スモーカー長編 | ナノ



「…怒ってる?」

クザンが首を傾げてエンヴィを窺うと、彼もクザンと同じように首を傾げた。「どうしてそう思いますか?」と問い返されると困ってしまう。おそらく彼が怒る原因と言えば脱走で、さらに言えばしばらく戻ってこなかったことだ。帰ってきたら色んなところから叱られるし仕事は溜まっているし監視はつくしでろくなことがない。その上、一番クザンがいなくて困るけれど一番怒っていないだろうと思っていた副官のエンヴィは何やら空気が重かった。顔は笑っているのに、眼の奥が暗く澱んでいるような気がするのだ。

「いやほらさ、なんか、怖くない?」
「誰がです?」
「エンヴィが」
「おれが?」

きょとんとして瞼を瞬かせると、澱みは消えて普段通りだ。「…気のせいかも」。見間違いだったと前言撤回すると、エンヴィは困ったように頷いた。そんなことを言っている場合じゃないと言いたいのだろうか。たしかに今は、無駄口を叩いている場合ではなさそうだ。

「そんなことより早くサインして下さいませんと、今日も帰れなくなりますよ」
「もうやだなァ…これどさくさに紛れて普段より仕事増えてない?」
「まさか。むしろ隣の部署の中将に手伝って頂きましたよ。過労死しそうなレベルで」
「わァ、申し訳ない」
「後でお詫びの品持って一緒に御礼にいきましょうね」
「はーい」
「いいお返事です。では次ー」

机を囲むように築かれた書類の山から、期限が近いものや緊急のものをサインする度に次から次へと天板の上に乗せられる。まるでワンコソバだ。ただしストップをかけても給仕の手は止まらない。
助かるのは、クザンが中身を読まなくとも、エンヴィが判断をつけて決裁を出していることだ。クザンはただ差し出された書類にサインすればいい。盲判だと非難されてしまえばそれまでだが、こんな量の仕事に逐一関わっていたらそれこそ過労死レベルだ。サインの連続で攣りそうになる腕を揉みながら大きな溜め息を吐くと、「少し休みましょうか」と給湯室でポットに淹れてきたコーヒーを空のマグカップに注いだ。休憩とは言っても、部屋の外には出してくれないようだ。クザンはわざとズルズルと音を立ててコーヒーを啜りながら、手持ちぶさたにまだサインをしていない書類をいじった。その文書の中には、見知った部下の名前が記されている。

「…人員不足の件、スモーカーの隊から何人か引き抜かれるんだ?」
「………ああ、ええ」
「あそこ異動激しくない?おれあいつのとこ見掛けるたんびに違う人間がいるんだけど」
「そうですね、確かに他に比べて入れ替わりは激しいです」
「スモーカーに耐えられない奴が多いのかね」
「…さて、どうでしょう」
「でもあのメガネのねーちゃんだけは残ってるよな」
「……相性がいいようですから」
「へー、付き合っちゃえば良いのに」
「…ははははは、大将、ご冗談を」
「いや、いいと思うんだよねー、だってほら…」

あいつの無茶についてける女ってそうそういないよ。そう続けようとしたクザンは、中途半端に開いた口のまま無言になった。視線を書類からもコーヒーからも外して合わせたエンヴィの目は、先程「気のせい」と済ませた時の比ではなく暗く澱んで、濁っている。

「…ご冗談を」

念を押すように笑っていない眼の奥でにこりと笑われて、クザンは「あ、はい」とつい敬語で返事をしてしまった。

    やっぱりなんか、怒ってる?


そのお喋りな口を早く閉じて


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