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その3(終話)


 ともあれ、原からの援助(?)を受けた舞は、その日からより一層精力的にデートコースの選定に励むことになる。
 ただ、この辺りから自らの限界も同時に悟り始めたものか、むやみやたらとオリジナリティのみを追求する姿勢は影をひそめつつあった。要は主導権を握れればいいのであり、速水と一緒に行った事があるかどうかは二義的な問題とされた。
 これは原の影響か、それとも単に考えるのに疲れたか……。
 どちらかとはにわかに定めがたい問題であった。
「ふむ、そうやって考えてみると結構選択肢というのはあるものだな……しかし……」
 そう言いながら舞はスプーンをシチューのレトルトパックに突っ込むと、少しかき回してから口に運んだ。
 軍用レーションは温めなくても食べられるとはいえ、冷たいままのシチューはさすがに味気ない。だが、今の舞は調理する間も食べに行く時間も惜しかった。
 空になったパックはそのままごみ箱に向けて放り投げる。少し狙いが甘かったのか、縁に弾かれて落ちてしまった。
 ……速水あたりが見たら、お小言のひとつも飛んできそうな光景ではある。
「ともかく現状からすると、さして遠くへいけるわけではないからな……」
 舞はポテトベーコンのレーションパックを開けながら、目的地リストを開いた。
 まず、リストから最初に外されたのは、熊本市から見て遠距離にある観光スポットだった。理由は簡単。いかに復興が進んできたとはいえ、戦争の影響で交通機関が役に立たないからだ。
 公共交通機関の大半は軍の管轄下だったり、ダイヤがめちゃくちゃだったりとろくな事がない。いつか県南部の自然公園へと行った事があるが、あれなどは無事にたどり着けたのは、どちらかというと奇跡の範疇に近い。
 長いリストのあちこちに遠慮なく×がつけられる。
「そして、これらも除外だ」
 次にリストから外されたのはいわゆるアミューズメントやテーマパークである。これは営業していないところも多く、仮にやっていたとしても舞自身がよく分からない。それでは主導権など握れるはずもなかった。
 缶から取り出したクラッカーを片手に、またもや×の行列が増えていく。
 条件を課していくたびに候補は次々と消えていき、結局残ったのは熊本市周辺だけというありさまだった。
 いささか不満はあったものの、絶対的条件はいかんともしがたい。舞はミネラルウォーターで口を湿らせながら、さらに条件の絞り込みを開始した。
 ……ところで舞さん、軍用レーションは戦場での栄養確保のため、大変高カロリーであるということは知ってますか?

   ***

 舞が「作戦立案」に夢中になっている一方で、最も割を食ったのは間違いなく速水であった。彼はここ数日、まったくといっていいほど舞としゃべっていなかった。
 あれ以来手作り弁当もぷっつりと途絶え、まるで速水など存在しないかのような態度を取られてしまうと、さしもの彼もほとほと参った。とはいえ、なにしろ自分から言い出したことだから、舞に文句をつけるわけにもいかない。
 後悔していないといえば思いっきり嘘になるが、あそこまで一生懸命になられてしまうと、今さらやめさせるわけにもいかなかった。
 ――なんか、すごく頑張ってるんだもんなあ。
 かくして今日もまた、授業が終わると同時に風のように立ち去る舞を、ただ呆然と見送ることになるのである。
 すでに追いかける気力も残っていないらしい。
「舞ぃ〜」
 寂しげな遠吠えが、プレハブ校舎にこだまする。
「うう、あんな事言うんじゃなかったかなあ……。舞ぃ〜」
 すでに完全なほったらかしモードである。
 なんだか女房に捨てられたダメ親父のような、うらぶれた雰囲気すらかもし出しているのがより一層哀れを誘う。
 まるで幽鬼のようにふらつく彼に周囲も声をかけるにかけられず、寄せられるのは同情と憐憫、それに興味の入り混じった生暖かい視線だけだった。それも速水が顔を向けるとたちまちに消え去ってしまう。
 誰もが、滝川の二の舞はごめんだと思っていた。
 人ののろけ話ほど、聞いてて腹の立つものはないのである。

