「騒がせてすまない。まだ打診している段階で、決定ではないんだ」
騒ぐ大勢に向けた言葉が、頭の中でぐわんと響く。ビビの悲鳴にも似た驚声につられ集まってきた臣下が口々に喋るせいで止まない喧騒の中、同じように駆けつけたペルの耳には不思議とマムシの声だけがはっきりと聞こえていた。
まるで仕事の計画のひとつのように話すのに、その実は他所の国の女性と結婚するという彼の人生に大きく関わる選択だ。「まさかこんな大騒ぎになるなんて」。困ったように笑う顔。本当に、それが大事だとは思っていなさそうな顔だった。いや事実、マムシにとっては大事ではないのかもしれない。片手を失ったとて、片目を失ったとて、「いいんだ」と言って笑っていた人だ。守りたかったのに、守れなかった人。必死に縋り付いても、柔らかな砂のように指の隙間からすり抜けていってしまう人。もう二度と置いていかないと、約束をしてくれた、はずの。
ペルは彼に甘やかされていた自覚がある。なぜ選ばれたのかは今でもわからないが、ビビが生まれるまでは間違いなく唯一の、自他ともに認めるマムシの『特別』だった。それでもその『特別』は、アラバスタの中では、というだけの話にすぎない。いくら甘やかされていたとしても、ペルは彼が何を考えているのか知らない。何を思い、何を憂い、何を必要としているのか教えてもらえない。焦がれるように求め、身の程知らずにも「ほしい」と言えば投げ捨てるように「あげる」と言われた。けれどペルが本当にほしがったものは何も与えられず、ペルこそ捨てられたかのように置いて行かれた。クロコダイルの画策によって追い詰められた環境の中で、マムシはペルを当てにすらしなかったのだ。だから独りでクロコダイルに立ち向かい、アラバスタを追い出され、二年間ずっと苦しみにさらされていた。
ペルは、道連れにしてほしかったのだ。その先がどんな地獄でも、手を伸ばしてくれたらきっとしがみついて離さなかった。彼の好きなように使ってほしかった。誰にだって何も求めないマムシが自分の為に犠牲になることを求めてくれたら、今度こそ本当に『特別』になれるような気がしたのだ。
けれど今回も、マムシは一人で決めてしまった。誰かと人生を共にするという重要な決定を、ペルは何も教えられていない。この部屋で騒ぐ多数の臣下と同じ。誰も彼の本当の特別ではない。もしかしたら、これから隣に立つことになるひとでさえ。
「今更遅いと思われるかもしれないけれど、今だからこそ横の繋がりを強くしておくのも必要だろう?」
誰かを好きになったから、ではない言い様が、また彼がアラバスタのために自分を犠牲にしようとしているのだと思い知らされた。手を失って、目を失って、それでもまだ自分を削りながらアラバスタに尽くしている。いや、もしかしたら手を失い、目を失ったからこそ結婚という形で国の繋がりを広げようとしているのかもしれない。今までのように海に出られなくなり交友関係が築けなくなった分を補おうとした結果の決断だというなら、彼の五体満足を守れなかったことが一層に悔やまれる。後悔ばかりだ。ついていけないほどの速度で先に進んでいくマムシを見る度、ペルは罪悪感に苛まれている。ずっと、ずっとだ。
「ちゃんと相手も選んでる。ちゃんとした出自で、有事にはアラバスタの力になってくれそうなところのお嬢さんだ。悪い話じゃないと思うんだが」
確かに、王族が国家間の友好のために婚姻を結ぶなどそう珍しくもない。単なる護衛隊の一員であるペルには詳しい話など入ってこないが、昔からマムシにも、今ではビビにも、見合いを申し込む声は数え切れないほど掛かっていると聞く。
それでもマムシは、自由を好んでいた。そもそもアラバスタに留まることすら少なかったような人だ。誰かと結婚するよりも外へ出ていた方が余程友好関係を築いてきて、だからこそ周囲も無理に結婚を勧めることもなかった。余計なしがらみがないからこそ出来る行動で恩恵を受けているのだから誰も何も言えなかったという方が正しいかもしれない。
「おれが結婚だなんて、奥さんになる人がかわいそうだ」と、いつか臣下の一人と話しているのを聞いたことがある。そんなことはない、と思ったけれど、反面、安心してしまったのも事実だ。誰のものならない人なのだと。誰かを隣に置くことはない人なのだと。安心していた。ペルは、伴侶としてマムシの隣に立って生きていくことは決して出来ないからだ。
