま、そん時になりゃわかるさ。……委員長」
「起立! 礼!」
「お疲れさん」
 ――ま、そん時まで全員生き残ってりゃいいけどな。
「……ふん、縁起でもねぇ」
 本田は自分で吐いた言葉を否定するように首を振ると、足早に階段を下りていった。

 まあ、教員にはそれなりの思い入れもあろうが、学兵たる彼らにとってはそれよりもようやく授業から解放される喜びの方が大きかった。
いかにこのあとで待ち受けているのが訓練と整備、場合によっては出撃であっても、授業は時としてそれ以上の苦痛を味わわせることもあるのだ。
 滝川もそんなふうに感じているうちのひとりだった。もっとも彼の場合は訓練も整備も、もちろん出撃だって願い下げではあったのだが。
「あーっ、やれやれ。ようやく苦手な時間が終わったぜ……」
 滝川は思いっきり腕を天に伸ばすと、首を二、三度左右に振った。
 いささか不健康な音が体の中で響き渡ると、滝川は大げさにため息をついてみせる。
「ふーん、お前さんに得意な時間なんてあったのか?」
 不意に背後からかけられた、通りの良い声に慌てて振り返ってみれば、そこには瀬戸口がからかうような笑顔を浮かべて立っていた。
「やだなあ師匠、俺にだって得意な時間ぐらいありますよ」
「ほう、例えば?」
「例えば……。その、飯の時間とか……」
 急に言いよどんでしまった滝川に、瀬戸口は決して嫌味ではない笑い声を上げた。
「ははっ、そいつはまったくお前さんらしいな。……なんだ、寝不足か?」
 笑顔を返そうとした滝川がまた大あくびをしたのを見て、瀬戸口は不思議そうな声をあげた。
 ここで滝川は、件の言葉を口にしたのである。
「ふあぁ〜ふ、あふ、ふう……。まあ、寝不足なんすかね?最近なんだかベッドが狭くなっっちまって……。よく眠れないんすよ」
「ふぅん、ベッドがねえ? そりゃあれだな、背が伸びたんじゃないのか? いいねえ、若いもんは育ち盛りって感じで」
 心やすだてにからかう瀬戸口に、滝川は口を尖らせつつもどこか嬉しそうに答えた。
「育ち盛りって……やだなあ。師匠だって大して年変わらないじゃないですか。でも多分違うっすよ」
「ほう? どうしてだ?」
「だって、そりゃ……」
 がたん。
 突如背後で起こった物音にふたりの視線が期せずして一致した。
視線の先では速水が椅子から立ち上がりかけた姿勢のままこちらをじっと見つめている。
 あまりに静かだったので存在すら忘れかけていたふたりは、思わず二の句が告げぬままに速水を見返していた。
 どういうわけだか息詰まる一瞬の後、速水はふたりにはもう目もくれず、足早に教室を立ち去っていた。
 まるで呪縛が解けたかのように、滝川たちは同時に息を吐いた。瀬戸口がドアの方を見ながら不思議そうに呟く。
「……滝川、俺たち何かあいつを怒らせるようなことを言ったかな?」
「い、いや別にそんな覚えは……? 速水のやつ、何だってんだ、一体……?」
 ふたりは訳がわからぬまま、肩をすくめるのであった。