   ***

 日は流れて三月一一日(土)午前三時二五分。
「こ、これでよし……」
 心身ともに疲労しきった声で舞が呟いた。だが瞳には光が宿っている。
 ついに計画が完成したのだ。
 とはいっても、ベースは原が(主に前半に)言ったのとさして変わりないし、改めて見返してみるとやけに分量が少ないような気もする。舞は数秒間じっとそれを見つめていたが、
「……まあよい。ともかく主導権は我が手にあるのだ」
 と、なぜかやや自信なさそうに呟いた。
 それでも高揚した気分を害するほどでもなかったが、ふと後ろを振り返った瞬間、そんな気分は消し飛んでしまった。
 山積みになったレーションパックのカラ、しっかりとたまっている洗濯物、そこらへんでごみくずと化している廃棄されたリストの数々、打ち出しっぱなしのプリントアウト……。
 近来まれに見る散らかりっぷりである。
 彼女の計画では「速水を自宅に呼びつける(必須)」というところから始まっていたのだが、さっそくその第一歩からつまづきそうな危険性満載といった感じである。
「ま、まずい……」
 計画表を机の上に放り出し、慌てて周囲の片付けを始める舞だったが、もちろん、その程度で朝までに片付くわけはないのであった。

 同日、昼休み。
 速水はひとりぼんやりとプレハブ校舎の屋上に陣取り、ひとり寂しく昼食をとっていた。
 彼が食べていたのは自作のサンドイッチだったが、それは彼の心情を反映しているかのごとく、ハムとレタスが実にいいかげんに挟み込まれただけの乱暴なシロモノである。かつて萌が語った「熟練の主婦の技」など薬にしたくても見当たらないような体たらくであった。
 半ば機械的にサンドイッチを詰め込み、紅茶で飲み下す。いまや完璧な抜け殻と化した速水には、周囲の情報などまったく頭に入っていかなかった。
「厚志」
 だからその声が耳に流れ込んできたときにも、速水はとっさに反応する事ができなかった。
「こら厚志、どこを見ている。こっちを向かんか!」
 かすかに苛立ちが混じった声にのろのろと振り返ると、そこには妙によれよれの舞が立っていた。
 しばし、時間が止まる。
 速水はなおもぼんやりとその姿を見つめていたが、ようやく情報が脳に届いたのか、徐々に目の焦点が合ってくると同時に、目を大きく見開いた。
「舞……?」
 かすれて、言葉にならない。
「そうだ、莫迦面を浮かべて……ひゃっ!?」
「舞ぃっ!!」
 異様な反応を返す速水に、訝しげな表情を浮かべていた舞であったが、次の瞬間にはしっかりと速水に抱きしめられ、目を白黒させる羽目になった。速水はといえばそんなことはお構いなしに、彼女を抱きとめた腕にさらに力を込める。
「ああ、ようやく話せた! 舞っ!!」
「こ、こらっ! 人前でこういう事をするなといつも……、や、やめんかあっ!!」
 速水が宙に舞ったのは、それから三秒後のことである。

「どうだ、落ち着いたか?」
「うん、これ以上ないくらいにしっかりと、ね」
 首の具合を確かめながら、速水が笑顔で答えた。頭には大きなこぶができていたが、まったく気にする様子もない。
 ようやく口を聞いてもらえた事がよほど嬉しかったらしい。
 舞はとりあえず速水の無事――と言っていいのか分からないが、生きているからいいのだろう――を確かめると、かつてない緊張に身を固くしながら厳かに告げた。
「そうか、では連絡だ。あ、明日のデェトコォスを発表するから、こ、こ、今夜七時に我が家に来い、い、いいか?」
 ……訂正する。厳かなんてものではなかった。
「うん、分かった……。じゃあ、明日はそのまま出かけるんだね? そのつもりで準備しておけばいいんでしょ?」
「そ、その通りだ」
 まだいくらかどもっているが、どうやら今度は少々理由が違うらしい、何となくそわそわと落ち着きがなくなっている。
「でも、どうして七時……?」
「いいからっ! ともかくそなたはその時間にくれば良いのだっ! 一分一秒たりとも早く来てはならんぞ、いいな!?」
 魔王も身をすくませそうな舞の剣幕に、速水はただこくこくとうなずくしかなかった。
「分かればよい。私は準備があるから先に帰る。ではな!」
 そう言うや、舞はきびすを返すと、ここ数日と同じようにあっという間に駆け去っていった。
「あ……、行っちゃった……」
 つぶやきは同じだが、速水の心にもう不安も不満もない。いまや道は指し示されたのだ。あとはただ、その道を邁進していくだけのことである。
「でも『遅れるな』っていうのならともかく、『早く来るな』って一体? それに準備って?」
 疑問は尽きることはなかったが、考えたところで分かるはずもなかった。

