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逃避行(終話)


 庄田は、敵のレーザーらしきものが小隊司令の上半身を消し飛ばす瞬間を確かに見た。わずかに残った右手が転げ落ちていく様子がやけにゆっくりとした動きに見える。
 彼が何か声を発する前に、一号車にはさらにいくつかの光条が襲いかかり、そのうちの一発が側面装甲を貫通した。
 閃光。
 派手な轟音と爆煙とともに、一号車は戦闘車両から単なる抽象芸術へと姿を変えた。即応弾薬が誘爆したらしい。砲塔がおもちゃよりも軽々と宙を舞うと、力無く転がった。
「あ、あ……」
 庄田の舌が鉛に変じている間にも、事態はどんどんと変化を見せていた。
『三号車、被弾! 応答なし!』
『大隊本部より入電、我が小隊に救援を要請しています!』
 ――救援だと? 莫迦野郎、助けてほしいのはこっちだ!
『小隊司令、戦死! 庄田百翼長、ご指示を!』
「し、指示だと?」
『そうです! 生き残っている者のうち、あんたが最上位なんですよ!』
 戦場においては、原則としてその場にいる最上位の階級を有する者が指揮を執る。庄田はその原則をいまさらながらに思い出した。
 ――そ、そうだ。今は俺が指揮官だ、指揮官なんだ! 今こそ全員に俺の能力を見せる絶好のチャンスじゃないか。は、早くなんでもいいから命令を出さなけりゃ……。
 だが、意に反して庄田の舌は全く動こうとしなかった。頭の中では取り留めのない思考が渦を巻き、熱と冷気が同時に襲いかかってきて考えが全くまとまらなかった。
『百翼長!』
不意に庄田は足元を掴まれると、一気に車内に引きずり込まれた。目の前には例の古兵が、鬼ですらもう少し穏やかであろう表情で彼を睨みつけていた。
「あんたは俺が教えたことを忘れちまったんですか!? 敵襲だ、戦闘の真っ只中なんだ! ボサッとしている暇なんかありゃしない。さあ、さっさと指揮を……!」
 確かに、そんな余裕などありはしなかった。
 歩兵大隊を強引に突っ切り始めたゴルゴーンが放ったロケット弾が、ようやくのことで生き残っていた二号車と四号車に命中したのは、まさにこの時であった。

 幻獣の使用する生体ロケット弾には爆発式と強酸性式があるが、四号車を襲ったのは前者であった。四号車を襲ったロケット弾は四発だったが、うち三発は周囲に着弾して盛大に火柱を上げ、残りの一発が砲塔左側面に命中、内蔵していた生体火薬を起爆させた。
 一体どこで習得したものか、人類の使用する形成炸薬弾に似た構造をもつ生体火薬は、炸裂と同時に高熱のジェットを装甲にたたきつけ、それ自身を金属蒸気のジェットに変えながら穴をうがち、ついに内部にジェットの奔流を叩きつけた。
 ちなみに、形成炸薬弾の被害半径は、着弾点から直径四〇度ほどの円錐形であると言われている。

 砲弾の発射音など爆竹程度にしか聞こえないほどの轟音が車内を荒れ狂い、庄田は熱と同時にひどく生暖かい何かが自分に降り注いでくるのを感じていた。
 同時に通り過ぎていった閃光に目がくらみ、耳も良く聞こえなくなっていた庄田は、くずれるようにその場に腰をつき、顔についた何かを反射的に拭おうとし、その奇怪な感触に思わず悲鳴を上げかけた。
 出来損ないのジャムのような何かを急いで振り払い、ようやく戻ってきた視力で周囲を見回した庄田は、今度こそ遠慮のない悲鳴を張り上げた。
 車内は、良くいっても地獄だった。
 幸い、ジェットの奔流は庄田や弾薬を辛うじて避けてくれたようだが、それは不運な装填手の頭蓋と、彼を怒鳴りつけていた古兵の上半身をずたずたに引き裂いていた。先ほど庄田に降り注いだのは、ふたりを構成していたさまざまな物質の成れの果てだった。彼の足元には古兵のものらしい下顎が、なぜかほとんど無傷のまま舌と一緒に転がっていた。
「ひっ、ひぃっ……!」
 庄田は顔を引きつらせながら、その場で腰を抜かしていた。彼の股間からは異臭が漂っていたが、周囲はむせ返るほどに血臭が立ち込めていたので、大して目立ちはしなかった。
 しばし呆然としていた庄田は、不意に恐ろしい事実に気がついた。薄暗いはずの車内が、やけに明るく照らし出されていた。それに、今や血の臭いに代わって焦げ臭さが車内を支配している。
 それでようやく、庄田はこの戦車が火に包まれ始めていることに思い至り、不意に恐怖が全身を貫いた。
「あ、あわわわっ!」
 彼は熱を持ち始めていたハッチに取り付くと、強引な勢いで押し開いて上半身を乗り出した。車体前方からかすかなうめき声が聞こえたような気もするが、それは全く無視した。
 庄田はハッチに足をかけるとそのまま宙に踊りだし、地面を数回転がった後、後も見ずに駆け出した。
 四号車が大爆発を起こしたのは、その数秒後のことだった。