 階段を足早に下りた速水は、そのまま格納庫に飛び込むと愛機である三番機に向かう。そこではすでに舞が自分の受け持ち作業をはじめていた。
「厚志、遅いぞ。何をやっていた?」
「うん、ちょっと片付けに手間取ってね。ごめん、すぐに始めるよ」
「……?」
 舞は、彼の声の中にわずかではあるが苛立ちを感じたような気がして、かすかに眉を潜めた。
「何かあったか?」
「ん? いや別に何もないけど?」
 表情はいつも通りに朗らかな彼であった。こくん、と小首を傾げる彼の表情をまともに見てしまった舞は、知らず頬が熱くなるのを自覚していた。
「どうしたの?」
「ななな、なんでもないっ! さ、さっさと作業を始めよ!」
「それじゃ、コックピットからやってくね」
 速水は一瞬にっこりと微笑むと、素早くハッチを開けて中に潜り込んでいった。
 後にひとり残された舞は、慌てて自らもコンソールに取り付いた。頬の熱さが邪魔ではあるが、それには構わないのが一番であると過去の経験が告げていた。
 ――それにしても。
 コンソールを操作しながら、舞は先ほどの速水の表情を思い浮かべていた。表情は確かにいつもの彼であったが、何かが違っていた。
「そうか、目だ。……しかしなぜ?」
 様子を問いただすのは簡単だったが、速水はあの容貌に似合わないところがあり、こう、と決めたらてこでも動かない頑固な一面を持ち合わせている。
あの瞳はどこか、そんな雰囲気を舞に感じさせていた。
 舞は、今しばらく様子を見てみることに決めた。
 ――物事には、全てタイミングがあるものだ。
 彼女は脳内のスイッチを切り替えると、すばらしい速さでコンソールから情報を入力していくのであった。。

   ***

 そろそろ日付が変わろうという頃、無限にあるかと思われた整備もようやく目星がつけられるようになっていた。
 あちこちで終了を宣言する声が聞こえ、皆三々五々と立ち去っていく。舞も、自分の工具を片付けながら整備が滞りなく終わったことにそれなりの満足感を感じていた。
「舞、お疲れ様」
「うむ、そなたもな。……では、帰るとするか?」
「あ、それなんだけど、ちょっと……」
 とたんに速水の表情に翳りがさした。舞は不思議そうな表情を浮かべて彼を見つめる。
「どうした?」
「うん、僕、これからちょっと用事があるから、先に帰っていてくれないかな?」
「用事だと? なんだ?」
「あ、うん。訓練でもしていこうかな、と思って」
「なんだ、なら私も付き合おう」
 とたんに速水は慌てたように手を振った。
「あ、いや、ほら僕ってここのところあまり訓練できなかったし、少し調整しようかなと思っただけだから! 舞はいつも通り済ませたんだから問題ないでしょ?」
「それはそうだ。しかしな……」
 舞の眉がかすかに跳ね上がったが、口に出しては何も言わぬ。彼女はしばらく速水をじっと見つめていた。
 速水の表情は静かなものだった。裏はともかく。
「……まあよい、では、私は先に帰るぞ」
「うん、ごめんね、一緒に帰れなくて」
「気にするな、ではな」
 それだけ言い残すと舞はさっさとハンガーを後にした。
 急に周りが静かになる。残っているのは彼ひとりのようだ。
 速水は舞が出て行った出口の方を向くと、まるで拝むように手を合わせた。
「舞、ほんとにごめん。でも、君にはあまり見られたくないんだ……」
 速水は改めて周囲に誰もいないことを確かめると、ひとり更衣室へと向かった。

「ふん、ふん、ふんっ……」
 街灯が照らすだけの薄暗いグラウンド、その一角にある鉄棒のあたりから、規則正しい呼吸が聞こえてきた。
 速水だった。
 体操服に着替えた彼は、先ほどからずっとストレッチングを繰り返していた。あるときは壁を使い、またあるときは鉄棒を使って念入りに過ぎるほどに身体を伸ばしていった。
「よし、準備運動はこのくらいでいいかな……」
 一声呟いた彼は、そのまま鉄棒にぶら下がると身体をゆっくりと、あちこちを伸ばすようにしながら左右に揺らし始めるではないか。
 その姿はまるで風に翻弄されるミノムシのようでもあり、いささか哀れを誘う格好であった。
 速水の体のあちこちでこき、ぽきと関節がほぐれる音が響いてくる。頃合いを見計らうと、彼はそのままだらんと鉄棒にぶら下がった。
「それにしても……滝川。君だけは友達だと思っていたのに……ひどいや」
 なにやら意味不明の呟きは、聞く者とてなく虚空に消えた。