 ほぼ同時刻、小隊司令室でも動きがあった。
「どうやら、ようやく目的地が決まったようですね」
 声は、この部屋の主のものだった。
 丸眼鏡を中指で押し上げながら、善行は先を促した。
「ええ。決行は予定通り明日。若宮君が確かめたから間違いないわ。そしてこれが行動リストよ」
 原は、手にしていた一枚の紙をひらりと机の上に置いた。
「ほう……、よくそこまで調べましたね?」
「それがね」
 原の顔に苦笑が浮かぶ。
「芝村さんが持ってきたのよ。こんな風にしてみたけどどうだろうか、って。まあ、私がアドバイスしたことになってるのは確かなんだけど、ちょっと、ね……」
「それは……。なんというか、いささか都合のよすぎる展開で怖いですね」
 はからずも善行は未来を予見したことになるのだが、神ならぬ身の上、そんなことが分かるはずもない。
 ともあれ、これだけ事前調査が済んでいれば、すでに作戦は半ば成功したも同然であった。
「若宮君、機材は?」
「すべて整備完了。いつでもいけます」
「潜伏場所の確認は?」
「OKよ」
「よろしい。作戦決行は明日。……皆様、よろしくて?」
「ええ、もちろんですわ。ねえ若宮の奥様?」
「もちろんですわ。明日が楽しみですわね、善行の奥様?」
「ええ、まったくですわ。……よろしい、解散」
 速水たちの知らぬところで、今ひとつの動きが始まろうとしていた。
 カップルあるところ常にあり、冷やかすことを生きがいとする奥様戦隊という動きが。

   ***

 計画は常に立てられ、そして完成した瞬間から遅れていく。その逆はめったに存在しないがゆえに、計画の進捗を守る大事さが指摘されるわけだが、どうやら舞の計画の第一歩は例外になり損ねたようだ。
 夜七時、約束の時間ぴったりに現れた速水は、玄関を一歩入った瞬間に、呆然とその場に立ち尽くしていた。彼の前には、両手にごみの山を抱えながら同じく立ち尽くしている舞がいる。
 一瞬、時間が止まった。
 やがて速水は軽く肩をすくめると、納得したような、そしてどこか諦観を交えたような声で、
「……なるほどね、こういうことだったの」
 と言った。
「あ、厚志! これは、あの、その……」
「いや、見てるだけで大体分かったよ……」
 速水の眼前には、混沌があった。
 ただし、弁護するならば、舞とても時間を区切ったのは、過去の経験からそれなりの勝算があってのことだった。実際あらゆるガラクタを押入れに放り込むところまでは一時間前に完了していたのだ。
 ところが、やはり慌てたものか、ガラクタと一緒に完成した計画表まで放り込んでしまったのに気がついたのは、ふすまを完全に固定した後で――
 やむなく再び店を広げ、どうにか計画書が見つかったのは速水がくる五分前。
 そして、計画書は再びプリントアウトすればよかったのだと気がついたのは、さらにその後だった。
「その、すまぬ……」
「まあ、いろいろと頑張ったみたいだしね。それよりもその様子だとご飯もまだでしょ? よかったら外で食べない?」
「う、うむ……」
 舞は、穴があったら入りたい思いだった。ようやくにデートにおいて主導権が取れるはずの第一歩でこれだけ盛大にすっ転んでしまっていては、それも無理なからぬことだと言わねばならぬ。
 ――どうして、こうなってしまうのだ?
 それが世界の選択だとは思いたくない舞であった。
 だが、ただそれだけでは終わらせない。そう、すべては明日であった。
 そんな舞を速水は後ろから優しげな表情で見つめていたが、やがて彼女が見極めをつけたと見たか、軽くぽんと肩をたたいて外に出るように促した。
 結局腹ごしらえを済ませた後、苦笑と共に速水が介入することで事態は大きな進展をみせたのだが、彼の家事能力をもってしても、どうにか部屋が見られる状態になったのは日付が変わったころであった。

