「ああ…これはもう新しく作り直した方が早いね」
真っ二つに砕けた十手を繁々と眺めて出した結論に、スモーカーは舌打ちをした。頂上決戦の真っ只中、ボア・ハンコックに反逆を受けたのだという。七武海に攻撃され、あの乱戦に武器を失った状態では致命傷を負わされたとておかしくない話だ。それを思えば十手ひとつの犠牲、どうということはない。
「武器の新調なら経費で落ちると思うけど、精算が遅くなるかも。何せマリンフォード自体がボロボロだから、修繕費がいくらあっても足りないんだ」
「わかってる。構いやしねェよ」
「領収書保管しておいてね」
「わかってる」
機嫌の悪そうな横顔に苦笑して、使い物にならなくなってしまった十手の海楼石だけを外してゴミ箱に捨てた。スモーカーの中では、七武海の一角が一時でも裏切ったことが頭にこびりついているのだろう。しかし判断材料が少なく、どれだけ推測を重ねても本人に答えを聞かない限りは机上の空論に過ぎない。ならばそれ以上ハンコックのことを考えるのは無駄だ。やめてほしい。増して彼女は絶世の美女である。例えそこに恋愛感情がなくとも、スモーカーの思考を占拠されるのはエンヴィにとって面白い話ではなかった。
「みんな無事だったんだから、今はもう良いじゃないか」
「…ふん」
眉間の皺が少しだけ緩んで、スモーカーは焼酎を呷る。その後ろでは、ソファーベッドで寄り添って眠るヒナとたしぎ。四人で行なったささやかな祝勝会で酔い潰れた女性陣の姿は、平和そのものだ。
戦争は終わった。掴んだ勝利は大きい。しかし失った犠牲も大きい。
エンヴィの知人は何人も命を落とし、比較的仲のいい友人達の一人も片足を斬り落とされて海軍を去ることになった。白ひげの牽制を失った海賊はにわかに動き始め、早々に市民への暴虐が報告されている。奇跡的に非番の重なった今だけが束の間の休みだ。明日からはこの四人もバラバラになって、目まぐるしい日々を再開させる。
ただ、スモーカーとたしぎは一緒だけれど。
スモーカーとたしぎだけは、一緒だけれど。
エンヴィは、自分が日に日に贅沢になっていくのを自覚していた。スモーカーがローグタウンに勤めていた頃は、まるで会えないし連絡だって事務的なものばかり。それでも時折交わす「元気?」「…ああ」の一言だけで満足していた。だのにスモーカーが本部勤務になり、会える頻度が増えて、見えない日常が見えてくると、エンヴィの心のうちはみるみる醜くなっていった。スモーカーに近付く女性が嫌だ。蔑ろにされると不安になる。自分勝手でどす黒い感情が、殺意や悪意となって他人に牙を剥く。じりじりと苦しい胸を解放するには根源を絶たないとならない。安心が出来ない。自分が正義の人に合っていないのは、エンヴィが一番よくわかっているのだ。それがまたエンヴィを苦しくさせる。
「またしばらく会えなくなるね」
「そうだな」
「寂しいな」
「腑抜けたこと抜かしてんじゃねェ」
「…そうだね」
ちくりと胸が冷たくなる。スモーカーがエンヴィを惜しんでくれないなんて、今更すぎて動揺もない。エンヴィは冗談ぽく笑って「体壊さないでね」と告げると、返ってくるのは「ふん」の応えだけだ。それでもいい。スモーカーに甘ったるい空気など、最初から期待していなかった。まだ本部にいて、たまに会えて、セックスをして、気持ちが確かめられればそれでいいのだ。
「…そういえば、大将に伝えといてくんねェか」
「うん?何を?」
「G5に異動してェ」
「……………………………………………うん?」
長い沈黙に、スモーカーは気付かない。気にしていないのかもしれない。
「海軍G・L第5支部」
「………支部?」
「あァ」
「……G5?」
「知ってるだろ」
「……うん…そりゃ…」
「どうして?」と聞く声が掠れなかったのは奇跡だ。スモーカーの視線はエンヴィが作ったツマミに向いていて、エンヴィの引き攣った顔には気付いていない。
「標的は近い方がいいだろ」
「…ひょうてき」
「新世界に行きてェ」
「……そう」
「伝えといてくれ」
「…うん、わかった」
麦わらの為?と聞かなかったのは自衛だ。何もエンヴィとてわざわざ傷付きたいわけではない。
スモーカーがローグタウンを出たのは、つい先日頂上決戦を掻き回した麦わらのルフィのせいでもあるし、彼のおかげでもある。スモーカーがG5に行きたいという、その理由がまた麦わらであるなら、今度は完全に彼の『せい』だ。
スモーカーはエンヴィに何も言わない。ローグタウンを出る時も、本部勤務になる時も。エンヴィがクザンの副官だから知ることが出来るだけで、今回の異動願も、エンヴィがクザンの副官でなければエンヴィに何も伝えず本部を離れていたことだろう。
エンヴィはG5がどんなところか知っている。異常な感性と、酷い環境だ。わざわざ志願するような場所ではない。そこにスモーカーは行きたがっている。
「……たしぎちゃんも一緒に?」
「さァな、こいつが行きたがればな」
「……そう、寂しくなるな」
「腑抜けたこと抜かしてんじゃねェよ」
そうだね、とは言えなかった。スモーカーは何も言わない。エンヴィの欲しい言葉をくれない。
どうして相談すらしてくれないの。たしぎちゃんは連れていくのに、おれとは離れても平気なの。そんなに麦わらに執着する理由はなんなの。大将のついででなければ、おれには何も話してくれないの。
聞きたいことはどれも女々しくて口に出せない。エンヴィが一番怖いのは、スモーカーに失望されることだ。
『誰にだって公平で、優しく親切に接する正義の人』。自惚れではなく、エンヴィは周囲からそう思われている。スモーカーとてそうだろう。だからエンヴィは自分が崩せない。不安でも不満でも不服でも、ただ普段のようにニコニコと笑うしか出来ないのだ。馬鹿みたいに。
「…G5、妙なところだから気をつけてね」
「わかってる」
ようやく笑えるようになったエンヴィの顔を、スモーカーは見ていない。G5の話もそこで途切れたまま、ささやかな休日は終わっていった。
君の言い訳を待っている