クロコダイル長編 | ナノ


こんな海に常識も非常識もないとは思っていたが、彼は別段非常識なようだ。科学で解明出来そうにない水難体質しかり、クロコダイルに喧嘩を売る度胸しかり、    グランドラインを泳いで渡るという発想しかり。

「…っはー、はー…、っげほ、っ…はー、はーっ…」
「…落ち着いたかしら?」
「…ま、…はー…も、すこし、…まて…」

はーはー、ぜえぜえ、げほげほ。大量の空気を吸い込んでは吐き出し、呼吸を落ち着かせたイサゴは、最後に一度大きく深呼吸をして『オッケー』と言わんばかりに頷いた。一人乗りの小さな船から海の中にいるイサゴを見下ろしたロビンは、しかし何から聞こうか迷ってしまう。
どうしてそんなにアラバスタに戻りたいの?船はどうしたの?本当に泳いで渡りきれると思っているの?

「………………どうしたの?」

たっぷりとした沈黙で、とりあえずロビンはそれだけを聞いた。これが一番適当な質問である気がしたのだ。すると案の定イサゴはロビンの船に腕を引っ掛けた休む態勢のまま、「クロコダイルのクソヤロウが」という切り出しで全てを話してくれた。疲れているところに喧嘩を売られ、うんざりした気持ちのままに邸を飛び出たこと。まさかの幸運に見舞われて一日でアラバスタ脱出が叶ったこと。しかし冷静になってみると邸とワニが心配になって戻る決意をしたこと。

「…邸とワニが?心配なの?」
「ああ、あいつ人に文句ばっか言うくせにろくに掃除も餌やりもしやがらねェからな」
「…サーが心配なんじゃなくて?」
「なんでおれがあんな根性悪の心配してやんなきゃなんねェんだよ」
「…ええ、そう、そうね…」

ロビンの言葉に気を悪くしたのか、ギロリと目付きも悪く睨んでくる瞳に照れ隠しの影はない。どうやら本当にクロコダイルは眼中にないようだ。てっきり復讐か、あるいは別の感情でクロコダイルの元に戻りたがっていたのかと思っていたのに。

「んで、時化で船が出せねェからよ、どうせ出しても転覆すると思って泳いできた」
「………そう」
「なァ、なんか食えるもん持ってねェか?腹減ってんだ」
「……ねェあなた、ここで私に会えなかったらどうするつもりだったの?」
「さァな、どうにでもなるだろうよ」

船で様子を見にきたロビンが、狂ったように全力でクロールしているイサゴと遭遇したのはアラバスタまで丁度半分の海の上。ここまで来たのは称賛に値する体力と意志だが、逆に言えばあと半分も残しているのだ。無謀にも程がある。
生憎ロビンとてそんなに食料を持ってきたわけではない。女性の胃袋を満たす程度の一食を分けてやると、それでもイサゴは嬉しそうに笑って食べ始めた。「悪ィな」。どうして彼がクロコダイルの側にいるのかわからないほど屈託のない笑顔である。

「オールサンデーは仕事か?ご苦労なこったな」
「ええ、いえ、仕事というか、半分はボランティアに近いのだけれど」
「そりゃァ尚更、邪魔して悪かったな。気ィつけて行ってこいよ」
「行く必要はないのよ」
「あ?」
「サーにね、あなたを見つけたら殺せと言われているの」
「ぶっ」

ロビンが与えた貴重な食料を、彼は吹き出してしまった。ごほごほと再び咳き込むのを頬杖ついて眺めていると、やがて落ち着いた彼はロビンをギロリと睨み上げた。殺されると知って、抵抗するだろうか。罵るだろうか。殺そうとするだろうか。目の前のロビンか、あるいはクロコダイルを。
海の中に引きずり込まれたらお仕舞いだわ、とロビンがぼんやり考えていると、彼はしかしロビンが想像していた悪意や殺意のどれをも示さず、諦めたように溜め息を吐いた。

「ボランティアって…おれを殺すことかよ…」
「…ええ、そうなるかしらね」
「あいつの為におれを殺してやりてェって?オールサンデー、お前案外クソダイルが好きなのな」
「まさか。私はサーがあまりにも寂しそうにしているから、あなたを探しましょうかと言っただけよ」
「…あいつが寂しがってるかどうかはさておき、それなら殺さなくてもいいんじゃねェか」
「そうね、私もそう思っていたところ」

あなたはサーのプライベートだもの。私が割り込むのは仕事の範疇ではないわ。
「計画を知られたわけでもあるまいし」。含みを持ってにっこりと笑ったロビンに、イサゴは深く深く溜め息を吐いた。

「…知られたら即殺すような計画ってなァ、お前ら一体どんな悪巧みしてんだよ」
「知りたいのならサーに聞いてちょうだい。私から教えられる話ではないの」
「…ふん、まァいい、あいつが隠してることに首突っ込むほど興味はねェよ」
「あら、気にならないの?」
「何してようがどうなろうが、あの根性悪が行き着く先は地獄だろ」

鼻で笑ったイサゴに、ロビンはそうねと頷いた。クロコダイルもロビンも、きっといつかは必ず地獄の底へ落ちるのだ。

「あなたが羨ましいわ」

何も知ろうとしないイサゴは、全てを知っているロビンよりずっと頭がいい。逃げ出すのも戻るのも全てが自由だ。ロビンにとってそれはとても、羨ましいことだった。


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