「ま、こんなところかな」
 茶をすすりながら、速水は室内を見渡した。確かに先ほどよりは整理された印象がかなり強い。
 なにしろ、床が見える。
 ……先ほどまでどのような状況だったのか、コメントは控えたほうが賢明であろう。
「う、その……すまぬ」
 持ち直したとはいっても、やはり彼女にとって失点であるには違いないようだ。しょげかけた舞を見て、速水は意図的に明るい声を出した。
「まあ、舞が頑張ってるのは知ってたし……。それよりコースを教えてもらえるかな?」
 とにかくも普通に接する事ができるようになった安堵感からか、速水が余裕すら見せて尋ねると、舞は少し顔を赤くしながら一枚の紙を差し出した。
「こ、これが計画書だ。読むがよい」
「どれどれ……? え? こ、これは……」
 速水はしばし絶句した。かいつまんでいうとそこにはこう書かれていたのだ。
 
 水前寺公園 → 藤崎八幡宮 → 熊本城植物園 → 夕食
 
 水前寺公園は日本庭園が有名であり、藤崎八幡宮はふたりが初詣でに訪れたところである。そして熊本城植物園も確か博物館の帰りに寄った事があった。
 つまり、一応舞自身の機軸も取り入れつつ、かつて訪れた場所も盛り込むというコンセプトは見事達成できたことになる。多分、きっと、そのはずだ。……おそらくは。
 だがなんと言うか、高校生がデートスポットとして選ぶにしては随分と自然散策に溢れ過ぎ、妙に枯れた雰囲気が漂っているような気がしないでもない。二回ほどメモに目を通すと、速水はゆっくりと顔を上げた。
「これで、決定なんだね?」
「そうだ……何か不満でもあるのか?」
 言葉とは裏腹にやや不安げな響きが混じっている。それと察した速水は、極上の笑顔をもってこれに応えた。
「とんでもない! 了解。明日が楽しみだね」
 たとえどんなコースでも、舞自身が一生懸命に考え決めたのならば、速水としては文句をつけるはずもなかった。
 ――いや、たとえどんなコースでも、なんてのは僕の思い上がりだったかな?
「そ、そうか……」
 心から安堵したような口調で舞が答える。ようやく笑顔が戻ってきた。そのタイミングを捉え、速水はちょっとだけある挑戦をしてみることにした。
「そういえば、服装だけど……やっぱり、だめ?」
 とたんに舞の顔が瞬間的に茹で上がっていく。わたわたと手をしばし意味なく動かした後、ようやくのことで言語機能が回復したのか、口を開くことができた。
「だ、だめだっ。あ、明日の服装は私の私服と決まっているのだ! 今さらへ、変更はせん!」
「えー? せっかく似合うと思ったんだけどなあ」
 速水が傍らに引き寄せたのは、先ほど外に出たときに買い求めた一着の洋服だった。あちこちにフリルやレースなどもあしらわれているそれは、少なくとも舞はこんなの一着も持ってないでしょ、と間違いなく断言できる代物であった。
「あ、あちゅしっ!? いや厚志、そなた、それをいつのまに買いおったっ!?」
「舞がお手洗いに行ってる隙に、ちょっとね」
 確かあの時は、ほんの数分もなかったはずだ。あまりの早業に舞は言葉も出てこないようだ。
「これなら、舞にも似合うと思うんだけどなあ。私服って、いつものシャツとジーンズでしょ? たまには気分転換もいいんじゃない?」
「ど、どっちの方向に転換させるつもりだっ!? ともかく、明日の服装は決定済みだ。今さら変更はせんぞ、いいな!」
 舞の宣言に、速水はまだなんとなく不服そうな表情を浮かべていたが、
「ま、いいや。分かった。明日はいつもの格好って事で。でもさ、これもいつかは着てね?」
 と、折れることにした。ここでこれ以上ごねて、明日出かけないとか言い出されてしまっては本末転倒も甚だしい。時には、妥協することも必要なのだ。
「う、うむ。まあ、そのうち、気が向いたらな」
 ちらちらと服に視線を走らせながら、舞はそれだけ言った。

