「おれはドフィにふさわしい男ではないから」。
今から思えば体のいい断り文句でしかなかったが、当時のまだ年若いドフラミンゴには額面通りの言葉にしか受け取れずに歯痒い思いをしたものだ。
資格を剥奪されたとはいえドフラミンゴは天竜人というこの世で一番の特権階級に生まれた人間であり、その中でもさらに数百万人に一人しか素質のない覇王色の覇気の持ち主だ。
対してナマエは、その頃のドフラミンゴよりもまだ腕っ節も体格も上だったとはいえ貧しい娼婦の腹から生まれた平凡な男だった。いずれドフラミンゴの足元にも及ばなくなるのは明確で、けれどそれをナマエ自身も望んでいるように見えた。大の男が幼い子供に従い、ファミリーの頂点に据えるのは傍から見れば滑稽なことだろうに、「ドフィはきっとこの世界の王様になれる」と本気で信じていたのだ。だからナマエはドフラミンゴにずっと付き従ってきた。身を呈して守ってきた。汚い仕事もこなしてきた。頭の出来がいいわけではない。膂力が飛び抜けて秀でているわけでも。
平凡な男。どこにでもいそうな下民。生まれも育ちもよくない。
それでもドフラミンゴはその男を、欲しいと思ったのだ。理屈や利益などではなく、説明もしようのない感覚で、既に自分のファミリーの一員であるにも関わらず「欲しい」と思った。だから言った。それで返ってきたのが、「ふさわしい男ではないから」というありふれた断り文句だ。お前が決めるな、おれが判断したんだ、従え、と言い募ってもナマエが首を縦に振ることはなく、普段ドフラミンゴの指示にはすぐさま従ってきた男が頑として頷かなかった。
言葉通りの意味もあっただろう。けれど少なくともナマエがドフラミンゴと同じ気持ちではなかったことに気付いてしまった。
ドフラミンゴがナマエを「欲しい」とねだって、断られ、不満を抱きながらも二度は言わずにいた数年後、ドフラミンゴの告白が気の迷いや若気の至りと片付けられそうな月日が経った頃に、ナマエには恋人が出来た。ナマエと同じく、生まれも育ちもよくない、どこにでもいそうな平凡な女の恋人だ。
自分から明かしたわけではない。トレーボルが見かけて皆の前でバラし、ディアマンテがからかい、ピーカがどんな女だと聞けば、恥ずかしげに「普通のコだよ、あまり構わないでくれ」と白状したのだ。
それは初めて見る顔だった。
頬を赤らめ、普通だと言う割に特別な存在であろうことは表情で分かった。元より嘘が下手くそな男だ。「顔はどうだ、身体は?」と下世話なことを聞かれればムッとし、「まあ上手くやれよ」と後押しされればはにかむ。その表情を目の当たりにして、すとんと腑に落ちた。
悔しいわけでも、腹が立ったわけでもない。ただ、ナマエにとってふさわしい相手はその生まれも育ちも良くない平凡な女で、もう十年以上も付き合いのあるドフラミンゴでさえ見たことのなかった表情を引き出したものその女だったというだけだ。
怒りや悲しみといった感情の操作は容易だ。けれど好いた腫れたはどうにもし難い。そういった能力でもあればまた別だろうが、そうまでしてナマエの心を従わせたいとは思えなかった。無理矢理にでも、というのなら、かつて「欲しい」とねだった際にナマエの断りなど聞かずに従わせている。そうではなかったから、今ナマエはドフラミンゴファミリーの単なる幹部で、ドフラミンゴとベッドを共にすることもない。件の女をドフラミンゴよりも優先したなら話は変わってくるが、トレーボルが街で見かけるまで知られなかったほどナマエの生活サイクルは今までと変わらずドフラミンゴが中心だったのでそれはないだろう。
どんな形であっても、おれが一番ならそれでいい。どこか達観した気持ちで、けれどあのときの「欲しい」と伝えた心が気の迷いや若気の至りと片付けられてしまっていたらと思うとそこだけが納得できず、その日の夜「昔おれがお前を欲しいと言ったのを覚えているか」と問いかけたのだ。
問いかけられたナマエは、ぴたりと一瞬動きを止め、ゆっくりとドフラミンゴの顔を見たあと、「……おぼえてる」と軽く笑った。
「気の迷いや若気の至りじゃなかった」と続ければ、「わかってる。ただおれがドフィにふさわしくないだけだ」とあの頃と同じ答えを返した。そうか、それならいい。「わかってるなら、いい」。それだけでドフラミンゴは話を終わらせた。終わらせたつもり、だった。
「別れてきたよ。相手はカタギだ、元から長続きする関係でもないだろう」
後日、全員が揃う食事の場に遅れたナマエがディアマンテに「女と会ってきたのか」とからかわれて返したのは破局の知らせだった。トレーボルは愉快そうに笑い、ディアマンテは大袈裟に哀れみ、ピーカは鼻を鳴らしてその話を受け入れた。不自然だとは思わなかったのだろう。よくある話だ。現にファミリーにも既に一人、女が原因でおかしくなってしまった男もいる。深入りすべきとはないと学んで、自分の感情に折り合いをつけ、辛くとも別れを決める。そのタイミングが今日だっただけだ。不思議ではない。不自然でもない。
けれどドフラミンゴは知っているのだ。ドフラミンゴが昔の話を掘り起こしたあの夜以来、ずっとナマエはシュガーの動向を気にしていたことを。
がさつで見聞色の覇気が苦手な男は、自分が見られているとは気付かなかったのだろう。平凡で、どこにでもいそうな男。昔より一国の王ともなった今の方がずっと、ナマエがドフラミンゴにふさわしくないのはドフラミンゴ自身もわかっている。それでも大事に思っていて、彼が幸せならそれでいいと折り合いをつけたのだ。それなのに。