クザンがセンゴクの呼び出しから執務室に戻ると、室内を異様に寒く感じた。先日の頂上決戦でポッカリと穴の空いた壁のせいではない。あらら?と思ってエンヴィを見ると、机へかじりつくように俯せていてクザンの帰還にすら気づいていない様子である。周囲に気を遣う性質の彼が上司の姿にも気付かないなんて。強烈な既視感を覚えて周囲を見回すと、他の部下はクザンを見て縋るような強張った表情を浮かべていた。何かがあったようだが、何かはわからない。彼が職場であんな姿を晒すことすら初めてだ。
「
とにかく声でも掛けてみようか、とクザンが彼の名前を呼ぶが、エンヴィはクザンに応えなかった。いよいよ疲労が極限に達したのだろうか。戦争の後始末に、活発化している賊の拿捕。その為の青雉の下についている各部隊への伝令。細かい指示や統率は全て彼に任せている。もしかしたら昨日の非番も、仕事のことが気に掛かって落ち着けなかったのかもしれない。
エンヴィは優しい。だが優しいというのは時としてひどく脆弱だ。容易に死にゆく命や人の悪意に中てられて傷付いているのだとしたら、クザンはエンヴィを救ってやることは出来ない。それでも放っておくわけにもいかないのだ。ここは海軍で、エンヴィは青雉の副官である。傷付いている時間にも、他に出来ることは山程あるはずだ。
「エンヴィ」
クザンはもう一度、今度は強めに、エンヴィの名前を呼んだ。ようやくエンヴィは反応を返す。小さく肩を揺らして、ゆるゆると頭を上げ、クザンを見た。やはりどこか目の焦点が合っていない。虚ろな瞳を、クザンは哀れに思った。それでも甘やかすわけにはいかないのだ。誰よりも彼の為に。彼が後悔しないために。
仕事しろや、の一言を、まさか自分がエンヴィに言うことになるとは思わなかったけれど、クザンは口を開いた。しかしそれより一瞬早く、エンヴィは立ち上がる。クザンを見上げる。不自然なほどにっこりと笑う。それでもまだ、目の焦点は合っていなかった。
「
「…………えっ?」
「スモーカーくんがG5に行きたいんですって」
「…えっ?」
「G5なんかに、行きたいんですって」
クザンが驚きの声を上げたのは、スモーカーがG5行きを志願したことではない。仕事中は必ず海兵を階級で呼ぶエンヴィが、「クザンさん」「スモーカーくん」とプライベートのように呼んだのだ。こんなことは初めてである。なんだなんだとクザンが視線を彷徨かせると、エンヴィの机の上に気付いて、ゾッとした。そして周囲の強張った表情の意味を悟る。
穴の空いた手配書。ひとつふたつの穴ではない。小さな穴が無数に、それこそ蜂の巣のように空いている。そこに映っている賞金首など、わからないくらいに。
傍らにはペン先の潰れたペンがあった。憎い憎いと、突き刺していたのだろうか。何度も何度も、判別不能になるまで。誰が?エンヴィが?
クザンの知っているエンヴィは、罪も人も憎まない。「どうしてみんな、酷いことが出来るんでしょう。優しくするのなんて、嫌われるより簡単で気分がいいことなのに」。こんなことを真顔で言うようなお人好しだ。だからエンヴィは、クザンの下でしか働けない。エンヴィの正義を貫くには、彼は優しすぎた。自他共に認めるほど、海兵には向いていないのだ。
だのにこれはどういったことだろう。否定したいがおそらく十中八九エンヴィの手で蜂の巣にされた指名書は、紛れもない憎悪の表れだ。
クザンの戸惑った視線に気付いたのか、エンヴィも机の指名書に目をやると、「あァ」と空虚な声で納得をして、ペンを握り
「ひどいでしょう、この人」
天板を貫くほどの勢いで以て、指名書を突き刺した。「ひぃ…っ」。誰かが抑えきれなかった悲鳴を上げる。クザンは確信した。
これは、憎悪だ。憎悪が彼を変えてしまった。
「…エンヴィ?」
「あっ!」
「えっ?」
「おれ、コーヒー淹れてきますね!」
「…え?」
唐突に快活な声を出したエンヴィは、制止を掛けたクザンの声も耳に入れず、颯爽と執務室を去っていった。残されたクザンと、固唾を呑んで見守っていた周囲の気持ちはひとつである。
あの子がおかしくなっちゃった