 なんだかんだといいながら、ようやくのことで準備は整いつつあった。後はもう明日に備えて休むだけであった。すでに時刻は真夜中もいいところである。ぐずぐずしていては十分な休養が取れなくなってしまう。
 そう、ここで速水が不用意な一言さえもらさなければ、すべては無事に終わるはずであった。
「明日、天気が良いといいね。あー、楽しみだなあ」
 速水にしてみれば本当に何気ない、無意識と言っていい一言のはずだったのだが、それを聞いた舞の動きがぴたりと止まった。
 やがて、できそこないの機械人形のような、音がしそうな勢いで速水の方を振り向くと、
「なんだと?」
 固体化したような声を吐き出した。
「え? いや、だから明日天気が……」
 ――天気、天気だと!?
 その時初めて、舞はこのコースが完全に屋外向けであり、平たく言えば雨天の場合を何も考えていなかったことに気がついた。
 慌てて天気予報を確認すると、降水確率は三〇%。夕方はともかく、午前中が少しぐずつき気味になるかもしれないとのことだった。
 ――し、しまった!
 本当の事を言えば、天気が少々崩れたぐらいならどうとでも修正が効くのだが、自らのうかつさにショックを受けていた舞はそこまで考える余裕などまったくなかった。彼女は速水に視線を戻すと、断固たる決意をもってこう宣言した。
「厚志、これからコースの追加検討を行なうぞ!」
「え? ……追加って、なんの?」
「決まっているであろう! 雨天の場合の行動計画だ! ああ、なんということだ。我が計画にそんな手抜かりがあったとはうかつであった、許せ厚志」
「え、雨天の、って……。多分、大丈夫だよ」
 別の意味で雲行きが怪しくなったのを感じ取り、速水は弱々しく反論したのだが、それに舞は噛みついた。
「何を根拠にそう言いきれる!? ならば我が前にその根拠を示すがよい!」
「いや、根拠ったって、別に……。それに、もう三時を回ったし、そろそろ寝ないと……」
 すべてを断ち切る鋼のような声が響く。
「やかましいっ! 完璧な計画なくして勝利が掴めるか!」
「勝利ってなにっ!?」
 速水の反射的なツッコミにも、もちろん答えは返ってこなかった。
 結局、どうにか新たな「行動計画」が確定したのは、もう夜も明けようという頃であった。
「ふ、ふふふ、完成だ、完成したぞ……」
 半ばマッドな雰囲気すらかもしつつ、舞はかろうじてベッドの方向を向き、時計になにやら指示を下すと、そのまま豪快に倒れこんだ。ほぼ同時に寝息が聞こえ始め、速水はそれを確かめると、思わず息をついた。
「よけいなこと言っちゃったなあ……。天気ったって、別に降りそうもないのになあ」
 カーテンの隙間からのぞいた天気は決して良くはなかったが、雲は高く、雨は別に降りそうもない。新たに策定された計画が使われない確率はきわめて高いであろうと言わざるを得なかった。
「ま、いいや。とりあえず少しでも寝ておこっと」
 半ば朦朧とした頭のまま、速水も力尽きたように舞の傍らにもぐりこみ、そのまま夢の世界へと旅立っていった。