 速水は気がついていなかったが、その姿を校舎の影から覗く影があった。
 舞だった。
 彼女は先ほどから速水の奇矯とも言える行動をずっと眺めていたのだが、答えはさっぱり出なかった。
 もっとも、まともにあの姿を見ていたとしたら自分が何か言わずにはおれなかったであろう事は容易に想像がつく。
「分からぬ……。あやつめ、確かに訓練には違いなかろうが、なぜあんな奇妙な事をする?」
 舞は彼に声をかけるべきかどうかいささか思案する様子だったが、結局はそのままその場を後にした。

   ***

 翌朝、速水はいつもよりやや早めに学校へ向かっていた。
 校門をくぐると、そのままプレハブ校舎ではなく、女子高校舎へと入っていく。
 ちょうどその頃、購買ではいつものお姉さんが開店の準備をしているところだった。
「すみません」
 背後からの声に振り返ったお姉さんは、速水の真剣な表情に軽い驚きを覚えた。
「あら、いらっしゃい」
 ――この子、こんな真剣な表情になることもあるのね。
 いつもは春風が服を着て歩いているような印象しかなかったので、それも驚きの対象ではあった。
「すみません、もう開いてますか?」
「え、ええ。大丈夫よ。どれかしら?」
「牛乳を……ありったけください」
 返ってきた答えはまた意外なものだった。
「牛乳を? 今在庫は五本ほどあるけれど……」
「それを全部、お願いします」
 お姉さんは目を丸くはしたものの、この小隊の大量購入は別に珍しくもない。本来なら控えるように言われているのだが、速水の真剣な目を見ると何も言えなくなってしまった。
 代金を払うと、速水は風のようにその場を後にした。まるでその姿を誰にも見られたくない、とでもいうかのようだ。
「何が、あったのかしらね?」
 お姉さんは首をかしげながら、追加注文を取るべく電話の受話器を取り上げた。
 物資不足の折、早めの注文は大切であった。

   ***

 その日の昼休み。
 再び女子高から午前の授業終了を告げるチャイムが鳴ると、室内の雰囲気は一挙に緩んだ。
「おーっし、メシだメシっ!」
 滝川の威勢のいい声に、思わず周囲から失笑が漏れる。さすがに彼自身得意だと言い切るだけのことはあった。
 舞は教科書を片付けると、鞄から弁当を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
「皆の者、聞け! 昼食にするぞ!」
 舞の宣言に、あちこちから賛意が上がる。最近はすっかりおなじみとなった光景であった。
 ただ、その日に例外があるとすれば――。
「おい速水、どうした? いかないのか?」
「あ、う、うん……」
「厚志? どうした?」
「ごめん、ちょっと具合が悪くって……。い、いたた……、ご、ごめんっ!」
 それだけ言うと、速水は駆け足で教室を飛び出していった。
 後に残されたメンバーは、ただ呆然と見送るばかりである。
「何だあいつ? 何か悪い物でも食ったか?」
 その言葉に視線が一斉に集まりかけた瞬間、舞の視線が周囲を一閃した。
「……さ、さーて、じゃあ飯でも食うか」
「そ、そっすね師匠」
 表面上は何事もなかったかのように再開したざわめきの中、舞は黙ったまま弁当を取り出すと、そのまま食堂兼調理場へと向かった。
「そろそろ……頃合いかも知れぬな」
 口調は静かであったが、その声はまるで中に鋼でも仕込んであるかのように硬かった。

