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逃避行(その1)


 視界は、あまり良くなかった。
 峻険な山地が重なり合い、まるでそれ自体が屏風のように辺りを覆い隠している。普段なら自然の雄大さを感じてやまないであろうその眺めも、今はただ邪魔なだけだった。
 木々はそろそろ若葉が茂り、己の生命力を誇示するかのように緑色の葉を若々しく茂らせ始めていたが、あいにくと空そのものが落ちてきそうな曇天のもとでは、それも随分と効果を減じていると言わざるをえない。
 やがて、本当に天から大粒の水滴がこぼれ出し、木々の葉を揺らし始めた。
 最初はかなりの間隔をおいて、まるで試し打ちするかのような調子だったそれは、たちまちのうちにピッチを上げ、やがて顔も上げられないような豪雨に変わっていく。半ば下草に隠された地面が見る見るうちに泥濘と化していった。
 そんな、よもや誰かいるとも思えなさそうな場所を、男はゆっくりと一歩、また一歩と歩を進めていた。
「はあっ、はあっ、はあ……」
 人間の都合などおかまいなしの凹凸が続く中、すっかりぬかるんだ地面に時々足元をとられつつ、男はいつ見えるとも知れないゴールへ向かって歩き続けていく。後どれくらい歩けばいいものやら見当もつかなかったが、男はすでにそれについて考えることはやめていた。その問題を真面目に突き詰めていくと気が狂いそうだったし、今は他にも心配しなければならないこともある。
 服装を見れば、彼の職業を間違える者はいないであろう。何しろ彼の商売は今、この九州で最も繁盛しているのだから。
 だがその服は、ほんの数日前なら折り目さえはっきりと見えていたというのに、今は泥と汗、そして叩きつける雨粒で見る影も無くなっている。
 数カ所破けているのはどこかに引っかけたのか、それとも破片で切り裂かれたものであろうか。どうやら切り口を己の血で染める不運に見舞われることだけは避けられたようだ。血痕自体はあちこちにこびりついているが、その材料は少なくとも本人ではない。
 彼は、似たような姿をしている女に肩を貸しながら、よろめく足をようやくのことで踏み締めている。あらゆる状況に対応できるはずの靴底は頑丈なつくりをしているというのに、踏みつける木の根の感触が、やけに男の気に触った。
「庄田、百翼長……」
 半ば担がれるようにされた女が、かすかな声を上げた。庄田と呼ばれた男は、今さらながらに背中に当たるふくよかな感触を思い出し、少し足を止めると、優しげな声をあげた。
「どうした田崎戦士……いや、美香。傷口が痛むのか? それと、そんな他人行儀はよせ。どうせここには俺とお前しかいないんだからな」
 名前で呼ばれた田崎は軽く目を見開くと、雨で額に張り付いた長い黒髪をかき上げ、照れ臭げに微笑んだ。そうして見ると、泥と硝煙で汚れているとはいえ、彼女の顔立ちはなかなかに整ったものだったが、同時に驚くほど幼くも見えた。
 当たり前かもしれない。
 田崎はわずかであるとはいえ庄田より年下であったし、その庄田にしてからが、いかなる理由からも成人と呼ばれるような年齢ではなかったのだから。
「いえ、大丈夫です……。庄田先輩、久しぶりですね、その呼び方」
「そうだったかな……」
「ええ、あなたが出て行った、あの時以来ですよ」
 何を思い出したのか、田崎の声はどことなく楽しげだった。
「そう、そうだな……」
「すみません、ドジ踏んじゃって……」
 庄田の表情がかすかに変化したのに気づかず、田崎は気丈にも微笑みつつ言葉を継ごうとしたが、それは朗らかと言っていい、だが強めの声で遮られた。
「気にするな。戦場においては相身互い、というやつだ。それ以上喋るな、体力を消耗するし、第一傷にも良くない」
 庄田はそう言いつつ、視線を下に向けた。
 田崎の右足にはざっくりと大きな傷が刻まれており、引き裂かれたズボンの切り口は深紅に染まっている。むろん、傷口にはありあわせの布が巻かれ、テーピングベルトできつく縛られているが、そこからはいまだに紅い滴がたれ、木々の緑に対抗するかのように地面に模様を描いていた。脳裏に先ほど応急処置をしたときの彼女の姿がよみがえり、庄田の一部にかすかな変化がおきたが、次の瞬間思い当たった事実に、彼は思わず背筋を振るわせた。
 ――まずいな、この血に連中が気がついたら……。
 むろん、この雨はそんなものなどあっという間に洗い流してくれる可能性のほうが高かったが、確証はなかった。
 なにしろ、何もかもが「間違いない」のならば、自分が今頃こんなところを、救援すら期待できないままに青息吐息で逃げ回っているはずはないのだから。
 田崎は先ほどの会話で余力を使い果たしたのか、喋ろうとはせぬ。右足を地につける時だけかすかに顔をしかめるが、後は黙々と歩いていた。
 ――このままじゃ……。
「ともかく、今は歩くことだけを考えろ。休めそうにないが、すまんな」
 庄田が田崎に向けた視線は、声と違ってひどく冷たかった。

