50000 | ナノ


※過去話



気付いた時には気にならない程度だった小雨が大粒の雫に変わろうとした瞬間、いっしょに買い物に出ていたなまえはわしの腕を掴んで一目散に走り出した。どこへ、と問う声も雨音に掻き消されて届かない。衣服に覆われた肌にまで水が浸透してくるのはあっという間で、ようやくどこかにたどり着いたかと思えばそこは何の変哲もないアパートの一室だ。「なんじゃ」。簡潔な問いかけに、「おれの家」と簡潔な答えが返ってくる。聞きたいのはそういったことではなかったのだが、頭から靴までずぶ濡れのなまえはポケットから鍵を取り出すのに苦戦していてそれどころではないようだ。もたもたしながらも30秒と経たずに開いたドアはガタがきているようで軋んだ音を微かに立てる。ギィ。中は普通の、1LDKだ。

「…早く入れよ」

そこでようやく、雨宿りに連れてこられたのだと気付いた。

「…先に言わんか。てっきりわしは宛もなく走っとるんだとばかり思っとったぞ」
「そんなのただのアホじゃねェか。言ってる間に濡れると思ったんだよ」
「もうずぶ濡れじゃがな」
「うるせ」

いいからシャワー浴びてこい、と背中を軽く蹴られてしまうと、今更断るのも不自然だ。大人しく案内された風呂場に向かうが、本当は必要以上にこの男に近付くつもりなどなかった。
潜入した町の、年が近くて気が合いそうな、普通の男。隠れ蓑の友人として選んだ素材には妥当だったが、口と性格が悪いのが玉に瑕だ。最初は好青年の面をしていたくせに、仲良くなると本性を晒すタイプらしい。そのくせ、変に優しいのも玉に瑕だ。「濡れたのはそのカゴの中な。湯張ってやるからちゃんと肩まで浸かれよ」。わざわざこんなことを言う。あの豹男と比べたら、なんて生ぬるいサディストだ。


    突然降りだした豪雨に、本当は少しだけ感謝している。

明日はいくつかの命を消して、この町から出ていく。わしの存在を不自然にしないための友人役として選ばれたなまえももはや用無しで、本当は今日、いつもと同じ「また明日」で全てを終わらせるつもりだった。
もう少しだけ、あと少しだけ、とゆっくり歩いて、普段は興味など惹かれない店を冷やかした。雨が降りそうな空も、見ないふりをしていただけで本当は知っていた。諜報部員らしくもない感情が燻って嫌な焦りを生む。
なまえには必要以上に関わるつもりなどなかった。これは本当だ。
嘘で固めた身の上話を聞かせて、油断させて、取り入って、町に溶け込んで、裏で手を引く。終わりになったら形跡を消してさよなら。もしも何か感付くようなら殺害すら厭わない。そのつもりだった。いつものことだった。ほんの少し、友人役にはまりすぎただけだ。

「…このシャツ、異常にでかいぞ。他のはないんか」
「我が儘言うなよ。彼シャツみたいでかわいいぞー」
「頭沸いとるんか」
「遠回しにチビって言ってんだバァカ」
「……わしはまだまだ成長期じゃ」
「へーそう」
「…………」
「いってェ!お前こっちは包丁持ってんだぞ!危ねェだろ!」

風呂から上がって、キッチンに立つなまえと交わすのはいつもの会話。いつものじゃれあい。ひとしきり済んだら、なまえはいつも落ち着いた声で優しいことを言ってリセットをする。だから悪口を言っても喧嘩に発展することはなかった。

「飯食って、泊まってけよ。止みそうにねェし」
「お前の飯は人間様が食えるんか」
「チビカクちゃんは好き嫌いしてたらでかくなれねェぜ」
「…………」
「だっから!蹴るなよ!」

ぎゃあぎゃあ言い合って、またじゃれて、避けようとした体を掴まれて、ぶん、と乱暴に投げられたのはベッドの上。静かにしてろ、と大人ぶった物言いをして、歳なんかそう変わらないくせに。
肩からずれそうなシャツを直して、もう一度なまえの側に寄った。今夜は気が済むまで文句を言うぞ。悪口も言う。じゃれて暴れて、いつものように他愛もない話で盛り上がったら、わしは寝たふりをしてなまえが熟睡するのを待とう。

決行は今夜3時。
わしはお前に最低の別れを残してこの町を去る。


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