クロコダイル長編 | ナノ


濡れた床。ガラスの破片。無惨に砕けたデスクの亡骸と、棚から崩れ落ちている無数の本。そしてその中央には、頭から血を流して男が倒れている。

ロビンはクロコダイルの部屋に入るなり視界に飛び込んできたこの惨状に「あらあらうふふ」と目を細めた。珍しいことではない。ロビンがクロコダイルと手を組むようになって、何度も見てきた光景だ。

「…見てねェで助けねェか、オールサンデー」
「あら、あなたに助けが必要なのかしら」
「人としての道徳を説いてんだ。わからん女め」

不機嫌を隠さず、むくりと起き上がった男の名前はイサゴ。クロコダイルの使用人である彼がまるで賊に襲われたかのような状態に陥っているのには理由があったが、その理由とは至極単純なものである。クロコダイルと喧嘩した。ただそれだけの話だ。

「くそっ…またこんなに散らかしちまったじゃねェか」
「サーと喧嘩をして生きてるだけですごいと思うわ」
「慰めのつもりか?」
「いいえ、事実よ」

少なくともロビンは、クロコダイルに喧嘩を売って生きている輩を見たことがない。イサゴは確かに腕力も反射神経も人並み外れてはいるが、クロコダイルに勝てるかといえば答えはノーだ。短気なクロコダイルが彼を殺さないということ、クロコダイルの性根や実力を知っていながらあっさり喧嘩を買う彼の度胸。全てを総括して「すごい」という評価は決して間違っていないはずだ。

「おいオールサンデー。片付けるから用がねェならどっか行ってろ」
「サーはどこ?」
「今は誰にも会わねェと思うぜ」
「あら、どうして?」
「顔面ぶん殴ってやったからな。腫れてんだよ」

得意気な顔で拳を見せる。まるでチンピラだ。ロビンはあらあらうふふともう一度笑うと、彼の頭に手を生やして、ひどく腫れ上がっている部分を撫でた。「いてェ」と途端に不機嫌な顔に戻ったイサゴは、血塗れのそこを乱暴に服の袖で拭う。

「先に手当てじゃないのかしら?」
「構いやしねェよ、すぐに治る」

確かにその言葉の通り、深そうに見えた傷からはもう血が止まっている。体が異様に丈夫なのも、クロコダイルと喧嘩が出来る理由のひとつだろう。しかし彼がクロコダイルに対抗出来る一番の理由は、幼い頃から付きまとっているという不運な巡り合わせのおかげだった。

濡れた床。ガラスの破片。そして彼の拳やシャツは血の他に水でも濡れている。コップでも割ったのかもしれない。ロビンが視線で問うと、彼は砕けたデスクと散らばる本を片付けながら溜め息を吐いた。「いつものことだ」。確かに、彼が濡れていることなどいつものことである。


水難の相が出ていると占い師に言われたのは10歳の頃。昔からやけに水に好かれる人生だったという。
蛇口を捻れば急にコックが外れて水を浴び、快晴のはずが出掛ければ突然の局地的スコール。水槽の近くを通った時にはいきなり大きな熱帯魚が暴れだして水しぶきを受け、海に出れば大概乗っている船が転覆する。例を挙げたらキリがない。イサゴの人生は常に湿っているのだ。比喩ではない。砂漠の国に住んでいるというのに水には困ったことがないといえば裕福な話だが、実状は何の自慢にもならない不運だ。

今日の水難はといえば、イサゴが水を注いだコップをクロコダイルに渡そうとした時だった。クロコダイルが視線を書類に向けたまま手を伸ばしたものだから、コップとぶつかって水がばしゃり。零れた中身は一滴残らずイサゴの手や体を塗らし、クロコダイルには一切被害がなかったというのだから正に奇跡の水難体質である。
普通に考えれば手元をろくに見なかったクロコダイルが悪いのだが、「相変わらず鈍臭ェな」と自分の非を棚に上げたのでイサゴはカチンときた。
「今のはてめェが悪ィだろ」「いつものことだ、諦めやがれ」「まずは謝れ、話はそれからだ」「なんでおれがてめェに謝らなきゃなんねェんだ」「泣かすぞクソダイル」「やってみやがれ役立たず」
    そして殴りあいの喧嘩が幕を開けたのである。
濡れた手足ならばロギアのクロコダイルにも触れることが出来る。大抵は何発かクロコダイルにイサゴの拳や蹴りが入って、クロコダイルが倍返しして終わるはずだ。今日もその例に漏れず、イサゴはボコボコにやられている。しかし死んではいないのだから、ロビンは「すごい」と思うのだ。クロコダイルに暴言を吐いて、殴って、それでも許されている。自分の意に沿わない人間は全て切り捨ててきたクロコダイルを思えば、彼はやはり奇跡のような男だ。

「片付けが終わったら、サーに伝えてちょうだい。始末は終わったわ、と」
「言えば解るんだな?」
「ええ」
「わかった、伝えとく」
「お願いね」
「はいはい、お疲れさん」

犬を追い払うような仕草でロビンを労った彼は、簡単に後片付けを終えると棚の上に常在させている救急箱を手に取った。部屋を出ていく寸前にその様子を見たロビンは、その救急箱が『手当てなど不要だ』と言った彼の為に使われるわけではないことを知っている。彼は彼が傷付けたクロコダイルの為に、今から手当てをしに行くのだろう。
イサゴの怒りは長続きしない。一度燃えたらすぐに消えて、あとは相手がしつこく怒っていても適当に丸め込んでしまうのだから、根に持つタイプのクロコダイルとも結構上手くやっているのだ。羨ましいことである。二人のようになりたいなどとは、ロビンは決して、願わないけれど。


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