クロコダイル長編 | ナノ


    そんなにいじめていたら、いつか愛想を尽かされちゃうわ。

冗談混じりの声が、急にクロコダイルの脳裏をよぎった。言ったのはロビンだ。あれはいつのことだったろうか、イサゴと喧嘩をして殴り合いに発展するのは珍しくもないことなので、一週間前だったか一ヶ月前だったかは覚えていない。その忠告とも揶揄とも言えない言葉を自分は鼻で笑ったはずだ。馬鹿なことを言う女だと。
あいつに愛想を尽かされようが構わない。
あいつが愛想を尽かすはずがない。
どちらの意味で笑ったのかは、今一度考えてみるとクロコダイルにすらわからないことに気付いてしまった。なんて忌々しい。クロコダイルは舌打ちをひとつしたが、機嫌が悪いと静かに寄り添ってくるイサゴはこの邸のどこにもいないのだ。静けさがやけに響いて、クロコダイルはもう一度舌打ちをした。

イサゴが怒るのは、人が食事をするのと同じくらいの日常だ。クロコダイルに対する嫌がらせかと思うくらい毎日水に濡れているくせに、濡れる度に怒るし、クロコダイルが水を掛けても怒る。それが持って生まれた運だというならそろそろ諦めればいいとも思うのだが、イサゴは意地のように怒っている。その癖すぐに何事もなかったかのような顔で、事実怒りの原因さえ忘れてしまうのだから呆れたものだ。怒りの原因を駆逐するまで忘れないクロコダイルには信じがたい鳥頭である。
クロコダイルはイサゴがこの邸で働き始めた時、すぐに殺すことになるだろうと思った。性格も信条も趣味嗜好も正反対の二人だ。気に食わなければ殺す。逆らえば殺す。息をするように他人の命を奪うことに抵抗のないクロコダイルには、イサゴとて例外ではなかった。もって一週間か、と思っていたのが、予想を超えて長い月日を共にしてしまっている。予想外に使い勝手が良かっただけだ。多少の口答えを許してしまう程度には。

殴り合いの喧嘩は数えきれない。こんな風に邸を飛び出ていくのも珍しくはない。けれどそれは一日で終わる話だ。
今更何をそんなに怒る要素があったのかと不思議に思うほど、一杯の水を掛けたくらいでイサゴは震えるように怒り、クロコダイルが聞いたこともないような弱々しい声で「お前には付き合ってられない」と呟いたきり弾丸のように邸を飛び出ていった。いつものことだ。クロコダイルに喧嘩を売っては、アラバスタで生きていけないのをイサゴとて知っているのだから、こうなったらいつもイサゴはアラバスタを出ようとする。無論船でだ。止めようとも殺そうとも、わざわざ港まで手を回す必要などない。イサゴがどれだけ良い船を手配出来ようが、沖まで出ていくのは不可能なのだ。生まれた時から彼に寄り添う水難は、正体などないのに当然の事象として認識されている。彼が海に出れば、船は転覆、あるいは天災に遭うのが通常だ。それと同時に悔しそうな顔でクロコダイルの元へ戻ってくるのも、ボールを壁に投げれば跳ね返ってくるのと同じくらいに当たり前のことだった。

イサゴが怒った夜、クロコダイルはなんとも思わなかった。帰ってくるのは明け方か、遅くとも昼頃か。その程度だ。
だのにイサゴは昼を過ぎても、一日を過ぎても帰ってこない。イサゴがいなくなって二日目の邸では、静寂の中にクロコダイルの舌打ちばかりが響くようになった。

「探してきましょうか?」。しかめっ面のクロコダイルとは対照的に、にっこり笑って口を出してきたのはロビンである。口では親切のように言っているが、クロコダイルと並ぶくらいに真っ黒な腹の中では『それ見たことか』と嘲笑っているに違いない。腹立たしいことだ。誰が愛想を尽かされたというのか。これは裏切りに他ならない。「見つけたら殺せ」。クロコダイルはロビンにそう言った。どこで何をしているのかは知らないが、クロコダイルの許可も無しに二日もぶらぶらしていてただで済むとはイサゴも思ってはいまい。喧嘩を売っているのだ。喧嘩を売られて黙っているほどクロコダイルも温和ではないとイサゴは知っているのだから、要するに、死にたいのだろう。死にたいのなら死なせてやる。もう帰ってこなくとも構わない。クロコダイルはロビンにもうひとつ指示を出した。新しい使用人を見繕ってくること。「いいの?」と首を傾げるロビンに、何が悪いのだと返せば彼女は鈴のような声で笑った。腹立たしい女だ。それでも生かしているのは、大きな利用価値があるからだった。クロコダイルの為に働かないイサゴに利用価値はなく、生かす理由などない。殺して何が悪いのだ。

ぷるる、ぷるる。
電伝虫が鳴く。受話器を取ると相手はロビンだった。彼女に指示を出してから半日は経っている。「殺したか」。単刀直入に切り出すクロコダイルに、ロビンは笑った。『それがね』。どうやら任務完了の話ではないようだ。

『彼、もうアラバスタにいないみたいなのよ。時間が掛かりそう』
「…なんだと?」

にわかには信じがたい話だ。アラバスタにいないということは、つまり島を出たということだろうか。あの水難男が?こんな短時間で島の外へ?訝しむクロコダイルを尻目に、ロビンは続ける。

『奇跡ね。天候も風向きも乗った船も、全てが彼に味方したのよ。あっという間に隣の島まで着いたみたい』
「…隣の島まで、三日は掛かるはずだが?」
『だから奇跡なのよ。船が転覆もせず、三日の航路を一日で終えたの。彼が一番驚いているんじゃないかしら?』
「…………」

黙り込んだクロコダイルに対して、ロビンは楽しそうだ。腹立たしい。受話器を握り潰しそうな気配に気付いたのか、笑う気配を消して『追い掛けた方がいいのかしら?』とクロコダイルに聞いた。それから、『彼はアラバスタに戻って来ようとしてるみたいだけど』とも付け足す。

「…戻る?」
『ええ、せっかくアラバスタを出られたのに、何故か。忘れ物でもしたのかしら?』
「知るか」
『でも、今度はあっちの海域が大時化になって船を出せないみたい。こっちから追い掛けるのも一苦労だわ』
「…クハハ、いよいよ水難男の本領発揮か」
『ええ、不思議ね。彼がアラバスタを出る時はあんなにもスムーズだったのに』

    まるで海が、彼をあなたから逃がしてやりたいみたい。
ロビンの一言が、やけに含みを持って聞こえる。例えようのない怒りに襲われたクロコダイルは、ガチャンと乱暴に受話器を置いて通話を切った。今日は随分とお喋りなロビンは、クロコダイルがイサゴに裏切られたことがさぞかし愉快であるらしい。何が『海が彼を逃がしてやりたい』だ。あんなに水に襲われていた男が、今更好かれたとでもいうのか。ふざけるな。そんなものに拐われてたまるか。
イサゴがクロコダイルの元で働き始めたその時から、イサゴを生かすも殺すもクロコダイル次第だ。イサゴの命は、クロコダイルのものだ。今更そんなものに、拐われてたまるか。


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