スモーカー長編 | ナノ



つい今しがた遠征から帰ってきたたしぎは、報告書を提出しようと廊下を早足に歩いていたが、突き当たりを曲がったところで目の前にいた誰かと衝突してしまった。あ、と思った時には既に遅く、バランスを崩して体が傾ぐ。
    転ぶ!)
すぐに訪れるだろう痛みを覚悟して目をつぶったが、しかし地面と衝突することはない。誰かが肩を抱くようにたしぎを支えているのだ。「危ないよ、たしぎちゃん」。優しくたしなめる声には聞き覚えがあった。

「………エンヴィさん?」
「うん、廊下はゆっくり歩こうね?」
「す、すいません、助かりました」
「いいえ、遠征お疲れさま。怪我はない?」
「はい、おかげさまでみんな無事です」
「それは何よりだけど、そんなに急いで、どこへいくのかな?」
「あ、これ」

エンヴィに右手の書類を見せると、「ああ」とひとつ頷いて取られてしまう。「出しておくよ」。どちらにせよ持っていく先はエンヴィが所属している青雉の部署だ。たしぎは頭を下げて、その言葉に甘えることにした。急がなくてはならない。すぐに次の任務が控えているのだ。


島や土地を守る役割の支部に比べれば、本部勤務は自然と遠征が多くなる。あっちへ行っては本部へ戻り、そっちへ行ってはまた本部へ戻る。時には本部に戻らず次の任務へ向かうことはあるが、今のところはどんなに長くても1ヶ月で本部に帰って来られているので報告書の提出が遅れるということもない。噂では島流しのように辺鄙な場所へ送り込まれて数年帰って来られない本部勤務もいるというのだから、スモーカーの部隊は楽な方だろう。
しかしたしぎは不思議でもあった。自慢にもならないが、スモーカーはその性格から上に睨まれている。だからこそ遠くの島へ飛ばされてもおかしくはないはずなのだが、しかし任務先は本部からそう遠くもなく、遠かったとしても名を上げている海賊が標的で、ひとつひとつ任務をこなす度にスモーカーの部隊も評価されていくのだから、嫌がらせどころかまるで贔屓をされているかのようだ。
任務はスモーカーの上司である青雉のところから降りてくる。そしてその青雉にはスモーカーの同期であるエンヴィが副官についている。だからたしぎはエンヴィがスモーカーに割りの良い仕事を回してくれているのではないかと思っているのだが、スモーカーが「それはねェ」と断言するのだ。彼はそういった人間ではないと。そうだろうか。確かに彼は仕事に私情を持ち込むような人ではないかもしれないが、スモーカーやたしぎを甘やかすことに関しては右に出るものがいないほど優しいのも確かである。

「あの、エンヴィさん」
    ねぇ、たしぎちゃん」

いっそ目の前のエンヴィに聞いた方が早いのでは、と口を開いた途端、たしぎの言葉を潰すように声を掛けた。「今日、スモーカーくんは?」。確かに普段報告書を出すのは責任者であるスモーカーの役割だ。しかし今日は、本部へ帰還した途端に補給のことで呼び出しが掛かって、たしぎに報告書を預けたのだった。お前が行ってこい、と。

「…そう、今回はすぐに次の任務へ向かうからね、せわしいね」
「はい、すいません代理提出で…」
「いやァ、構わないよ。どうせ受理するのはおれだから」

誉めるように、エンヴィの手がたしぎの頭を撫でた。照れ臭いけれど嫌ではない。互いに性的な意識が微塵もないからだろう。幼い子供のように「えへへ」とはにかんだたしぎに、エンヴィは目を細めた。

「…たしぎちゃんはこんなに良い子なのに、スモーカーくんは悪い子だなァ」
「えっ、なんでですか?」
「…葉巻の匂いが、たしぎちゃんに染み付いてる」
「あ、それは、四六時中一緒にいましたから」

エンヴィの笑みが、不自然なほど深まった。どうして笑うのだろう。おかしなことを言ったかな。たしぎは自分の発言を反芻したが、スモーカーが葉巻を吸うことも、スモーカーとたしぎが任務中はずっと行動を共にしていることも、スモーカーの葉巻の匂いがたしぎに染み付いてしまうことも、何も不自然ではないはずだ。

「…副流煙のことも考えてもらわなくちゃね」

たしぎちゃんの体が、心配だ。
そっと囁くと、エンヴィがたしぎの髪をまた撫でる。
何故だかその瞬間、背筋に寒気が走った。エンヴィの声も手も顔も、いつもと変わらないのに、何かが違うような気がしたのだ。けれど何かはわからない。頭から爪先まで眺めても、これといった違和感など見当たらなかった。

「…スモーカーさんが禁煙なんて、想像つかないですね」
「うん、そうだね、おれも想像出来ない」
「私も、もう、慣れましたから」
「良い子だなァ。けど、くれぐれも体には気をつけるんだよ?」
「はい、ありがとうございます」

「じゃあ、次の任務気をつけてね」。手を振って去り行くエンヴィは、やはりいつも通りのエンヴィだ。気のせいかと結論付け、踵を返してスモーカーの元へと戻ることにした。

その背中にはひとつの視線が突き刺さっていたのだけれど、たしぎはとうとう気付けなかった。


言ってはいけない○△


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