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    カリファちゃんの浮気者。

一週間前に恨みがましく私を罵って最後、彼は姿を消してしまった。元々姿なんか見えていなかったのだから、正確には何も言わなくなってしまったと表現するべきかしら。黙り込まれてしまえばどこにいるかも、本当にいるのかもわからなくなって、何度話し掛けても拗ねたように沈黙が降りてくるばかり。そのうちとうとう出発の日になってしまって、「私、もう行くわ」。諦め半分で呟いた。鏡台の上の指輪を左手にはめると、窓がきしきしと鳴く。いるのね、そこに。

    長期任務なんて、やだ。
怒った子供みたいな、幼い口調の声。

「…仕方ないじゃない。仕事よ」
    秘書なんてやだ。浮気だ。カリファちゃんの浮気者。
「秘書をどんな仕事だと思ってるのよ、あなた」
    呪い殺してやる。

殊更声色を恐ろしくして脅すくせ、「出来ないくせに」と返せば溜息混じりで笑った。『かわいくないの』。カリファちゃんはかわいいっていうより美人だと言っていたのは、他でもないなまえなのに。

私の部屋にしか存在出来ない彼は、勿論一緒に行くことなんか出来ない。長期の任務で、しかも一人の男の秘書として潜入するのだと言ったら、独占欲の強い彼はいじけてしまった。
手ェ出されたらどうするの。セクハラされたらどうするの。むさい男ばっかの職場で、いやらしい目で見られたらどうするの。おれは嫌だ。カリファちゃんはおれのだもん。カリファちゃんの浮気もの。    そして沈黙。なんて大人げないのかしら。
でも私は知っている。これはただのいじけたふり。意地悪をして楽しんで、私の心に傷を残す。「そしたらおれのこと忘れないでしょ」。普段の優しい顔を崩して笑った記憶は彼にまだ肉体があった頃。私がなくした。だからかしら、意地悪が以前にまして陰湿だわ。

「…行ってらっしゃいって、言ってくれないのかしら」
    言ってほしいの?
「言ってくれなきゃ、勝手に行くわ」
    かわいくないんだァ。
「クールビューティーでしょ?」

いつか言われた彼の台詞をなぞらえて返すと、彼はまた笑った。
気をつけてね、おみやげはカリファちゃん本体でいいよ。おれがいない間、気が狂いそうなくらい寂しい思いをしてね。
冗談混じりの本気は彼らしくて安心する。寂しいわ、なんて、絶対に口に出してはあげないけれど。

電話をするわ。一日二回。朝と晩、あなたにおはようとおやすみを伝えるために。誰も応答出来る人がいないこの部屋へ虚しく響く電伝虫の声を聞いて、あなたも少しだけ寂しくなればいい。意地悪だなんて、今まで話し掛けても応えてくれなかったあなたには言わせないわ。私はたくさん話しておきたいことがあったのに、もう出発まで時間がなくなってしまった。誰にも言えないこと、誰にも言えないあなたにしか言えないこと、たくさん聞いて欲しかったのに。

「時間だわ、行ってくるわね」
    ん、行ってらっしゃい。

ちゅっ。音だけのキスが彼の唇から漏れて、笑ってしまう。そんなこと、今まで一度もしてくれたことなんてなかった。
私も左手にはめたシルバーリングにキスを落として、振り返らずに部屋を出る。お気に入りの大きな浴槽と、細かい装飾がされた鏡台。広くて天井の高い部屋はお気に入りだけど、未練なんて少しも残っていないの。ただあなたが待っていてくれたらそれでいいわ。

「留守をお願いね」

私のいとしいゴースト。


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