「バギー、動くなよ…よォし、いい子だ…」
頭をがっちりとわしづかみにされたバギーは、湯気が出そうなくらい真っ赤になってスオウさんの顔を凝視している。 近い。なんだあの距離。キスしてしまいそうなほど二人の顔は近くて、周囲の通りすがりはギョッと目を剥いて立ち止まるかそそくさと逃げていく。おれは立ち止まってしまった方で、真昼間の甲板で異様な雰囲気を醸し出す二人から目が離せない。いつもみたいに三日月形の口元でにんまり笑ったスオウさんは、バギーの頭を掴んだ手とは逆の手でバギーの頬に触れた。浮かせた親指にはべったりと赤がくっついている。口紅だ。おれと出掛けた時に買っていた貝殻の口紅を、スオウさんはバギーに付けようとしている。
普段は無理矢理襲い掛かって通り魔のように口紅を塗りつけるのに、今日はスティック状じゃないから相手が大人しくしていないと難しいみたいだ。毒のような色気を武器に自由を奪って、まるで恋人同士の仕種で親指をバギーの唇に押し付けた。「ひ、」。バギーから小さく悲鳴が漏れる。あれだけスオウさんにキスされることを嫌がっていたのに、バギーは微動だにしないでスオウさんの目を見詰めていた。逃げないんじゃない。逃げられないんだ。
ゆるく孤を描いたあの人の唇や目元は、至近距離で見てしまうとぞくぞくするほど艶かしい。金縛りにあったみたいに視線も体も動かせなくなって、その間に好き勝手されてしまうんだ。おれはもう慣れた。だけどあんなにも近い距離のスオウさんを初めて見るバギーは、あんなにも真っ赤になって、あんなにもがちがちに固まって、あんなに、キスするみたいな雰囲気でスオウさんに向かい合ってる。
キス、するんだろうか。スオウさん。
バギーに。
おれ以外に?
「………っバギー!!」 「ぎゃあっ!」
そこら辺にあった空き樽を二人に向かって投げつけると、スオウさんはぱっとバギーから離れておれを見た。鼻に樽が掠って悲鳴を上げたバギーは、何が起きたのかもよくわかっていないようだ。普段だったら直ぐさま怒るだろう。けれどおれが「逃げろ!」と叫べば、バギーはハッと我に返ってスオウさんから全速力で走って離れた。遠ざかりながら響いてくるのは、聞き間違いでなければ感謝の声だ。だけど今はそれどころじゃない。スオウさんの目が、まるで獣が獲物を狙うような目が、おれをじっと見詰めて離れないんだ。
「…シャンクス」
そっと呼ばれた名前は、ただの自分の名前のはずなのに何だかひどく恐ろしく感じる。スオウさんは怖いくらいに真顔だった。「シャンクス」。スオウさんが一歩おれに近付く。一歩一歩、甲板を靴で鳴らしながらゆっくり歩いてくる。怒ってるんだろうか。邪魔したから。余計なことするなと言われるんだろうか。
「シャンクス」
いよいよ目の前に立ったスオウさんは、おれを上から見下ろして聞いた。「どうして邪魔した?」。邪魔したって、だって、そんなの、おれだってわかんねェ。気付いたら体が動いてたんだ。
「…まあ、いいや。代わりにお前が相手してくれるんだろう?」 「え、」
貝殻の中身を薬指で掬ったスオウさんは、屈んでおれに視線を合わせるとにんまり笑っていた。いつものスオウさんだ。指先をおれの唇にそっと這わせると、真っ赤に色付いただろうそこにキスをしてまた笑った。いつものスオウさんだ。 おれにしかキスしない、スオウさんだ。
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