スモーカー長編 | ナノ



給湯室に一歩踏み入れたヒナは、思わず「嫌っ…」と反吐を出しそうな声を発してしまった。エンヴィの背中を見掛けて何も考えずにそちらへ足を向けたのだが、近付いてみれば今にも踵を返して逃げ出したい衝動に駆られる。
エンヴィは振り向かない。けれどどんな顔をしているのかはわかった。きっとひどい顔だ。瞳の奥が澱み、口元は固く結ばれているような。そんなエンヴィの表情をヒナは何度も見てきたが、今回はさらにひどいようだった。重くて暗くて苦しい殺意のような空気が、エンヴィの背中から隠すこともなく放たれている。不用意に近付けば呪われてしまいそうなプレッシャーに、ヒナは吐き気を抑えて「エンヴィ?」と話し掛けた。エンヴィは振り向かない。ヒナの声が聞こえていないようだった。

原因はなんとなく、いや、概ねわかっている。スモーカーの異動願のことだろう。昨晩ヒナとたしぎが酔い潰れてしまった後、二人の間でそんな話が出たようだ。
目を覚ましたヒナとたしぎに「おはよう」を告げた直後、「そういえば二人とも、スモーカーくんがまた突飛なことを言い出したよ」と苦笑しながら伝えられたG5への異動願の話に、ヒナは絶句した。何故そんなところへ行きたがるのだとスモーカーの頭を疑い、そしてエンヴィの反応を恐れた。朝食を作りながら、手伝いをするたしぎに「ねェたしぎちゃん、君はどうする?スモーカーくんに着いていく?」と聞いていたエンヴィは穏やか過ぎて不自然だったのだ。ヒナはハラハラしながら二人の会話を盗み聞きして、それと同時に他人事のような顔をして新聞を読んでいるスモーカーの頬を平手打ちしたくなった。

    スモーカー君、あなた、エンヴィにどんな風に伝えたの?

ヒナに背中を向け、未だ反応を示さないエンヴィに、スモーカーへの怒りがむくむくと沸いてくる。どうせまた、ろくな対話もせずに、スモーカーの頭の中で出た結論だけをエンヴィへ告げたのだろう。スモーカーの選択が間違っているとは言わない。けれど進め方が問題だ。現にエンヴィは傷付いているのだから。

コンロの火だけが光源となって照らされた彼の顔を、ヒナは横から覗き込んだ。「嫌っ…」。つい再び反吐のような声が出てしまったが、これは仕方がないだろう。あまりにもひどい。ひどい、顔だ。
普段の彼と比べたら、別人だと間違っても正解であるほど、今にも人を殺しそうな顔をしている。濁った瞳で呆然とコンロの火を見つめ、微動だにしない。

    エンヴィ」

ヒナは少し躊躇ったが、エンヴィの腕を掴んで揺すった。ゆっくり、ゆっくりと、彼の眼球が動いてヒナを見つめる。「………ヒナ、ちゃん」。掠れた声で、とても哀れな声色で、エンヴィはヒナを呼んだ。ヒナの方こそ、泣きそうになってしまった。

「……………ヒナちゃん」
「…ええ」
「………ヒナちゃん?」
「ええ、そうよ」
「………コーヒー、飲む?」
「……今は、それどころじゃないでしょう」
「………うん」
「…スモーカー君のこと」
「……うん」
「納得して、ないのでしょう?」

うん、と声を出さずに頷いたエンヴィの瞳から、ぽろりと涙が溢れた。「どうして」。震える声。聞いていられない。けれど黙ってヒナは先を促した。

「…スモーカーくん、何も、言ってくれないんだ。おれは、クザンさんのおまけなんだ。離れても、いいんだ。おれはいやなのに。たしぎちゃんは、連れていくんだ。おれはいやなのに。なんでなんだろう。そんなものなの?わからないんだ。スモーカーくんにとっておれは何?麦わらの方が大事?正義の方が大事?……ああ、大事だよね。わかってる。スモーカーくんは、おれのこと、結局、仕方なく、惰性で付き合ってるだけで、居たって、居なくたって、ああ、あああ、いやだ、やだよ、ころしたい、けしたい、ぜんぶ、しねばいいのに」

比喩ではなく蚊の鳴くような声で漏れた文句は、みっともなく震えて掠れて途切れて、半分以上ヒナには聞こえなかった。後はもはや彼らしくもない呪詛を呟いていて、とうとうエンヴィの瓦解が始まったのだと知る。

