洗面台の鏡を覗いて、クロコダイルは眉を顰めた。そこに映った自分があまりにも酷い顔をしていたからだ。
目の下に浮かんだ隈と、僅かに痩せこけた頬。元々血色の良い方ではないが、さらにくすんで土気色に染まっている。急激に老けた印象さえ受ける自分の顔に、クロコダイルはどうしようもなく苛ついた。衝動のままに鏡を叩き割ったが、手が濡れていたせいで破片が傷を作ったことにも腹を立てた。
ここ数日、苛立ちがまるで治まらない。原因は解っているのがクロコダイルをさらに苛立たせるのだ。
イサゴを殺したという連絡はまだ来ていなかった。いや、アラバスタを離れた彼を追うかどうかと聞いたロビンに、結局話が逸れたまま通話を一方的に終わらせたのはクロコダイルだ。本題の結論を出さないなど、彼にとっては珍しい事態である。即決即断の性質からすると許されざるべき現状だ。まして指令が宙ぶらりんで放置されるなど以ての外。
しかしクロコダイルは、イサゴの件に関してまだ動こうとしていない。そんなものに構っていられないほど急に忙しくなってしまったからだ、と、クロコダイルは思っている。そしてロビンはといえば、クロコダイルと違い曖昧を好む性質であった為に、クロコダイルへもう一度連絡してイサゴの処分を問おうとはしてこなかった。だからクロコダイルは、ロビンが彼を殺そうとしているか、殺さずに放っているのか、知らずにいる。
もはやどうだってよくなってきているが、殺すのだとしたら、どんな風にあの男は死ぬのかが少しだけ気になった。後ろから一突きに心臓を刺したか。全身の骨をあらぬ方向に曲げて砕いたか。ビリオンズを使って袋叩きにしたか。海獣の住む海に突き落として贄にしたか。
ロビンが出来得る限りの殺害方法を思い浮かべて、それからクロコダイルはやはり自分が殺せば良かったと思うのだ。自ら進んで濡れたくなるほど全身の水分を奪って、砂の刃で四肢を切り落とし、恐怖の表情を浮かべながら蟻地獄に飲み込まれていく様子を見たくなった。裏切ったのだから、当然の報いだろう。苦しんで泣き喚いて許しを乞いながら死んでいく彼を頭の中に作り出して、クロコダイルは眉間の皺を深くした。気分はいくらか良くなったが、こんなくだらないことに気を取られている場合ではないのだ。仕事をしなくてはならない。執務机にはクロコダイルが作成した密書、暗号混じりの報告書、七武海に対する通知書、国民からの嘆願書、カジノでの経費精算書と、用途も分類も違う様々な書類が山と積まれて雪崩を起こしかけている。灰皿はもはや吸殻で満杯になり、床もインクを溢した跡で汚れたままだ。コーヒーを淹れたカップは洗う人間がいないのでごみ箱に捨てたが、そのごみ箱もそろそろ溢れてしまう。日に日に汚くなっていく部屋に苛立ちながら、クロコダイルはただひたすらに書類の文字を追って紙面に訂正やサインを加えた。新しい使用人はまだいない。ロビンが手配したようで志願者が幾人か訪ねてきたが、忙しくて面接どころの話ではないのだ。
目が眩む。食事も睡眠もろくにとっていない。葉巻の量ばかりが増えていく。煙が充満する部屋の換気をする人間はいない。苛立つのだ。どうしようもなく。
八つ当たりのように今日と明日と明後日の分まで仕事を終わらせると、いよいよ重たくなってきた頭を押さえてソファーに寝転んだ。明かりもつけずに過ごした部屋は、日没と共に暗くなっていく。瞼の裏の闇に引き摺り込まれるまま、クロコダイルは意識を落とした。
クロコダイルは疲れの取れない浅い眠りから目を覚ました。瞼を開けても暗い。窓から漏れる月の淡い光だけが室内の輪郭を浮き上がらせている。どうやら真夜中のようだが、玄関の重厚な扉を開いて誰かが入ってくる気配を感じた。鍵は締めてあるはずだ。抉じ開けられた様子は感じられない。クロコダイルはソファーから身動ぎもせず、醒めない睡魔に従ってそのままもう一度寝た。何故すぐに起きて誰かが誰かを確認しなかったのか、クロコダイルにすらわからない。しかし意識に空白が空いて、人の気配がいつの間にか仕事部屋にまで移動していた時、クロコダイルは瞼を薄く開いてようやく相手を確認し、理解した。イサゴの背中が見える。成る程、起きようとしないわけだ。彼を迎えてやるくらいなら、クロコダイルは思うまま寝ている。使用人を出迎える主人などいない。寝ていても正常な判断を下す自分の脳に彼は満足したが、正しく寝惚けていることには気付いていなかった。普段のクロコダイルならばすぐに気付いたろう。イサゴは今、ここにいるべきではない。
イサゴはソファーで眠るクロコダイルに背を向け、胸に抱えた紙袋からひとつひとつ品物をテーブルの上に置いている。クロコダイルが好んでいるスコッチ。クロコダイルがよく口にする葉巻。クロコダイルが気に入りそうな革のベルト。随分な土産だ。クロコダイルのカジノで時折遊ぶ彼は、一稼ぎすると必ず土産をクロコダイルに献上する。「還元だよ」と笑っていた。要は勝って機嫌が良いだけだ。儲けの為ではない賭博は、見ていて気分を悪くするものではない。今日は大分稼いだようだった。クロコダイルは口の端だけで笑い、また瞼を閉じた。
次に開いた時、少し部屋の様相が変わっていた。散らばった書類は整頓されて机の上に、灰皿は新しいものと交換され、床の染みはないのが月明かりに照らされて見える。換気もしたのか、むせかえるほどの葉巻の匂いは薄れていた。いつもの部屋だ。さっきまでの賊に襲われたような有り様とは大違いだと感心した瞬間、クロコダイルはこれは夢だと思った。五日前よりも過去の夢か、五日間の夢を見ていたか。どちらでもいい。夢にせよ現にせよ、イサゴはそこにいて、クロコダイルが寝そべるソファーの前で困ったような、怒ったような顔でクロコダイルを見下ろしている。「こんなとこで寝てんな」。いつも彼はそう言い、そして今もそう言った。クロコダイルは無視をする。わざわざ立ち上がって着替えてベッドへ行く理由が無いからだ。
当て付けのようにもう一度瞼を閉じ、それから重たい左腕をイサゴに向かって伸ばした。呆れたような溜息が聞こえる。それから鉤爪を受け取って、ゆっくり左腕から抜き取られる感覚。そしてそのままクロコダイルを抱き付かせるように腕を首の後ろに引き寄せると、もう片腕も同様に引き寄せ、両膝の下に手を差し込んで持ち上げた。横抱きにされたクロコダイルは何も言わず、何も動かず、寝室へ運ばれて着替えさせられ、上質なベッドで緩やかな眠りにつくのだ。
いつものことである。イサゴがそうする。そうしろと言った覚えはない。けれどそうさせている。いつからかなんて覚えていない。いつものことだ。だからクロコダイルはいつものように、イサゴの腕に運ばれながら深い眠りについた。