   ***

 雨はいまだやむ気配すらなかったが、庄田たちの寄りかかっている木はかなり葉が茂っていたので、それほどには気にしなくてもすむ。いつの間にか、彼は田崎の隣に並んで腰を下ろしていた。ほとんどの装備を放り捨てた身軽な格好とはいえ、人ひとりを支えながら山中をさまよっていれば、いい加減に疲労も増してくる。
 体の芯に鈍い痛みを覚えながら、庄田はぼんやりとこれからのことを考えていた。
 彼のしたことは厳密に言えば脱走、あるいは敵前逃亡とされるべきものであったが、幸いというべきか、それを立証すべき人間はすべてあの四号車と一緒に粉々になってしまった。
 それに小隊もまたその後を追っていたから、真相を知る者はまったくいないと言っていい。
 それに、これは庄田のあずかり知らぬことではあったが、多くの者たちが呪詛の言葉を吐いたであろう大隊司令部と戦区司令部についても心配はいらなかった。
 どんなひねくれた存在がその願いを聞き届けたものか、彼らの言葉はそのまま現実となり、大隊本部は兵士たちと運命をともにしたし、戦区司令部は奇襲型幻獣の攻撃を受けて全滅したのであった。
 一緒に逃げ出した兵士たちが気がかりといえば気がかりだが、彼らとて命令なしに後退したという点は同じだし、互いの顔など覚えている暇もなかった。
 ――そういえば、こいつもあの大隊所属だったな。
 庄田は田崎の部隊章を見ながら、ぼんやりとそんなことを考え込んでいた。一体どこをどう走って逃げたのかは覚えていなかったが、ふと立ち寄った川のほとり(庄田はそこで、水に飛び込む勢いで衣服を洗っていた)に倒れている姿を見つけた。何か役に立つものでもあればと思って近づいてみれば、それが彼女であったというわけだ。
 もちろん驚きはしたが、顔見知り、しかも年下ということで、いささか落ち着きを取り戻した庄田は、傷の手当てをし、彼女をここまで連れてきたというわけである。
「先輩……」
「なんだ、起きていたのか? もう少し休め。俺も少し、疲れた」
 田崎の顔から目をそらしつつ、庄田は呟くように言った。彼女の顔は既に紙のように白く、誰の目にもそう永くないことは明白であった。
「すみません……。じゃあ、お言葉に甘えて、もう少しだけ休んじゃいます。……先輩」
「なんだ?」
「こんなふうに、並んで話すのも、久しぶりですね」
「そうだったかな……」
「ええ、部活のとき、以来ですよ」
 田崎はもともと、庄田も所属していた文芸部の一年後輩であった。面倒見が良くて快活な田崎は部内でもなかなか人気があったが、なぜか彼女は庄田にくっついて回ることが多く、一部ではちょっとした噂の種になったこともあったぐらいであった。
 それを聞いたとき、庄田は顔をしかめたものの、「先輩、先輩」といいながら懐かれるのは別に悪い気分ではなかった。もう少し長く付き合っていれば、庄田が自ら志願していなければ、ふたりの関係はもう少し違ったものになっていたかもしれないと、庄田も思わなくもなかった。
「部活か……。皆はどうしてるかな?」
 つい、そんな言葉が庄田の口からこぼれ出た。かすかに口元もほころんでいる。
 いい思い出などろくにない学校ではあったが、文芸部とその仲間たちにはさほど悪感情を持っていない。いや、あの学校で唯一安らげる場所であったかも知れぬ。
 だが、田崎の言葉は意外なものだった。
「皆、一緒にいましたよ。つい、さっきまで」
 庄田の体が大きく震えた。
「つい、さっき……? ひょっとして……」
「ええ、第一〇四、独立歩兵大隊に。寄せ集めでしたから、全員じゃありませんでしたけど……。皆、大丈夫かな……?」
「そ、そうだな……」