   ***

 動くものとてない静かな部屋の中に、柔らかな光が差し込んできている。
 わずかに時計の秒針が時を刻む音がかすかに響くなか、ふたりはピクリとも動かずに寝入っていた。寝息は静かであり、わずかな身じろぎもない。どうやらふたりとも、夢の女神にえらく気に入られたものと見える。
 やがて、窓から差し込む柔らかな光に誘われるように、速水の眉がかすかに動き、寝返りを打ったかと思うとゆっくりと目を開いた。まだ半寝ぼけ状態のまま、ニ、三度瞬きをし、意味なく天井の模様に視線を走らせた。
 室内は、柔らかな紅い光に包まれていた。
 ――紅い……?
 少しの間、それの意味するところが分からずにぼうっとしていた速水だったが、すべてが理解できたとたん、転げ落ちんばかりにベッドから飛び起きた。素早く左右を見回し、舞がまだ傍らで寝ていることを確かめると、慌てて揺り起こしにかかる。
「舞、舞ってば、起きてよ!」
 なんともあどけない寝顔で寝ている彼女をたたき起こすのは気が引けたが、それでも事実は告げねばならぬ。
「んー……、うにゅ。なんだ厚志、どうしたのだ?」
 実は結構寝起きの悪い舞が、実際よりかなり幼く見える反応を返した。速水はそれに一瞬だけ気を取られたが、意を決すると、
「大変だよ! もう夕方になっちゃってる!」
 と叫んだ。
「……?」
 彼女もまた、脳に情報が到達する数瞬の間が必要であったが、届いた後は素早かった。
「なんだとっ!? そんな莫迦な、目覚ましはかかってなかったのか!?」
「舞、これスイッチが入ってないよ!」
 そう、昨日半ば寝ぼけ状態でセットされた目覚ましは、スイッチを押し忘れていたのだ。
「ま、まさか……。厚志、これは朝焼けではないのか? そ、そうだ、そうに決まっている!」
「言いにくいんだけどさ……。あっちは西なんだけど」
 光のさし込んでくる方向を指しながら、速水がとどめの一言を告げた。
「そ、そんな……」
 舞は目の前で完璧な(と本人の信じる)計画が音を立てて崩壊するのを実感した。思わずその場にへたり込んでしまう。
「舞……」
「やっと、やっとデェトで主導権が取れると思ったらこのザマか……、情けない」
 傍から見ても気の毒なほどしゅんとしてしまった舞に、速水は優しく語りかけた。
「舞、僕は君の立ててくれたコースでデートしてみたいな……。今日はちょっと無理そうだけど、次の時は一緒に行こう、ね?」
「厚志……」
「だからさ、そんな悲しそうな顔をしないで! ねっ!」
 務めて明るくふるまうその姿に、舞もようやくぎこちない笑みを返す事ができた。
「う、うむ、よかろう。任せるがよい」
 ようやく元気の出てきた舞に軽く微笑むと、速水は彼女をそっと抱きしめて軽く髪をなで始めた。
 悔しさはいまだ残っていたものの、舞はそれでもその優しい愛撫から逃れるような事はしなかった。

 結局、どこへも出かける事はかなわなかったが、代わりに予め舞が用意していた食材を使って、仲良く夕食を作ることとなった。
 舞が少々材料を奮発していたおかげで、夕陽が落ちきる頃には肉をメインとした洋風のコースらしきものが出現していた。大半の素材が合成品か風味材であるにしても、なかなかどうしてたいしたものである。
「さあできた! 舞、スープ皿を取ってくれる?」
 エプロンを外しかけてた舞が慌ててスープ皿を手渡すと、スープ皿にポタージュが注がれる。ふうわりといい香りが広がった。
 準備が整ったところでそれぞれ席につき、いつもの言葉。
『いただきます』
 スープを口に運びながら、計画は崩壊してしまったが、最後に一緒に食事というのだけは達成できたからまあ良いか、と思う舞であった。

 さて、舞たちに限れば、この日は辛うじて目的を一部なりとも達成できたのはよいのだが、それで済まないのは奥様戦隊である。
「……ねえ」
 不機嫌極まりない声に、善行は思わず背筋を震わせた。
 ここは水前寺公園。
 既に辺りには夕闇が立ち込め、すっかり暗くなった周囲には人の影もない。
 三人は朝早くからずっとこの場に待機していたのだが、ついに速水たちの姿をみることはかなわなかった。
「なんですか」
 声が震えなかったのは上出来である。原は声を絶対零度に保ったまま、半目で善行たちを睨みつけた。
「集合予定って、何時だったっけ?」
「ひ、一〇〇〇時であります」
 百戦錬磨の古参兵が、まるで新兵のように声を上ずらせていた。原の周囲にはなにやら得体の知れないもやのようなものが立ち込め始めていた。
「そうよねー? 一体何時間過ぎたのやら、まあ、見事なすっぽかしよね」
 誰の返事も期待しない、いや、反論を許さない口調だった。男どもの背筋を冷たい汗が流れ落ちていく。
「ま、そんなこともあるだろうけど、なんでそれならもっと早く転進しなかったのかしら、え、おふたりさん?」
「い、いや、それは……」
 情報を持って来たのは自分じゃん、とはさすがに言えず、ふたりは言葉を詰まらせた。
 そしてそれが、なによりも雄弁な返答となった。
「そうよねー、私もまさか、完全にすっぽかすとは思ってなかったものねえ」
 目がすっかり据わっている。
「あ、あの、素子さん? そのカッターを振り回すのはやめたほうが……」
「うるさいわねっ!」
 あ、キレた。
 それからしばらくの間、茂みの陰でかすかな悲鳴と叫びが聞こえたようだったが、不意に鉈で断ち切られたように終わりを告げ、辺りに静けさが戻った。
 奥様戦隊のなかで何が起こったのか、歴史のどのページに