 ちなみに、速水は昼休み中戻ってこなかったそうな。

   ***

 その夜、夜半過ぎ。
 鉄棒の前に再び速水の姿があった。昼間のことがあったせいかいささか足元がふらついているようにも思えるが、それでも入念にストレッチングを行っている。
「ふう、ふう……。あー、昼間はひどい目にあっちゃったな。おかげで舞の弁当も食べそこなうし……。でも、もう少し頑張らなきゃ……」
「何を頑張るというのだ?」
 聞こえるはずのないその声に、速水は一瞬硬直した。
 と同時に、背後から何かが飛んでくる気配があった。
「!?」
 鍛えられた者特有の俊敏さで立ち上がると、速水はその物体を難なく受け止め――目を丸くした。
「……スポーツドリンク?」
「腹を下した時は水分の補充が必要だそうだ。冷たくしてはおらん、飲め」
「あ、うん、その……」
「飲めといっている」
 静かではあったが有無を言わせない声に、速水は急ぎキャップを開けた。
運動していたのと、確かに少しは水分不足に陥っていたのか、彼はそれをあっという間に飲み干してしまう。
 舞はその様子を黙ってみていたが、速水が落ち着いたと見ると再び口を開く。
「そろそろ、理由を聞かせてもらおうか?」
 あまりに静かな声に、速水は小さく苦笑を浮かべた。
「……まいったな、全部見てたの?」
「そもそもの初めから、細大漏らさずに、な」
 その言葉に、速水の苦笑が大きくなる。
「なんだ、まいったなあ……」
「あんな下手くそな言い訳で、私が黙るなどおかしいとは思わなかったのか?」
「うん、思った。だからかえって不思議だったんだ」
 あまりにあっけらかんとした物言いに、今度は舞のほうが苦笑を浮かべる番だった。
「私にしては待ったと思うぞ。さ、話せ」
「う、うん……」
 再度促されると、速水はいささか照れくさそうに、ぼそぼそと喋り始めた。

   ***

「背丈が欲しい、だと?」
 場所を屋上に移した「査問会」の答弁を聞き、舞は呆れたような声をあげた。いや、目を丸くしていたから実際呆れていたのだろう。
「う、うん。もう少し大きくなれないかな、と思ってね」
 速水の弁によれば、昨日滝川が成長したらしいことを示す言葉にショックを受けたそうな。
それで、普段気にしていた舞と釣り合いが取れないんじゃないか、という思いが再燃したとのことである。
 これを聞いて、舞はますます呆れの表情を深くした。
「たわけ、何をそんなことを気にしているのだ」
「君が気にしなくても、僕が気にするの!」
 ある意味子供っぽいとも言える口調に苦笑しつつ、その奥の真剣さに気づいた舞は多少表情を改めた。
「そうか。だがな厚志、身長の差がついて、それで何か変わるのか?」
「それは、その……」
 反論を封殺されるのかと思ったらしい。いつのまにか速水は面白くなさそうな表情を浮かべていた。
「たわけ、怒っているのではない。まあ、そなたの意見を無下にするつもりはない。人にはそれぞれその、なんだ、願いというやつはあってしかるべきだということは分かっているつもりだ。たとえそれが人から見ればなんと見えようとな。
そういう意味ではそなたの意見を軽んじたように見えたかも知れぬ、すまぬな、厚志」
「いや、そんな謝られることでも……」
 予想外だらけの舞の言葉に、かえって速水の方がなんと言ったらいいのか分からずに口をパクパクするばかりである。
「少し落ち着け。そなたの気持ちは理解できる。多分理解した、と思う……。だがな、無茶をするな。そなたのやりようは苗が育たぬといって無理に引っ張り、ついには引き抜いてしまうようなものだ」
「う、うん……」
 全てを見通され、速水は返す言葉もない。自分でも薄々感づいていただけにその言葉は余計に重かった。
 舞は速水の肩をポンと叩くと、にっこりと微笑んだ。
「厚志、そなたも私も、そのあたりは、その、気にすることはないぞ。我らはまだ、その……成長期、とかいうやつだ。まだこれから伸びるものだ。滝川はそれが一足先にやって来たに過ぎぬ」
「うん……そうだよね。ゴメン、舞にまで心配かけちゃったみたいで」
「わ、分かればよいのだ」
 ようやく笑顔を浮かべた速水に安堵しつつ、舞はほんの少しだけ視線を胸元に落とした。

