長官、と呼んでいた人がいる。その人はこの国の王の弟で、普段は海の外にいて、コーザも実際に会ったのは片手で数えられる程度だ。けれどよく覚えている。存在だけは大人たちの話で知っていたが、実際に顔を見たのは砂砂団の集まりにビビが連れてきた日が初めてだった。その日のビビはやたらと興奮していて、当時のコーザにはその理由がよくわからなかったが、今ならあの人にとても懐いていたのだろうと理解が出来る。久々にこの国に帰ってきてくれたのが嬉しくて、片時も離れたくなくて、それでも砂砂団の集まりにも参加したくて、むしろ自慢の叔父を友人たちに見せびらかしたくなって、喜び勇んで手を引いてきたのだ。
砂砂団のメンバー以外の、まして大人を連れてきたことに批判も飛んだが、それは束の間の話だった。「こんにちは、ビビのお友達かな」と笑って、異国の菓子をみんなに振舞う。単純で欲求に素直な子供たちの心を掴むなどそれだけで容易だ。加えて冒険活劇のような異国の旅の話などされては、その突如として現れた大人は子供の遊びを邪魔する異物ではなく、楽しみをひとつもふたつも放り込んでくれるムードメーカーとなってしまった。砂砂団の長官に任命しよう、と言い出したのは誰だったか、ビビかもしれないし他の誰かかもしれないしコーザ自身かもしれない。不確かな記憶の中で、けれど「今日から砂砂団の長官だ!」と任命の宣言をしたのが自分だということだけは鮮明に覚えていた。たかが子供のままごとに「そうか、光栄だ」と笑った、その人の顔も。
「うん、こんなとこか。思いのほか進みが早くて助かるな。無理はしてないか?」
「元の形に戻ってくのが一番の活力になる。みんな張り切ってやってるよ」
砂に埋もれたユバを復興させようと働くコーザやトトの元に、かつての砂砂団長官、もとい王弟殿下であるマムシは定期的に顔を出してくれる。現状を視察し進捗をはかり、必要ならば計画を練り直したり不足しているものを手配するため、つまりは仕事での訪問だ。あの頃はまさか彼とこうして頭を突き合わせああでもないこうでもないと話し合う関係になるとは思わなかった。小一時間ほど意見を出して決まったことを腰にくくりつけているメモ帳に書き付けている姿は、記憶の中の男の姿とはかけ離れている。片目は刀傷で潰れ、腕も1本無くし、衣服からちらりと見える皮膚はおびただしいほどの傷跡で埋め尽くされている。あの内乱の、クロコダイルの陰謀を止めようとした代償だ。コーザは見た。大きなサーベルを握り国家の敵を討とうと殺意に満ちた眼も、全身を赤く染めるほど流れた血も、傷だらけでふらふらの体も、記憶の中のこの人にはおよそ似合わない姿だった。
「張り切りすぎて倒れたりしないでくれよ。人が健康でいてこその町だ」
「あんたに言われたかねェよ」
「はは、おれはちゃんと休み休みやってるよ」
「嘘つけ」
腕を切られた翌日から復興作業に加わっていた人間が何を言う。本当に適度に仕事をしているというのなら、従者が口うるさく休憩をとれ休暇をとれなどと民の前で言うはずもないし、それを面倒だからと振り切って王族一人で出てきたりはしないし、困り果てた臣下がコーザにまで「ここにやってきたら休憩なさるよう申し上げてくれ」とわざわざティーセットと茶菓子を置いていって懇願したりもしない。
「親父が顔見たがってたぜ、ちょっと家にも寄ってけよ」と、その当の父親が聞いたら卒倒しそうなほど気安い態度で誘うと、マムシは困ったように笑って「港の修復に顔を出さなきゃ」などと、やはり休み休み仕事をしているとは思えないようなことを言うので「いいから」と強引に腕をとった。港の方にはコーザの顔馴染みもいる。後で連絡でもしておけば、多少の遅れは看過してもらえるだろう。どうせ休憩を取らせたところで、コーザがマムシを引き止めることが出来る時間など10分かそこらだ。優しそうな顔をして、頑固で融通が聞かない。そういう一面は大人になってから初めて知った。
「…そういえばあんた、結婚すんだって?」
「ああ、誰から聞いた?」
「昨日資材を運んできてくれた国王軍のやつらに」
「広まってるなあ、もう少し粛々と進めようと思ったんだけど」
「なんでだよ、祝い事じゃねェか。祭にも出来て活気づくし、派手にやってくれ」
「いやァ、そうは言ってもまだ相手も決まってないし」
「…は?」