「ああ〜…わかった!またちゃんと説明するから!ほらみんな仕事へ戻って!!」
参ったと言わんばかりに手を振って解散を促すマムシへ、それでもいくつか声が飛んだが、今は問い質しても仕方ないと判断したのか一人また一人と部屋を後にしていく。「うん、いやそんなことないよ」「わかりました、ではまた夜に伺います」「すまない、まさかこんな大騒ぎになるとは」。部屋の外へ送り出すついでに代わる代わる誰かと言葉を交わす声の中に、やっぱりやめようかなという言葉が出てこないかと期待して、喧騒が静まるまで待ったけれど結局は無駄な期待に終わった。マムシの口から撤回の言葉は出ない。つまり結婚の意思は変わらないということだ。
やがて目の前でビビすら退室していってしまい、あれだけ人で溢れかえっていたこの部屋も閑散としてしまった。そうだ。出ていかなければ。今マムシに声を掛けてはいけない。仕事へ戻って、と言われた。仕事へ戻らなければいけない。ペルの仕事は、この国を守ることだ。何も聞く必要はない。これ以上、マムシの言葉を聞いてはいけない。
「マムシ様」
部屋の外へ踏み出そうとした足を止めさせたのは、よく知った声の主だった。重苦しい、まるで怒っているかのような声色のチャカがマムシの名前を呼ぶと同時になぜかペルの腕を掴んで引き止めたのだ。たたらを踏んでその場にとどまったペルは、そのままマムシの前に押し出された。なぜ。どうしてチャカがこんな行動に出たのかわからない。離して欲しい。マムシが目の前にいる。目を丸くして、チャカと、ペルを見ている。
「…なぜ急に結婚すると言い出したのか、理由を教えていただきたい」
「おれが出来ることを考えた結果だ。もしもまたこの国が危機に陥ったとして、外に繋がりがあるのは悪くないだろう?」
「同じ過ちを繰り返さぬよう、我々も尽力します。あなた一人で背負うものじゃない」
「そんな大層なことをしようって話じゃない。おれもいい歳だ、身を固めるついでに国に繋がりを作ろうってだけさ」
「……ペルに何かいうことがあるのでは?」
ひゅ、と息が止まる。やめてくれと叫び出したかった。なぜチャカがそんなことを言い出すのかわからず、恐ろしくて声も出せなかった。全身の血の気が引いたように寒気がしてたまらない。マムシの目が、ペルを見る。穏やかな顔だった。穏やかなのに、何を考えているのかわからない顔だ。最近は以前に比べて表情が豊かになったと思っていたのに、今は何も読み取ることができない。いや、ペルが何も読み取りたくないと思っているせいかもしれない。優しい顔を貼り付けた、能面のような顔。
「騒ぎになっちゃってごめんな。まだ打診している段階だから、決定したら伝えようと思ってたんだ」
先程も聞いた。多数に向かって説明したのと同じ言葉。特別伝えることなど何もないと言われているように思えた。
「決まったら、お祝いをしてほしいな」
「…おいわい」
「そう、護衛隊のみんなで飲もう。なかなかそんな機会もなかったからさ」
「…マムシ、様が…そうおっしゃるなら、ぜひ…」
喉の奥からひり出した言葉は不自然に震えていて、小さな声になってしまう。顔の筋肉がひきつり、笑顔を作りたいのに頬も瞼も重たい。笑わなくてはいけない。上手く祝福しなくては、心配をかけてしまう。
今までもずっと、些細な憂鬱でもすぐに察して「どうした」と声をかけてくれた。助けを求めれば手を取って慰めてくれた。けれど今はだめだ。どうしたと問われたら、情けなく縋り付くだけだ。全部くれると言ったのにと、置いていかないと言ったのにと、立場も忘れて責め立て、泣き喚いて困らせてしまう。アラバスタのために身を捧げるこの人の邪魔になってしまう。それはいけないことだ。ペルは単なる、臣下の一人なのだから。
「おいわいを、しましょう。きまったら、みんなで」
「ああ、ありがとう。ペルにそういってもらえたら嬉しいよ」
目の奥のツンとした痛みも、胸を締め付ける苦しみも、喉を絞められたような息苦しさも、全部全部我慢して搾りだした返事に、マムシは、満面の笑みで頷いてくれた。何も聞かない。「どうした」とも、なにも。
それならきっとこの顔は、上手く笑えているのだろう。
ああ、よかった。