人間、為せば成るものだ。
二日ぶりに踏み締めた大地に倒れ込み、イサゴは荒れた息を整えようと深く呼吸をした。空気は乾燥し、砂っぽくて口の中がじゃりじゃりする。不快ではあるが、アラバスタに戻ってきたという実感に安堵した。時化の中、大荒れする海に飛び込んだのは今考えると完全に血迷っている。せめて時化が収まるまで待てば良かったのに、戻ると決めてからすぐさま荒れ始めた海に怒りが爆発して短絡的な思考になったのだ。
と憤りに任せて決死のクロールを敢行したのだが、いざ飛び込んでみればあっという間に空は快晴、風も穏やかにアラバスタへ向けて吹いており、むしろ追い波となったおかげでスムーズに進んだくらいだ。島を出て3時間ほど経った辺りで頭も冷え、何をやってんだおれはと後悔したものの、途中でオールサンデーにも会い、食料を分けてもらった。海王類や海獣には遭遇せず、万事が好調にアラバスタまで戻れた。今なら故郷にも泳いで戻れる気がする。体力も腕力も人並み外れている自負はあったが、まさかここまでとは思わなかった。やんちゃをしていた一昔前とは違い、今は腕試しをしようにも相手がクロコダイルしかいないのだ。あんな規格外と毎日のように喧嘩していたら、標準などわからなくなってしまう。それくらいに毎日をクロコダイルとばかり過ごしていた。
何度も乗り換えてなおもボロボロになった船と共に心身もボロボロになりながら水気の少ない理想の国に辿り着いてしばらく、クロコダイルと出会ってクロコダイルに雇われてクロコダイルと過ごしてクロコダイルの世話をしてきた。よく買い物に行く市場には仲の良い人間もいる。最近ではオールサンデーという出自不明な女とも知人以上友人未満の関係になった。遠く離れた故郷に戻ればイサゴの水難体質を今でも心配してくれる友人とているのだ。
クロコダイルがイサゴの全てではない。それでもイサゴの世界を回すのは、悔しいことにクロコダイルだ。
勿論、イサゴが心配しているのは邸とワニであることは変わりない。。
四日も離れてしまったが、邸の中はどうなっているだろう。着替えの在処すらわからないクロコダイルがそこかしこを引っくり返して散らかしてはいないか。苛立つとあちこち枯らす癖のあるクロコダイルのせいで壁や床が砂になってはいないか。
バナナワニはどうなっているだろう。餌を貰えずひもじい思いをしていないか。変なものを食べさせられて腹を壊していないか。
クロコダイルなんか殺しても死なないのだから、気にかかるのは邸とワニのことばかりだ。けれどその全てはクロコダイルの一挙一動によるものである。
認めたくはないのだが、イサゴが邸のどこを思い浮かべてもその光景に存在するのはクロコダイルだ。直接彼を見るダイニングや仕事部屋は勿論、洗濯場ならクロコダイルの服、ベッドルームはクロコダイルの匂い。調理場は雇われコックがいたが、毒を仕込んでいないか見張っていろと命じたのはクロコダイルだった。使用人という立場上、クロコダイルに関わるのは当然である。ずっと一緒に過ごしてきたのだから、愛着が湧くのも当然だろう。海の中で体どころか頭も冷えて、イサゴは自分が思いの外彼に執着していることに気付いてしまった。気付いたからには、今更意地を張るのも面倒だ。邸にしろワニにしろクロコダイルにしろ、イサゴが戻りたいと思っている事実は違いないのだ。
(まー、あいつおれのこと殺せとか言ってたみたいだけど…)
クロコダイルは酷い人間性をしていると思う。今回ばかりはとても御冠のようだから、頭を下げても一筋縄では戻れないだろう。それでもイサゴはクロコダイルを嫌いにはならないし、最終的には戻れるに違いないと楽天的に考えていた。
喧嘩なんかいくらでもしてきて、『殺す』も幾度となく言われた台詞だ。実際に死にかけたことだって何回でも。それでもイサゴはクロコダイルと共に過ごしてきたのだ。人の関わりなんかそう簡単に切れるものでもない。何よりイサゴには、あの陰険で陰湿で陰惨な男の世話を出来るのは自分しかいないという自信があった。彼の隣に自分が存在しているのが、イサゴの中で当然の認識になっている。
とにかく殴り合いは必至だろうと、イサゴは冷えて重たくなった体を動かし宿屋に向かう。太陽は既に沈み、暗く冷たい夜が訪れようとしていた。
もう今日は休もう。イサゴは気合いを入れるようにもう一度深く呼吸をした。
明日はきっと、忙しくなる。