てっきり以前から相手がいてアラバスタが落ち着いた今の頃合いで式を挙げるのだと思っていたが、相手もいないのに結婚が決まっているとはどういうことだ。振り向いてマムシの顔を見ると、やはり困ったように笑っている。「結婚するってことを決めただけなんだけど、みんなが大袈裟に騒いじゃって」。なるほど確かに、話を持ってきた国王軍の男は相手のことを話してなかった。復興のために割く時間を削られるのでは、などとまるでマムシを国のための道具のように言うので、不愉快になって叱り付けたのだ。復興なんかおれ達にだって出来ると。あれだけ傷付いて尚も国のために自らを差し出せと言うのは、国の上に立つ王族の身といえどあまりにも哀れではないか。
「…じゃあ、なんだ、嫁探し中か」
「ああ、そう簡単には決まらなさそうで困ってる」
「そうか……」
肩透かしを食らったような、その反面安心したような気分だ。永遠のように感じた地獄のような内乱が終わり、復興も順調に進んで、元の平和を取り戻しつつある今にようやく彼が自分の平穏と幸せを探そうとしているというのなら、それはとても喜ばしいことである。この内乱の裏を、そして王宮で起こっていたことを知れば知るほど、彼はあまりにも不遇だ。
コーザとて、彼を追い詰めた一人である。幼い頃、マムシはコーザに会う度、繰り返し国王の素晴らしさを話していた。きっと兄である王のことが大好きなのだろうと思えるほどコブラ国王の偉大さを説いてくるので、もういいよわかったよと何度あしらったか知れない。
「あの人はいつだってみんなのことを想っているよ。だから信じていて」と、耳にタコが出来るほど繰り返されたその言葉を忘れてしまったわけではなかった。けれど信じていることが出来なかったから、全ての目論見が明るみに出た時、彼に合わせる顔がないと悔やんだのだ。彼の言う通りに信じていればと。
だというのに彼は、コーザに謝った。「止めることが出来なくてすまなかった」と頭を下げて、亡くなった仲間を悼み、かつて共に遊んだ子供達一人一人へ声を掛けてくれた。その姿がどうにもしようがなく歯痒くて、恐ろしくて、悲しかった。愚かな行ないを責めてもくれない優しさや包容力が、途方に暮れるほど罪悪感を刺激したのだ。
だからコーザは、どうにかこの人が穏やかに暮らすことが可能な環境になってほしいと、罪滅ぼしにも似た気持ちで願っている。自分の全てを犠牲にして戦い、国に尽くす男が結婚というひとつの安寧の形を掴もうとしているなら、喜ばしいことだ。
「…なあ、あんた、相手の身分は気にしねェか?随分年下になっちまうが、あんたを好いてる女は知ってる」
「アラバスタの子かな?それじゃあ意味がない」
「意味、……?」
「海軍や政府のお偉いさんとか、貴族の生まれとか……権力との繋がりを作るための結婚だから」
つまりは政略結婚ということだろうか。「またアラバスタに有事があった際に、力になってくれるところと繋がりを作らないと」。そう言って笑う男はつまり、アラバスタのために結婚という手段を選び、その身を捧げるのだ。
「…国王がそうしろと言ったのか?」
「まさか、おれが決めたんだ。むしろみんなは反対してるよ、他所の人間と結婚したらおれがアラバスタを捨てるとでも思っているらしい」
そんなことないのに、とマムシは困ったように笑う。それはそうだろう。これだけ身を粉にしてアラバスタに尽くす男が、アラバスタを捨てるわけがない。アラバスタを想ってこそ、誰かと身を結ぶ方法を選んだのだ。アラバスタのために。アラバスタを豊かにするために。アラバスタにもう二度と危機が訪れないように。
「…それで、あんたは幸せなのか?」
つい口をついて出てしまった言葉だった。コーザは平民だ。王族のことなどわからない。国のために身を尽くすのが務めだと言うなら、それを邪魔する権利などない。それでも聞いてしまった。彼を一人の男として見た時に、国の利益を優先して選んだひとと一生を共にしていくのは果たして幸せに思えることなのだろうかと。
「もちろん、アラバスタの為になるのなら、それがおれの幸せだ」
「…でも、」
「なあコーザ、この国は好きか?」
「…なんだよ」
「いいから」
「…好きだよ、生まれた国だ」
いつか国王にも聞かれた問いだ。好きだから武器をとった。無意味な戦いを率いてしまった。本来なら誰とも戦わなくていい立場のこの人に、取り返しがつかないほどの傷を負わせてしまった。
悔やみながら、それでも唯一の誇りを偽るわけにもいかず真っ直ぐにマムシの目を見て答えると、マムシは望んでいた答えを引き出せたとばかりに緩く頷いて笑った。
「おれも、生まれた国が好きだよ」
そんな風に言うなら、アラバスタが好きだと言うのなら。本当にアラバスタの礎となることが幸せだと言うのなら。
そんな顔で笑うな。
そんな、困ったような顔で。