 庄田は心臓の鼓動が急に早くなってくるのを感じていた。雨に打たれ続けたせいで体の心まで冷え切っているはずなのに、体中から気持ちの悪い汗が噴き出していく。かすかに手が震えているのが分かったが、どうしても止められなかった。
 ――頼む、みんな死んでいてくれ。お願いだから、俺が見捨てたなんてことを覚えていそうな奴は、みんな……。俺が悪いんじゃない、だから頼む、死んでいてくれ。
 庄田は膝を抱えながら一心に祈っていたが、それはもとから不必要なことであった。
 軍隊が最も損害が出るのは正面切って殴り合っている時ではなく、後退、あるいは撤退の時である。それが秩序だっていない「壊走」の時にはその被害は何倍にも大きくなる。
 その事実を証明するように、事実上の奇襲によって散り散りに後退を開始した第一〇四歩兵大隊は、それでも撤退開始時にはまだ数百名が生存していたのだが、まったく支援もなく秩序だった指示もない、まさに烏合の衆と化した集団は、それからほんの数十分のうちに十数名を残して全滅していたのだ。
 生存者の中に、庄田の見知っている者はいなかった。
「先輩? ……どうしたん、ですか?」
 苦しそうな声に、庄田は思わず悲鳴を上げそうになった。見れば、田崎が死の影さえ漂い始めたこんな時にまで、庄田を心配そうに見つめている。瞳にこめられた何かに耐え切れなくなった庄田は余裕のない目で睨みつけかけて――はっと動きを止めた。
「せん、ぱい?」
 田崎の声を無視して、庄田は耳に神経を集中する。また何か、弾けるような音がした。
 かなりの距離はあるが、間違いなく銃声だった。友軍のものかどうかは分からない。銃なら奇襲型幻獣――その多くは第五世代である――も使用するし、味方ならなおのこと戦線が近づいてきている証拠でもある。
 庄田の動悸はいっそう早くなっていた。頭の中が徐々に真っ白になり、灼熱と極寒の入り混じった例の感じが体内を支配し、何も考えられなくなっている。
「どうしたん、ですか?」
 庄田は、田崎をまるで物でも見るような目つきでねめつけた。
 ――このままでは共倒れだ。だが、俺ひとりなら……。それに、こいつは放っておいてもそのうち死ぬ。ならば……。
 つい先ほどまでなら、この男にも一片の逡巡といったものがあったかもしれないが、今やそれはきれいさっぱりと消え去っていた。
 ならば、次は行動あるのみである。
 庄田は田崎の脇にかがみこむと、傷口を仔細に点検するふりをした。なにやら頷き、布をいったん外し、それからきつく締めなおす。
「痛っ……。せん、ぱい。どうしたん、ですか?」
「いいか美香、良く聞け。正直、これ以上お前を動かすことはできない。今ですら出血がひどすぎる。このまま行けば、お前は、死ぬ」
 田崎はほんの少しだけ目を見開いたが、気丈にも何も言わずに黙って頷いた。
「おそらく、動かせば一時間も持つまい。だが、このまま静かにしていれば、そこそこには持つはずだ。その間に俺は、た、助けを呼んでくる。……待てるか」
「はい」
 一瞬のためらいもない返事に、庄田はかなりの戸惑いを覚えた。
「なんでそんなに、あっさり言えるんだ? 死ぬかもしれないし、その、敵が来るかも知れないんだぞ?」
「先輩を、信じてますから」
 そういうと、田崎はにっこりと微笑んだ。
 その表情に含まれた何かに耐え切れなくなった庄田は、ふいと顔を背けると、「頑張れよ」とだけ呟くように言うと、後も見ずに駆け出した。
 かすむ視界に消えていく庄田の影を、それでも田崎は本当に見えなくなるまで追いかけていたが、徐々に視界の周囲から闇が忍び寄ってきて、やがて完全に見えなくなってしまった。
 ――先輩、ありがとう。
 田崎は最後にそう言ったつもりだったが、もはや唇は震えもせず、彼女の意識はそれを最後にそのまま暗黒の中に飲み込まれていった。