   ***

 人類が幻獣との戦争を開始してから、はや半世紀が経過しようとしていた。
 平野・山岳・森林・海洋・そして、空。
圧倒的な戦力を背景に蹂躙していく幻獣に対し、人類はあらゆる土地、あらゆる地形で戦い続け――そして、敗北を重ねてきた。
 必要とあれば人類はどこでも戦場に変え、場合によっては陽光にも似た、だが随分と禍々しいきらめきとともに全てを焼き払ってきた。その跡は見る者もいないままに、いまだ世界各地に刻印されている。
 してみると、この九州という、全地球規模から見ればとるにたりない地域の隅々までを、最後の一片まで焼き尽くす勢いで戦っているのは、全く驚くに値しないのかもしれない。
 一九九八年、幻獣による奇襲攻撃を号砲として、全く正式の手順を踏むことなしに開始された第三次防衛戦――九州戦線――は、それまで繰り返された戦いと同じ、取るに足らないものでしかなかった。ひとつ違いがあったとすれば、ここを奪われれば日本のサバイバビリティは著しく低下するという、その一点だけであったろうか。幻獣にしてみればどうでもいい話だった。
 いや、驚くべきことに、当事者たる九州在住者や軍の一部以外にとっても、それは似たり寄ったりだった。目の前に砲弾が落下し、自らや肉親・知人の体が吹き飛ばされるか、一生消えることのない傷を負うその瞬間まで、実感など抱けないというのが本当のところかもしれないが。
 例外は軍の一部と政府機関であった。
 軍は自らの失態がこの事態を招いた事を正確に理解し、それこそ死に物狂いで戦力の再編に努めていた。そして政府は再編までの時間稼ぎを行うべく、どこか頭のネジが緩んだような、俄かには信じがたい政策を次々と実行に移していく。
 敵の攻撃が一時的に消滅した期間を縫うようにして成立した第二次学徒動員法、通称「学兵法」が成立したのがその最たるものであった。
 むろんこの法案を考え、提出した当人たちは大真面目であったし、九州以降も続いた戦いの中、最終的にぎりぎりのところで最悪の破局だけは回避できたのは、この法案が有効であったからだと言ってもいい。
 しかし、いかに正規軍が底をついたからとはいえ、これからの未来を担うべき子供たちを強制的に駆り集め、煉獄にも似た戦場へと送り込んで恥じないその姿勢については、大いに責められるべきかもしれない。
 まあ、その時にこの法案に賛成した議員の大半は、後に勃発した西日本動乱とそれに続く内戦のさなか、決起軍によって行われた東京奇襲攻撃において死亡したというから、ある意味責任はとった、そう言えるのかも知れない。実際に攻撃を行ったのは生徒会連合九州軍の残存部隊であったそうだから、仇を取ったと言ってもいいだろう。
 すでにこの世でないどこかへと出撃してしまった者にとっては、何の慰めにもならないかも知れなかったが。