 どうやら、彼女は彼女でそのあたりにこだわりがあるようである。

   ***

 翌朝。
 一組教室はいつものにぎやかさの中にあった。
「おはよう、舞」
「うむ、おはよう、だ。……そなたも腹は落ち着いたようだな? どうだ?」
「舞、それはもう勘弁してよ……」
 照れくさそうに頭を掻く速水を見て、舞も思わず笑みを浮かべた。
 と、なにやら大音声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には入り口が乱暴に引き開けられた。
「ふいーっ、間に合ったァ……」
 滝川は心底安堵したというふうに大きく息をついた。
「何をやっているのだ。そんなに慌てるくらいならもっと早く出ればよかろうに……」
「本当に、お前さんはギリギリにならないと動かないのな……。足でも鍛える気か?」
 周囲から口々に言われて、滝川一言もなし。
「う、で、でも、最近ますます寝不足で……。なにせあれからまたベッドが狭くなっちまって」
 その言葉に、速水の表情がわずかに変わる。
 ただし、困惑の方向へだが。
「え? でも、特に背が伸びたようには見えないけれど?」
 速水は思い切って真意を正してみたが、帰ってきたのは意外な返答であった。
「はぁ? 何言ってんだよ速水。最近計ってねーけど、別に伸びちゃいねーぜ?」
「え、でもじゃあ、ベッドが狭くなったって……」
「なんだよ疑ってんのか? ほんとだって! なんだったら見に来いよ!」
「え?」
 さらに速水が問いただそうとした時、始業のチャイムが柔らかく鳴った。
「あ、いっけね! じゃあ速水、あとでな!」
「う、うん……」
 そうは言ったものの、速水も舞もさっぱり理解できないまま授業に向かうのであった。

   ***

 放課後、三人は(なぜか舞も一緒だった)滝川の部屋にいたが、速水と舞は期せずして同一の感想を抱いていた。
 ――見るんじゃなかった。
「ほら、ほんとだったろ!」
 滝川はドアを開けながら、自らの事実が証明された者特有の晴れ晴れした表情でふたりを見返した。
「ま、まあ……確かにね」
 半ばひきつりながら頷く速水。舞はといえば言葉もない。
 その部屋を一言で言い表すのならば、混沌と無秩序の連合軍に占拠されていた。
 机の上は勉強道具よりプラモの空き箱のほうが多く積み上げられ、引出しには何かの素材らしきものが入りきらずにはみ出している。
 本棚はと目を転じれば、何かのムックか設定資料集、単行本から文庫までぎっちり押し込まれているが、注目すべきはそのほとんど全てがロボットアニメもので統一されていたことであろうか。
 では、と床に救いを求めても無駄なことで、一瞥しただけでどこにも床らしきものが見えないというのはいっそ壮観ですらあった。
「で、ベッドがこれってわけだね……」
 速水が疲れたような声とともに指し示したのは、混沌の広場というのがむしろふさわしい光景であった。
 ベッドの上にも単行本やら雑誌やらが散乱しており、よく見れば人が丸まったような空間がかろうじて確保されていた。
 ここまで来ると、とてもではないが良くぞ眠れると言いたくなるようなシロモノである。
 ……どうでもいいが、これだけフラクタルかカオスに挑戦しているような部屋を堂々と見せる方もどうかとは思うが。
 ――ま、滝川だし。
 案外ひどい感想をさらっと浮かべながら、速水は傍らに目を転じると明るいといっていいような声をあげた。
「ああ、これじゃなかなか眠れるわけないよねえ……ねえ舞?」
 いささか呆然としていた舞は、いきなり話を振られて慌てて意識を覚醒させた。
「あっ、ああ、そそそうだな……」
「? 芝村、何焦ってんだよ?」
「ななな、なんでもないっ!」
 舞は慌てて否定するが、速水が面白そうに自分を見つめる視線に気がつくと、背中からどっと汗が噴き出した。
 ――く、くそっ! 厚志め、知ってて話を振ったな!
 むろんである。
 速水にとって、これと比肩しうる混沌の所在地は一ヶ所しかありえなかった。
 ――でも、僕もなんだかすごい勘違いしてたみたい……。
 己の所業を振り返り、速水はがっくりと肩を落とした。
 そんなふたりの姿を納得したと受け取ったのか、滝川はニヤリと笑みを浮かべた。
「ま、これで信じてもらえたみてーだけど、いやー、さすがにもう参っちまったよ」
 と、占領軍総司令官は無邪気にのたまうのであった。

   ***

 ちなみに、滝川の「聖域」は、数日後に何者かの手によって完膚なきまでに清掃されてしまったという。
 その時にはぽややんな癖っ毛とポニーテールが見えたとも言うが、真相はまったく闇の中である。
(おわり)


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