 庄田の頭の中では、先ほどの田崎の言葉がずっとリフレインを繰り返していた。
 ――先輩を、信じていますから。
「莫迦野郎! 勝手に人を信じるんじゃねえ! 俺は、俺はただ生きたいだけなんだ! だから、これ以上俺を呼ぶなァッ!!」
 山道であることを忘れたかのように、庄田はただひたすら駆け続けた。先ほどの銃声はだいぶくぐもっていたからまだ距離はある。今のうちに全力で走れば十分に逃げ切れるはずだった。
 そのあたりのことは、例の古兵が教えてくれたことであったが、今の庄田はまったく覚えていない。
 全身を汗みずくにして、半泣きになりながらも田崎はひたすら駆けた。何もかも捨ててでも、ただひたすらに生き延びたい。その一念が砕けそうになる膝に力を与え、体に活力をもたらしていた。
 だが、それがかなえられることがなかった。
 ふいに数発の銃弾が、庄田の目の前を通り過ぎ、ついで足元に着弾した。その場にへたり込んだ彼が慌てて周囲を見回すと、明らかに自衛軍とも、ましてや生徒会連合とも違う、黒の夜戦服に身を包んだ男たちが数名、彼を取り囲むようにして立っているではないか。
 ――まさか。
「幻獣、共生派……?」
 震える声に、返事はなかった。彼らは一歩、また一歩と、銃口を向けたままゆっくりと近づいてくる。
 ――嫌だ、やめてくれ。俺はまだ生きたい、死にたくなんかない。やめてくれ、頼む、お願いだ……。
 その瞬間、庄田の中で何かが弾けた。
 男たちが三メートルほどの距離まで近づいたとき、彼らは庄田に異変が発生していることに気がついた。
 彼は、低い笑い声を発していたが、それはだんだんと大きくなっていったかと思うと、やがてあたりを圧するような哄笑へと変わっていった。
 ただ笑い続けるだけの庄田に、男たちは互いに困惑し、顔を見合わせた。

   ***

 まるで、黒い海に浮かんでいるようだった。
 何もかもがあいまいで、恐ろしく冷たい。これが「死」というものかと、田崎はぼんやりと考えていた。
 ――先輩、待っていたかったけど、やっぱりだめみたいです。ごめんなさい……。
 上下も定かならぬ空間を漂いながらそんなことを考えていると、ふいにはるか頭上に一条の光が差し込んできた。
 ――この光は、何? なんだか、あたたかい……。
 その光に吸い寄せられながら、田崎はぼんやりとそんなことを考えていたが、全てが明確になる前に、彼女は光の中に飲み込まれ、彼女は再び意識を失った。