エンヴィはずっと我慢をしてきた。端から見れば馬鹿馬鹿しいくらいに、スモーカーの傍若無人な振る舞いも、無鉄砲な言動も、仕方ないなァと笑って受け入れて、その裏で歯を食いしばっていたのだ。嫌なら嫌だとスモーカー君に伝えればいいのよ、とヒナは助言をしたことがある。しかしエンヴィはそれを拒んだ。スモーカーの中の『誰にだって公平で、優しく親切に接するエンヴィ』を崩したくないのだと。
好きな人には良いところだけを見せたい。失望されたくない。嫌われたくない。
その感情は理解出来るのだけれど、ヒナにはそのせいでどんどんエンヴィの首が締まっていっているような気がしてならなかった。だってそうだろう。エンヴィがヒナに心のうちの暗い部分を見せるようになったのは、スモーカーと付き合い出してからなのだ。それは勿論ヒナを信頼してのことだが、元のエンヴィは本当に無垢な男だったはずだ。悪意も憎悪も理解が出来ないほど、人を愛する気持ちしか知らなかったようにヒナは思う。それをスモーカーが崩した。スモーカーに恋をして、想えば想うほど、寄り添えば寄り添うほど、エンヴィの胸の内はどんどん悪意や憎悪で満ちていく。ヒナに言わせれば、スモーカーもエンヴィも、極端すぎるのだ。妥協というものを知らない。全てを求めて、大事なものを溢す。第三者の目から見ていて、ヒナはそれがとても怖かった。そしてとても、馬鹿馬鹿しかった。

「…まだ異動が決まったわけではないのでしょう?少しスモーカー君と話してみるべきだわ。ヒナ協力」

優しい声色で伝えた助言は、無言のまま首を振られて却下された。ぱたぱたと零れ落ちる涙が痛ましい。瞳が澱んでいるのが尚更だ。「でも」とヒナがさらに言い募ろうした瞬間、薄暗い給湯室にパッと灯りがついた。

「………何してんだテメェら」
    スモーカー君!」

噂をすれば、だ。今正に遠征へ出ようとしていたのだろう、給湯室の前を通りがかった様子のスモーカーが、怪訝な顔をしてエンヴィとヒナを見ている。薄暗い室内で男女が寄り添っていれば、それは確かにおかしなことだろう。それも恋人と知り合いが、となれば尚更だ。しかしヒナにとっては好都合である。
「スモーカー君、あなた最低よ。ヒナ失望」。開口一番罵ったヒナに、スモーカーは眉をひそめた。意味がわからないといった顔だ。

「エンヴィがどういう気持ちで    
「ヒナちゃん」

代弁しようとしたヒナを制したのは、当のエンヴィだった。ヒナの腕を引いて掛けた声は、普段通りの凛とした響きでもって通る。先程までの弱々しい空気はない。パッと灯りがついたように、声も顔も瞳も、普段のエンヴィとまるで変わりなかった。

「スモーカーくん、もう時間ないでしょう?気をつけて行ってきてね」
「………何の話してやがった」
「君、朝食の後片付けしていかなかったでしょう。ヒナちゃんとたしぎちゃんが手伝ってくれたんだよ」
「…急いでた」
「うん、知ってる。急に予定変更になって呼び出しが掛かったんだよね。ほらもう出航でしょう?急がないと、本当に遅れちゃう」
「…………」

腑に落ちない様子だが、時間がないのは確かなのかヒナを一瞥してからスモーカーは二人に背中を向けて去っていった。エンヴィが言うのは「行ってらっしゃい」だけだ。何も言わない。苦しいことも、悲しいことも、スモーカーには何も。

「……………ヒナ不満」
「…うん、ごめんね」

もうエンヴィの声は沈んでいなかった。ヒナが何度話し掛けても狂ったままだった歯車が、スモーカーの姿ひとつでまたかちりと噛み合って正常になったのだ。苦しめているのも悲しませているのもスモーカーだというのに、エンヴィを元に戻すのもまたスモーカーである。

「…………ヒナ、心配」
「…うん、ごめんね。わかってる」

もう大丈夫、落ち着いたよ。
普段とまったく変わらない笑顔でそんなことを言うエンヴィの頬に、ヒナはぺちんと軽い平手打ちをお見舞いした。

なにが大丈夫だというのだ。この大嘘つきめ。


カミングアウトはお早めに


- ナノ -