クロコダイル長編 | ナノ


本日の水難は、いつにも増して絶好調である。

朝に顔を洗えば突然水道管が破裂し、市場へ出掛けると水売りの男が転んだ拍子にイサゴへ向かって商品をぶちまけた。昼食を作っていたら戸棚から水の入った瓶が倒れて落ちてイサゴの頭で割れ、風呂掃除では泡で滑って転んで濡れた床に体を打ち付ける始末。バナナワニをデッキブラシでマッサージしてやればべろんべろんに舐められるし、洗濯をしていたら水を張った桶を引っくり返してまた濡れた。

今日だけで何度着替えたか知らないシャツのボタンを締めながら、イサゴは冷えきってしまった体をぶるりと震わせる。砂漠の国は汗が渇くほど暑いのに、今日は温まる暇すらない。何かアクションを起こす度に水難が降りかかってくるのだから、働く気も萎えるというものだ。
しかし仕事は仕事である。掃除も洗濯もペットの世話もどうにか熟し一日を終える頃には、もはや何かの罠ではないかと思うほどに水難がイサゴの体を襲っていた。濡れるというのは存外体力を奪われることである。心身ともに、疲労の限界だ。

不幸中の幸いは、クロコダイルが終日どこかへ出掛けているということか。どこへ行ったのかは知らないが、邸にいたらいたで何かしら雑用を言いつけてくるのだから、水難は倍に増えていたかもしれない。いくら水を被ったとてクロコダイルが優しい言葉を掛けてくれるわけもなし、まだ自分一人で不運を呪っていた方がマシというものだ。

    しかし本日は、水難だけでなく不運もイサゴに寄り添っているらしい。

今日は帰らないと、確かにそう言って出掛けたはずのクロコダイルが、夜更けに帰ってきたのである。しかもすこぶる機嫌が悪い。

この時点でイサゴはいやな予感をひしひしと感じていたが、まさか使用人が主人の帰宅を無視するわけにもいくまい。寝間着のまま出迎えたイサゴにクロコダイルはコートを投げつけながら、襟元を緩めて革張りのソファーに腰掛けた。どうやら機嫌が悪いだけではなく、随分と疲れてもいるようだ。クロコダイルの巨体はずるずると傾いでいき、最終的には左手の大きな鉤爪で顔を隠して動かなくなってしまった。イサゴはソファーの肘掛けに腰を降ろし、クロコダイルが何かを言い付けるのを待つ。不機嫌な時はいつもこうだ。放っておいてもいけないし、構いすぎてもいけない。気難しい猫のよう。

「……………水」

簡潔な催促を聞いて、昼間散々身に染みたそれに肩が揺れる。だが、だからと言って嫌だと言える道理もない。イサゴは部屋に備え付けの小さな冷蔵庫からボトルを取り出し、冷えた水をグラスに注いだ。受け取ったクロコダイルは緩慢な仕草で水を飲み干すと、空になったグラスをもう一度イサゴに差し出した。グラスを受けとる。水を注ぐ。渡す。
クロコダイルは口許にグラスを寄せ、しかし今度は飲まなかった。翳していた鉤爪を降ろすと、イサゴを見る。その鋭い眼が不穏に歪むのに気付いて、「あ」、と呟いた時には既に遅かった。

    バシャン。

飛沫をあげて、グラスの水は一滴残らずイサゴの顔にぶちまけられる。クロコダイルの手が滑ったのではない。わざとだ。クロコダイルはわざと、イサゴに水を掛けたのである。完全なる八つ当たりだと、言われなくともすぐに気付いた。

水難を引き寄せるイサゴを嘲笑って、時折クロコダイルはこんな嫌がらせを仕掛ける。いつものことだ、諦めろ。そんな台詞をにやにやと言われて、そうだなと頷けるのは余程心が広いかクロコダイルに心酔している者だけだ。生憎心が広くもクロコダイルに心酔してもいないイサゴは、こんな仕打ちを黙って済ませられるわけがない。

   …な、…」

なにしやがる、と言おうとして開いた口は、結局最初の一文字しか音にしてくれなかった。掠れて小さくて、クロコダイルにはそれすら聞こえていなかったかもしれない。
怒鳴れなかったことに、イサゴは自分自身のことながら驚き、そして気付いてしまった。
昼間散々被った水難に、心身ともに疲れきって、ようやく一日が終わったかと寝ようとしたら主人の帰宅、そしてこの仕打ち。
なんでこんな、おればっかり、こんな。
そう憤りを感じても、イサゴにはもはや、怒鳴る気力すら残っていなかった。

    いつもだったら。
なにしやがるバカダイル、と怒鳴って罵って喧嘩になり、イサゴは意趣返しにと濡らされた手でクロコダイルの頭と顔をぐちゃぐちゃに撫で回そうと手を伸ばすのだ。特にこうやって嫌がらせでわざと水を掛けてきた時のクロコダイルは妙に大人しくて、庭先で寝そべる野良猫のように黙ってイサゴの手を受け入れる。顔は嫌がっているが、鉤爪がこめかみに向かって飛んでくることもない。
悪いと思っているんだろうと、イサゴは思っている。だから顔も髪もべたべたに触られても黙っているのだと。悪いと思うならやらなければいいのにとも思うが、それでもやってしまうからクロコダイルをバカダイルだとイサゴは罵るのだ。罵って意趣返しをして、少し可愛げのあるクロコダイルを見て満足したらイサゴは爆発した怒りをすぐに治めることが出来る。いつもだったら、の話だ。

だが、今日はもう、どうしたらいいのかわからない。

怒りはあるのに爆発しない。ぶすぶすと燻ったまま黒い煙だけが立ち込め、イサゴの胸の中に充満した。

「…もう、いい」

食い縛った口から、自分のものではないような弱々しい声が出た。クロコダイルは微かに目を丸くする。それなりに長い月日を共に過ごしてきたはずなのに、その珍しい表情が赤の他人のようにも思えた。ストンと落ちるように冷えていく感覚に伴い、疲れきっているはずのイサゴの体は素早く動く。濡れた床もそのまま、クロコダイルに背を向けて、ぽたぽたと髪から垂れる水を手の甲で拭った。

「…お前には、付き合ってられない」

水のように冷えきった声に、クロコダイルは何も言わなかった。どんな顔をしているのかも、イサゴは背中を向けていたからわからない。
普段の苛烈な怒りとは対極的に、静かな動作で部屋を出た。お前なんか知るか。もう知るか。自室に戻ったイサゴは、着替えと財布、エターナルポースだけを持って、クロコダイルの邸を飛び出した。


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