 庄田にとっていささか未来に属する事項はさておき、彼はこの戦争が始まるまで、軍人になる気などさらさらなかった。
 神奈川の生まれであり、どうということのない家の次男坊に生まれた庄田は、この世界においてごく初期以外、奇跡的に惨禍を免れてきた日本に住むその他大勢と同様、風雲急を告げ始めた九州とは縁もゆかりもなかった。その気になれば、関東地方が幻獣の足下に踏みしだかれるその瞬間まで、のんきらしい学生生活を無自覚に送ることも可能なはずだった。
 だが、仁川防衛戦とユーラシア大陸からの人類の完全な撤退、そしてあたりに流れるきな臭いうわさは、庄田にしてみれば一種のチャンスのように思えた。
 これといった特色もなく、何か人に秀でた技能がある訳でもない彼であったが、人並みの自己顕示欲と野心にまで無縁であったわけではなかったので、戦場に赴くことは、いわゆる「ハク」をつけることになるのではないか、そう思ったのだ。それはもしかしたら、つい先日母親に言われた一言が原因であったかもしれない。
 ――本当にあんたは、何の欲にも立たないねぇ。
 この程度の言葉で決断するからこそ言われた言葉なのかもしれないが、少なくともこの当時の庄田にとっては十分であった。今にして思えば一生の大誤算であったのに間違いないが、彼は、これこそ自分の真価が発揮できる場所だと信じて疑わず、意気揚揚とした気分のままに登校すると、その足で職員室へと向かったのであった。
 庄田を見た彼の担任は、普段ついぞ見ることのなかった彼が何故ここにいるのか理解できない様子で、しばらくの間怪訝そうな表情を浮かべていたが、庄田が差し出した紙片を受け取り、何気なく中を見た途端に表情を引きつらせた。
「お、お前、本気なのか?」
「はい!」
 むしろきっぱりと言い返され、担任は今度こそ言葉を失った。何事かと周りで様子を見ていた教師たちも紙片を覗き込むが、顔色こそさまざまだが、誰もがそれを見た瞬間に似たような表情を浮かべていく。
 庄田は無表情のまま何も言わなかったが、目には抑えようもないおかしみと――そして、優越感が漂っていた。
 ――どうだ、あんたらはまさか俺がこんなことを考えていたなんて気づきもしなかっただろう? だが、俺はやる時にはやるんだよ。あんたらが考えもしないような、でっかいことをな。
 何人かが信じられないと言う目で自分を見ているのに気がついた庄田は、口元にかすかな笑みを浮かべたが、「信じられないこと」の理由が彼と考えているものとは違っているとは思いもしなかった。
 その日のホームルームの開始は、三〇分ほど遅れた。

 クラスメートたちの反応も、担任と似たり寄ったりだった。
「……というわけで、庄田、いや、庄田『戦士』は、本日付をもって生徒会連合軍への入隊を志願、近日中に九州戦線へと転属することになった」
 担任の発する抑揚のない声が、教室の中を流れていく。先ほどまでのやり取りを思い出し、庄田はその声をあまり面白からぬ思いで聞いていたが、その直後、教室はざわめきに満たされた。
「庄田、お前本気かよ!?」
「びっくりしたぁ……。庄田君って勇気があるんだあ」
 クラスメートたちが次々に驚きと彼に対する賞賛――少なくとも庄田はそう信じていた――を一身に受け、先ほどまでの感想などどこかに吹き飛んでしまっていた。
「静かに。……このあと庄田戦士は各種手続き、ならびに転属のための準備が必要なため、皆と一緒に過ごすのは今日の午前中までとなる、以上だ。庄田戦士、席につきなさい」
 庄田は胸を張りながら席に着いた。周囲の視線が今の彼には心地よい。
 近年の学校は、軍事教練の義務化で軍事色をだいぶ強めていたとはいうものの、まだこの時点では生徒会連合軍との直接のつながりはない。生徒会連合が志願制から徴兵制に切り替わり、各学校単位での部隊編成を積極的に推し進めていくのは学兵法成立後の話である。
 その意味では、担任が庄田の事を階級つきで呼ぶ必要はまったくないのだが、なにしろこの学校で初めての志願である。多少の混乱があるのも仕方がない。
 いや、もしかしたらそれは、担任なりの皮肉だったのかもしれない。

