50000 | ナノ


女しか見当たらない背後を確認して、おかしい、とパウリーは首を傾げた。
ここのところずっと、もう一週間にもなるだろうか。通勤時にも造船所の周囲にも帰路の途中にも、借金取りの姿を全く見ない。追い掛けられるわけでも罠を掛けられるわけでもない。ただ目をハートにした女達だけに狙われる日々が続いている。周囲もそれがおかしいと思っているらしく、「なんだパウリー借金返せたのか。明日は季節外れのアクアラグナでも来るんじゃねェだろうな」と冗談とも本気ともつかない言葉をあちこちから掛けられるが、パウリーとて現状が全く把握出来ていないのだ。好き好んで取り立てられたいわけではないが、ぱったりとなくなった請求は明らかに不自然である。
家に帰る途中、いつも金を返せと叫ぶ黒服の男達の一人に仕事帰りばったりと遭遇したが、怒鳴られることはなかった。「もう返せねェ金借りんじゃねェぞ」。たったそれだけを伝えてパウリーに背を向ける。逃がすかと取っ捕まえたのはパウリーの方だ。普段と真逆の立場に、なんだなんだと通行人が奇異の目を向ける中、白状させた真実は簡単で、原因は案外身近にいた。


    だって、うちの会社にまで来られるもんだから。迷惑」

ずばっと切り捨てられた気分だ。パウリーが抗議の為に開いた口からはもはやぐうの音も出ない。

ここのところパウリーが借金取りに追い掛けられなくなったのは、なんということはない、なまえがパウリーの借金を全て返してしまったからだった。
「お前の同居人に金もらったんだよ」と伝えられた時の気分といったら、恥ずかしいやら情けないやら、とにかく最悪である。余計なことをするな、とも思った。パウリーの借金はパウリーのものであり、返すも返さないもパウリーの問題だ。けれど借金取りはいつの間にか、同居人でありなおかつ金も持っているなまえに標的を切り替えたらしい。
お前んとこの居候が借金してんだから、衣食住面倒見るなら借金も面倒見てやれよ。
八つ当たりにも近い借金取りの恫喝は、案外あっさりとした「いいよ、払ってやるよ」によって見事集金が完了してしまった。むしろ狼狽えたのは借金取りの方だ。まさか本当に肩代わりしてもらえるとは思わなかったが、貰えるものは貰ってさっさと退散。そしてパウリーの元へ借金取りは来なくなったのだった。当たり前だ。追い掛ける意味が無くなったのだから。

事実が発覚してすぐ、パウリーはまだ仕事中だったなまえの元に勢いよく飛び込んだが、当のなまえは何がそんなに悪いのかと首を傾げるばかりだ。確かに責められるべきはなまえではない。借金をしておきながら返さないパウリーの方である。

「…だ、ってよ、おま、結構あったぞ…」
「借金の額が?それとも借りてるところの数が?」
「ど、どっちも…」
「全部返したよ。一ヶ所に払ったらどっからか噂聞きつけて続々と借金取りが集まってきた」

「危うくうちの会社の評判が悪くなるところだ」。皮肉や嫌みのつもりではないのだろうが、聞けば聞くほどパウリーには罪悪感が募る。これがなんの縁もゆかりもない他人がしてくれたことならば『ラッキー』の一言で済ませられるくらいには金に困っていた。しかしなまえは他人ではない。家を無くしたパウリーを拾ってくれた恩人で、曲がりなりにも恋人だ。これ以上借りを作ってしまったら、きっとパウリーには一生掛かっても返せない。他人には薄情でも、一度懐に入れてしまった人間に対して、パウリーはどこまでも真摯だ。

「なんで何にも言わなかったんだよ…」
「別に大したことじゃないだろ」
「大したことだろ!」
「そうか?」
「あんたの金銭感覚どうなってんだ…!」
「ギャンブル狂いに言われたくないなァ」
「う」
「冗談だ」

ふ、と笑ったなまえは、全く怒っていないらしい。座り心地の良さそうな椅子に身を預けて、ちょっとだけ呆れた様子で仁王立ちのパウリーを見上げている。居心地悪そうにその視線を受ける姿にもう一度穏やかに笑うと、「別に気に病むことはないさ」と優しく柔らかい声でパウリーを宥めた。

「おれも下心がないわけじゃないんだ」
「…下心?」
「パウリーがおれに返したければ借用書を作ったって構わないし、まァ利子がつかない借金になったと思えばそれでいいだろ」
「…ああ、まァ、おう…、そうだな」
「なんなら体で返してくれたっていいんだけどな。キスで5万、セックスなら10万」
「ハレンチ!!」
「悪い話じゃないと思うんだけどなァ」
「そっ、そういうこと、は!金と引き換えにするもんじゃねェだろ!」
「…ふゥん?」

    しまった。
パウリーは焦る。これでは金が関わってなくてもキスやセックスをすると言っているようなものではないか。現に付き合い始めて3ヶ月が経とうとしているが、なまえはパウリーのレベルに合わせてキス以上はしてこようとしない。待つよ、と言ったことを守ろうとしてくれる恋人に、金で体を明け渡すほど軽薄なつもりはないし、何よりそれはなまえの気持ちを弄ぶ行為だ。告白された時は確かに戸惑ったが、付き合っているのは決して嫌々ではない。だからパウリーには、そんな売春のような真似は決して出来ない。赤くなって狼狽えるパウリーに、なまえは楽しそうに笑って助け船を出した。

「ま、それは冗談として」
「う、お、う」
「…会社にこられるのも迷惑だったけど、パウリーを追い掛けられるのも迷惑だ」
「…あ?」

がたん。音を立てて椅子が倒れる。急に腰を上げたなまえにパウリーは顔を引いたが、直ぐさま伸びてきた腕に引き寄せられてぶつかるようなキスをした。がちん、と音が鳴ったのは口からか固まったパウリーの体からか。はれんち、と叫べば開いた口に舌が入ってくるのは既に学習していたので、がちがちに固まって真っ赤になったパウリーは、されるがままになまえの唇を受け入れるしかない。

「…ただでさえ人気者なんだ。男に追い掛けられてる姿なんて、見てたら腸が煮えくり返りそうになる」
「あ、れは…っ金の、ため、だろ…」
「それでも」

パウリーの髪を梳く指先や、啄むようなキスは優しいのに、間近で合わせた瞳は底冷えのする色だ。パウリーが震える呼吸を細く吐き出すと、なまえは瞳を隠すようににこりと笑ってパウリーを放した。

「…ま、目的はもういっこあるんだけどな」
「…もういっこ?」

椅子を立て直し、背もたれに掛けていたジャケットを羽織ると、なまえは爽やかに笑った。

「これだけ恩を売ったら、パウリーはおれから離れられないだろ」

    さ、帰ろうか!
パウリーの手を引いて帰路につくなまえは、善人ではないが悪人でもない。どちらかといえば親切な男ではあったが、パウリーは今更になって思うのだ。借金取りや借金を返さない自分よりもタチが悪いのは、逃げ道を作ってくれないこの男だと。


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