失敗した、と思った。スオウさんの腕の中でぐっすり眠ってしまったことではない。昼に見張りの当番があったのを、すっかり忘れていたことだ。 呼んでも探しても出てこないから、代わってやったぜと言ったのは夜の見張り番だった。親切心ではないのはすぐに分かる。大方おれがいないと知って、すぐさま名乗りを上げたのだろう。 シャンクスいねェならおれが代わるよ、ただし。 本人不在のまま出された代替案はあっさりと飲まれてしまい、昼にサボった分はそのまま夜の当番と入れ替わった。失敗だ。昼と夜なら、それはもう昼の方がいいに決まっている。夜の静かな海も嫌いじゃないが、この海域の気候は寒くて風が強く、夜になると凍えそうになる。目の前は真っ暗。せいぜい月明かりが海面に映る程度の暗い景色。びゅう、と唸り声を上げて吹く風は、おれの耳をちぎっていってしまいそうだった。
「シャンクス」
ぎし、ぎし。縄梯子が鳴る。見張り台から下を覗き込んでみれば、スオウさんが登ってきていた。
「…え、なに」 「端に寄れ」 「う、うん」
狭い見張り台の中に、スオウさんの体が滑り込む。端に寄っても居場所がなくなったおれの尻は、自然な動きで持ち上げられてスオウさんの太腿の上に乗った。なんだろう。もう二日酔いも覚めて大分具合もいいようだけれど、いつにも増して何を考えてるのかさっぱりわからない。こんな寒いところに、あるいはおれに、なんの用だろう。
「ん」 「ん?」
短い言葉で差し出されたのは、湯気が立つマグカップ。器用に片手で持って登ってきたんだろうか。掌に押し付けられるがままに受け取ると、中身は酒の匂いがした。甘いぶどうの匂い。ホットワインだ。
「…おれに?」 「これで風邪でもひいてみろ、またおれのせいにされて慰謝料払わされたんじゃ堪ったもんじゃねェからな」 「しねェよ!」 「どうだか」
月の光に照らされて、チェシャ猫みたいにニヤッとするスオウさんはいつものスオウさんだった。ニヤニヤ、何が本当なのかわからない顔で笑っている。だけどおれにホットワインを持ってきてくれたのは紛れも無い本当だ。ありがと、と小さく呟いて一口啜ると、甘くてやさしいワインは赤の味をしていた。暗くてよく見えないけど、口紅みたいに真っ赤で濁った色がカップの中に揺蕩っているんだろう。
「…スオウさんって、本当に赤が好きだよな」 「あ?いや別に、どっちかってェと白の方が飲むな」 「え?」 「あ?」 「…ワインじゃなくて、色のことだよ」 「…ああ」 「口紅も真っ赤だし」
ワインと、口紅と。他にもスオウさんは赤にこだわっていたような気がするけれど、並べてみるとせいぜい口紅くらいだった。ワインは今、本人から白の方が好きだと言われてしまっている。なんだ、口紅くらいじゃないか。あ、いや、違う。もうひとつあった。スオウさんがおれにしつこく口紅を塗る理由。おれの髪が赤いから。髪に口紅がよく映えるから。
もしもおれの髪が赤くなかったら、スオウさんにしつこくされることもなかったのかな。キスをされることもなかったのかな。今更聞けなくて不自然に黙り込むおれに、スオウさんは何も言わない。ただ触れた体温がベッドの中みたいに温かくて、風邪なんかひきたくてもひけそうにはなかった。
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