 庄田にとって、この学校での最後の昼休みは満足と不満足の混濁液のようなものとなっていた。
 満足のほうは言うまでもない、周囲から寄せられる驚きと賞賛の声、一躍注目の的になったことがその原因となっている。彼は休み時間のたびに動機を聞かれ、決意の程を語らされた。昼食時など、よそのクラスの連中までが彼を取り囲んだほどであった。
 それはまさに、彼のこの学校における絶頂期といえた。
 では不満のほうはといえば、それも周囲が原因だった。
 最初のうちは気がつかなかったのだが、だんだんと残り時間が少なくなってくるにつれて、クラスメートたちの言葉の中に、庄田に対するもうひとつの感情が隠されていることに気がついたのだ。
 ――何もわざわざ危険なところに行かなくったって。
 ――怪我したり、死んじゃうかもしれないんだよ?
 ――ほんと、お前も物好きだよなあ。
 言葉の端々に現れたそれは、どことなく庄田に対する哀れみが込められているように彼には感じられた。わざわざ戦いになどいって命を落とすかもしれないことには、同級生たちは庄田と同様の見解を持つことができなかったのだ。
 唯一、田崎という一年後輩だけは本気で彼のことを案じていたようであった。それは庄田の心になにがしかの波を立たせずにはおかなかったが、同時に意気あがる彼に水を差す結果にしかならず、邪険に追い払っただけであった。
 その他大勢の見解については、面白くない事実であったが、普段の彼なら仏頂面のひとつでもして見せるはずのところ、全く表に出すことはなかった。
 ――莫迦野郎、俺はこれからなんだ。その第一歩を俺は踏み出した。お前らだってそのうちに、どうしようもなくなってからいっせいに刈り取られて集められるんだろうが、そん時にはもう、お前たちには自分の意見なんてものはないんだ。
 尋常ではないほどの庄田の笑顔に、クラスメートたちは戸惑い、何やかやと理由をつけては徐々に立ち去っていった。
 ――ざまあみやがれ。
 そう思うと、心の中が妙に晴れやかになった。
 彼の予測は、確かに一部においては正しかった。
 九州に着任した庄田は、その足で前線勤務を志願したが、ちょうどこの頃は九州に送り込むべき頭数、それも指揮を取る士官級が絶対的に不足していたという事情もあり、志願者は例えいささか能力に問題があったとしても、優先的に昇進の上、要望をかなえられることになっていたのだ。
 ある意味それは香典の前渡しに等しいものだった。
 庄田はまさに全ての条件を満たしていた。彼はその場で十翼長に昇進、数日後、車両操縦資格の取得と同時に百翼長に昇進させられた上で、その当時は虎の子の機甲小隊の分隊長というか、そんな立場の車両に士官として配属されたのだ。
 これは彼にとって、自分の能力が認められた第一歩だと認識され、その職務に邁進させる原因となった。
 後に学兵法が成立し、クラスメートたちが強制徴募によってただの戦士として九州に送り込まれた(むろん、彼とは別の部隊ではあるが)と聞いたことも、彼の考えを補強する要素のひとつとして働いた。
 戦士と百翼長、この差は大きい。
 学兵における一部特殊事例だけを見ているととてもそうは思えなくなるのだが、軍隊における階級は大抵の場合において絶対であり(これを上回るのは実戦経験だけだが、そんなものが彼らにあるわけがなかった)、極端な話、庄田はクラスメートに対して死ねと命令できる立場に立ったといえるのだ。
 少なくとも自分は、ただ使われるだけではなく、無闇に死を命じられる立場ではない。庄田は、その時点では己の判断の正しさに満足感を覚え、同級生に対しては、ただ命令に従い死ぬほかはない運命に憐憫の情を抱いた。
 実のところ、正規軍のための楯という現実から見れば、彼らの間に大した差などなかったのだが、庄田がそのことに気がつくことはなかった。

   ***

 雨はさらにひどさを増していた。自らをさえぎる楯のように見えていた山並みも、雨霧のなかにかすかにけぶるだけとなっている。
 先ほどまでは自らの邪魔をする存在にしか見えなかったそれが目の前からなくなった途端、庄田は何ともいいようのない不安を抱いた。実際にはこの霧が邪魔をしているにもかかわらず、自らが敵の真っ只中に放り出されたように思えた。
 泥色の流れすら見えるようになった足元にいっそうの注意を払いつつ、彼らは山を回りこみながら北上を続けていた。
 下の、山間を縫うように走る舗装路を使えばもう少し行程も上がったろうし、場合によっては味方の援軍に見つけてもらえた可能性もあったかもしれないが、現状を考えた場合、庄田はそのプランを選ぶことが恐ろしくてたまらなかった。
 どう考えても負け戦であった先ほどの戦闘で、戦線はいたるところで穴だらけとなっていた。
 とすれば、援軍はその穴を埋めるために送られてくるのであろうし、彼らにはそこら辺に散らばった兵士を片っ端から部隊に放り込む権限が与えられているはずである。ようやくのことで逃げ出した地獄にもう一度向かうなど、庄田には考えられなかった。
 それに、見通しのいい道路は、進撃してくる敵にとっても同様であった。自分からわざわざ射的の的になる気はない。
 その限りにおいて庄田の判断は間違っていなかったのだが、それは同時にどこまでも個人の生存を優先した、利己的な判断であったこともまた確かであった。
 大粒の雨が庄田たちを遠慮なく濡らす。
 山林を歩いているおかげで直接雨にさらされるよりはましであったが、その分落ちてくる雫はかなりの大きさである。
 庄田はちらりと傍らに視線を走らせた。
 急に回復するわけもなかったが、少なくとも田崎は今のところこれ以上ペースを落とすこともなく、どうにか歩き続けていた。ただ、彼女の顔色は先ほどよりかすかに悪くなっているような気もする。
 ――さっきは助けたものの……これからどうしたらいいんだ? 俺ひとりでさえどうなるか分からないっていうのに。
 なんだか、肩にかかる重みが急に増した気がした。
 庄田にはそれが、自らを絡め取る鎖の重さに思えた。


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