も記されていないので、真相は永遠の闇に包まれることになりそうだった。
 ただ、傍証じみたものはいくつかある。あちこちに包帯を巻いた善行と若宮の姿が見られたことから、推して知るべしであろう。
 好奇心、猫をも殺す。ましてや奥様戦隊においてをや。
 いらんところに首を突っ込むと、時には抜けなくなることもあるというよい教訓であった。

   ***

 それから、ちょっとだけ日が流れ、三月一九日(日)。
 速水は改めて水前寺公園で、舞の到着をいまや遅しと待ち構えていた。
 結局、あの日は食事を終えた後、なんという他愛ない話を交わして眠りにつくという、なんともささやかな結末を迎えていた。
「ま、それはそれで結構楽しかったけど……。舞、かなり気にしてたからなあ」
 そんなこともあって、果たして今日はどうなるものか、速水としては一抹の不安なしとはしない状況であった。
 まもなく、時刻は一〇〇〇時になろうとしていた。
 と、彼方から足音がこちらに向かってやってくるのが分かった。駆け足の足音はいささか軽目で、それだけで速水には相手がほぼ特定できた。
「来た来た。舞……!」
 笑顔とともに振り向きかけ、速水はその場に硬直してしまった。いや、目の前の光景に魅せられてしまったという方が正しいのかもしれない。
「すまぬ厚志、遅くなってしまった……厚志?」
 舞が呼びかけても、速水はとっさに反応を返すことができなかった。
「な、なんだ? 私は何かヘンなことでもしたか?」
「い、いや、そうじゃなくて。その服……僕が買った……」
 指さされ、舞の顔が一挙に朱に染まった。
 確かに彼女が着ているのは、先週速水が買い求めたあの服に間違いなかった。
「こっ、これはっ、そのだな、せっかくそなたが買ってくれたというのにほったらかしにするのもどうかと思ってな……。もとより、私には」
 ――似合わない。
 舞はそう言うつもりだったのだが、次の瞬間、彼女は速水にしっかりと抱き締められていた。
「な、ななっ!?」
 血圧が恐ろしい勢いで急上昇していく。このまま行ったら心臓が爆発しそうであった。
「あああ、あちゅしっ! こ、こらっ、そにゃた、い、一体なにを……っ!」
「もう、舞ったら!」
 速水は、後はもう言葉にできなかった。ただ今はこの腕が想いを伝えてくれることを祈るばかりである。
 しばらくして、ようやく解放された舞であったが、顔は上気したままなかなか戻りそうにない。
「ま、まったく……。そなたといると、私はいつも振り回されるばかりだっ」
「そんなことないよ。舞にはとてもかなわないや。……ホントだよ?」
 ――そう、君は気がついていないのかい? 君の優しさが、どれだけ僕を包んでくれているか。
 舞は、まだどこか疑っているような表情をしていたが、速水の真剣なまなざしにやがて表情を緩め、頬を赤らめながらわずかに視線をそらした。
「……まあよい。時間も押していることだ。い、行くぞ」
「うん。行こうか」
 舞がおずおずと差し出した手を、速水はそっと包むように握り返した。やがてふたりはどちらからともなく笑みを浮かべると、連れだって歩き始めた……。

 主導権なんてそんなもの、いいじゃないのさ幸せならば。
 恋人たちにとっての一日は、まだ始まったばかりである。願わくばこの一日が幸多からんことを……。
 仲良きことは、美しきかな。
(おわり)



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