 再び気がついたとき、田崎は自分がベッドに寝かされているのに気がついた。全身はまだ氷でも抱いているかのように寒かったが、それでも奈落の底に落ちていくような、どうしようもなく嫌な感じは遠くに去っていた。
 体を締め付ける感覚はまったくない。どうやら、手術着のようなものを着せられているらしい。
「気がついたかね?」
 まだ少しぼんやりする目を向けると、傍らには着た初老の男が立っていた、半ば白くなった髪をオールバックにまとめ、白衣をまとったその姿は、どう見ても医者にしか見えない。
「ここ、は……?」
「ちょっと待ちなさい。これを済ませばもう少し楽になるはずだから」
 彼は田崎の腕に素早くゴムチューブを巻くと脱脂綿で腕をこすり、看護婦から受け取った注射をあっという間に彼女の腕に突き立てた。が、その動きの素早さに反比例して、痛みはまったくない。
 チューブを外すと、男はゆっくりと薬液を送り込む。針を突き立てられたところから、徐々に温かみが広がっていくような、そんな気がした。
「失血がかなりひどかったな。もう少ししたらいくら第六世代といえども危なかったところだが……、体力の強靭さはさすがだな。それと、傷口がしばらくきつく縛られたままになっていたから、組織が一部壊疽をおこしていた。少し筋肉を削らせてもらったが、普通に歩く分には問題ないし、なに、クローニング処置を受ければ傷も残るまい。しばらくは今のまま安静にしていなさい」
「ここは……? あなたは一体誰ですか? 自衛軍か生徒会連合の方ですか?」
 駐車された薬液のせいか、先ほどよりは意識がしっかりしてきた田崎が尋ねてみても、男は首を振るばかりだった。
「じゃあ、民間の方ですか?」
 一部民間組織が、軍の補助として医療活動を行っていると聞いたことがあったので、それかと思ったのだが、男はまた首を振る。
「じゃあ、一体あなたたちは……?」
「そうだな、簡単に言うと、君たちには幻獣共生派と呼ばれているよ」
「!」
 田崎は驚きと、何より恐怖のために思わず飛びのこうとしたが、途端に右足を鋭い痛みが貫いた。
「無茶はよしなさい、右足を失いたいのかね? 足丸ごとの交換はなかなかできないんだよ?」
「だ、だって……。げ、幻獣共生派がなんでこんなことを、しかも、敵であるはずの私を……?」
 彼女の混乱をもっともであると思ったのか、男は軽くあごひげをしごくと、小さく頷いた。
「君の疑問ももっともだな。ならば簡単に説明でもさせてもらおうか。どうせ動けないのだから、信じる信じないは別として、まあ、暇つぶしにでも聞いてくれるかね?」
 田崎が恐る恐る頷くと、男は――後で聞くと、元はちゃんと正規の免許を持った医師だったそうだ――ゆっくりと話し出した。
 彼の話をかいつまんで言うと、彼らは幻獣共生派の中でも穏健派に属し、全人類と幻獣の共存を主軸に掲げているとのことである。だからこそ主流派たりえないともいえたが、彼らは特に気にもしていないようだ。
 彼らは戦場での負傷者救護のためこの近くを捜索しており、そこで彼女を発見したのだという。スローガンに忠実な彼らの救護対象に敵味方の区別はない。
「我々は相手が誰であろうと治療を施すことを旨としている。だから、患者である君に危害は加えない。体力が回復するまではここにいて、後は好きなところに行くがいい」
「でも、そんなことをして、後で困らないんですか?」
 田崎は、暗に自分が軍に通報するかもしれないとほのめかしたつもりだったが、意志はまったく動じる気配もなかった。
「それは承知の上だし、君の意志ならば仕方がない。私たちはただ、私たちに出来ることを続けるのみだ」
 この言葉に、田崎はただ苦笑するしかなかった。
「分かりました。わたしは一切この件に関しては口外しません。それと……すみませんが、傷が治るまで、よろしくお願いいたします」
 ぺこりと頭を下げられて、今度は医師が苦笑する番だった。
「お願いされようじゃないか。自分で言うのもなんだが、私はこれでも少々腕に覚えがあるほうなんでね。君がちゃんと歩けるようになるのは保証するよ」
「はい。……そういえば、この近くに庄田という人がいませんでしたか? せんぱ……いえ、彼は、私のために、助けを呼びに行ってくれたんですけど……」
「その男は、軍人なのか?」
「はい、私と同じ学兵です。……知っているんですか?」
 医師は一瞬表情を変えたような気もするが、それはすぐに先ほどまでの温和な表情の中に隠れてしまった。
 彼は黙って首を振り、
「さあな。このあたりで見かけたのは君だけだ。その彼はよほど遠くまで行ったのだろう……」とだけ答えた。
「そうですか……。私はあの人にお礼を言わなければならないんです」
「それはまたあとのことだ。さあ、もう休むといい。だいぶ疲れているはずだ」
 医師の言葉はあくまで優しく、田崎に、というよりは患者に対する慈愛に溢れていた。
 その言葉に素直に従い、彼女が静かな寝息を立て始めた事を確認すると、医師はそっと部屋を出た。
 彼は、ひとつだけ嘘をついていた。

 医師が医療用のバラックを出ると、少し離れたところに別の建物があった。その中から何やら薄気味悪い声が聞こえてくる。
 医師が中に入ると、そこには庄田が地面に座り込んでいたが、彼の目の焦点は合っておらず、へらへらと口の端からよだれを垂れ流しながら笑い続けるばかりであった。股間のあたりからは異臭が漂っている。
 同じく白衣を着た、やや若い男が手元のボードに何やら書き付けていた。
「どうだ? 様子は」
「駄目ですね。完全に発狂しています」
 助手の報告に、医師は哀れな生き物を見るような目で庄田を眺めていた。
 庄田は、幻獣共生派に包囲された後、しばらく笑い続けていたが、何を思ったかいきなり田崎のことを話し出した。彼は田崎は重要な情報を持っているから、そいつを先に捕まえろとまで言ったそうだ。
 だが、それでも兵士たちがまったく反応を示さないと見ると、彼は再び奇怪な声を上げながら、ついには糞尿を漏らしつつ笑い続けていたそうだ。
 正直な話、医師たちが田崎を発見できたのは、彼の「自白」によるものだったのだ。
「それにしても……。この男はどうします?」
「……私は体の傷は癒せるが、心の傷は治療できんよ。ましてや完膚なきまでに破砕されたあとではな」
「そうですね……」
 医師の言葉に、助手も苦い物を飲み込んだような表情を浮かべた。
 幻獣共生派のうち、武闘派に属する兵士がふたりがかりで引っ立てていく間も、庄田は既に何も理解できないかのように笑い続けていた。
 それを見て、医師の脳裏に先ほど田崎が言った言葉が思い出された。彼は口元に皮肉っぽい笑いを小さく浮かべると、そっと呟いた。

「なるほど。彼は確かに身を挺して助けを呼んだのだな」と。
(おわり)


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