クロコダイル長編 | ナノ


信じられないような気持ちで海を眺めたイサゴは、自分が踏みしめている大地がアラバスタではないことを確認して尚更信じられない気持ちになった。
海に出れば時化になる。船に穴が開いて転覆する。波に流されて沖に出られない。
確証などないはずなのに、いつも水難に遭うのが当然の流れだった。しかし今日はどうだ。天気は快晴、追い風も強く、小さい割に丈夫だった船は三日掛かるはずの航路をすいすいと猛スピードで進んで一日と経たずに島へ辿り着いてしまった。普通の人間以上の幸運に、むしろイサゴは狼狽えた。

あのクソダイルもう知らんお前になんか構ってられっかバカヤロウ!とばかりに邸を飛び出したはいいが、そもそもクロコダイルの息が掛かったアラバスタの地で生きていくのは難しい話である。陰険で陰湿で陰惨なクロコダイルが、自分に逆らった人間をのうのうと逃がしてやるわけがないのを知っていた。ずっと一番近くで彼の人となりを見てきたのだ。よくてもアラバスタ全域にクロコダイルの手が回って誰もイサゴを雇ってはくれなくなるだろうし、悪ければ屈強な男どもに命を狙われることだろう。どちらにせよ御免である。だからイサゴはクロコダイルと喧嘩をすると、アラバスタを出るしかなくなるのだ。

クロコダイルと喧嘩をして邸を出ていくのは、実をいうと初めてではない。むしろ数えきれないくらい繰り返してきたいざこざである。勿論十中八九悪いのはクロコダイルなのでイサゴは謝りたくなどないのだが、生まれてきてからずっと自分に寄り添う水難が邪魔をして海に出れなかったのだ。
イサゴの生まれは水の都で、昔から水路に落ちるは水飛沫に襲われるは水害を自分のせいにされるはの散々な日常に辟易して一人海に出て水の少ない島にまで旅立つことを決心したのだ。勿論旅は容易ではなかった。どれだけ立派な船を誂えてもらっても沈むし転覆するし一向に旅は進まない。日常的に死にかけながらも命からがら辿り着いたのが砂漠の国の、クロコダイルだ。腐れ縁だが恩はある。長い付き合いなのだから愛着も湧いている。しかしそれを覆すほどの根性悪だ。命を掛けてでも故郷に戻ろうと思ったことは、喧嘩と同じくらい繰り返してきた。そしてその度に水難が邪魔をして結局はアラバスタを出られず、歯を食い縛りながらクロコダイルへ頭を下げに戻るのである。最初の頃はクロコダイルも『おれを裏切ったやつはうんぬんかんぬん』としち面倒くさい信条で謝罪すら拒んでいたが、しばらく繰り返せば腹のたつニヤニヤとした笑顔にたっぷりの嫌味と罵倒を添えて迎え入れてくれるようになった。本当に陰険で陰湿で陰惨な男である。

イサゴはクロコダイルの使用人であるが、クロコダイルが何をしているかは知らない。七武海としてでもカジノのオーナーとしてでもなく、時折行き先も告げず出掛けるクロコダイルが、何かを企んでいて、それをイサゴに教えるつもりがないということだけはわかっている。良いことではないだろう。この国では英雄と呼ばれているが、あんな悪人面の根性悪が善人のわけがないのだ。一緒に暮らしているイサゴはよく解っている。だがいちいち首を突っ込んで止めるほど、イサゴとて善人ではなかった。自分の生活が第一。関係がなければ他人の不幸を知らん振りしたとて罪悪感など湧きもしない。

しかし今回ようやくアラバスタから離れられたイサゴが懸念するのは、他人の不幸のことであった。正確に言えば、クロコダイルの邸が心配なのである。
掃除洗濯、炊事やバナナワニの世話も、あの邸のハウスキーピングは全てイサゴが行っている。クロコダイルは自分一人で何でも出来るという顔をしているが、そのくせ生活感が感じられない人間だ。要するに家事に全く手を着けないのである。
イサゴがクロコダイルの元で働く以前、食事はコック、衣類はクリーニング、掃除は業者への依頼で過ごしていたそうだ。その癖自分のテリトリーに他人が入ってくるのを嫌うというのだから本当に面倒臭い男である。
以前一度だけ、野暮用で三日間ほど外泊をしたことがあった。三日分の着替えも食事もバナナワニの餌も用意して、あとは臨時で雇った代わりの使用人に全てを任せて邸を発ったのだ。しかし帰った時にその使用人の姿はなかった。着替えも食事も減っているのに、バナナワニの餌は全く手が付けられていない。使用人はクロコダイルが気にくわなくて追い出したとしても「バナナワニの餌は?」と聞いたイサゴに、クロコダイルは「ん」と顎で水槽を示した。その中には、バナナワニが食べ散らかしたであろう肉片と骨、そして明らかに人間の衣服の切れ端が浮いていたのである。
冗談じゃない。一体どういう経緯でこうなった。
イサゴが三日間の為に手配した使用人は、一流ホテルで働いていたという経験もさながら、真面目な好青年で多少のいびりにも耐えられそうな根気強さからイサゴが独断と偏見で採用した一般人だ。彼なら三日くらいは大丈夫だろうと安心して出掛けたというのにこの末路。いくらイサゴが他人の不幸は知らん振りする人間といえども、斡旋した責任から罪悪感が湧くのは普通の感覚のはずである。

このままイサゴがクロコダイルの元を離れれば、クロコダイルは新しく使用人を雇うだろう。そして気に食わなければ殺し、邸はいずれ死体だらけになり、入った者が二度と出てこられない呪いの邸と呼ばれるのだ。クロコダイルの評判が悪くなるのは結構なことだが、あの邸やバナナワニに罪はない。相手が建造物や獰猛な肉食獣だとて、今まで熱心に世話をしてきたのだ。クロコダイル以上に愛着は湧いている。

イサゴの怒りはもはや心配に切り替わっていた。出ていってやると意気込んだのは本気だが、まさか本当に出ていけるとはイサゴ自身無意識に否定していたのだろう。実際アラバスタ以外の土地に立って、こうも狼狽えている自分がいる。邸が荒れていないか心配だ。バナナワニが変なものを食べさせられていないか心配だ。

クロコダイルの元を離れるという一番難易度の高い過程を果たしてしまったイサゴは急に頭が冷えて、クロコダイルにもう関わらないという目的を忘れ再び船に乗った。心配なのだ。邸とワニが。クロコダイルではなく、邸とワニが。


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