ペル続々編 | ナノ


冬来たりなば春遠からず  




チャカの中に芽生えた小さな不安は、今や確信となってチャカ自身を逸らせていた。人払いがされていて不自然なほど誰もいない周囲。鍵の開かないマムシの私室。誰かはいるはずなのに何度呼びかけても返事のないドアの向こう側。そしてなにより、気のせいには出来ないほど濃く香ってくる血の匂い。

「マムシ様、マムシ様!!」

どんどんと乱暴に打ち鳴らすノックにさえ、中はしんとして誰かが反応する気配もない。焦りが募る。何が起きているのか見当はつかないが、とにかくマムシが危険な状態に陥っているのだろうということだけは理解できた。護衛隊の誰よりも強い彼が宮殿内で何者かに襲われたというのなら、それはアラバスタ全体で警戒をしなければならない非常事態だ。しかしマムシはつい先程まで平然としていた。血の匂いを微かに漂わせていたその時から異変が起こっていたのだとしたら、気付いていて誰にも何も知らせなかったということだ。つまりマムシは一人でその異常を飲み込もうとしている。おそらくは、客人に不安を与えないようにとの配慮か、あるいはそれによってアラバスタへの不利益が発生してしまわないように。だが、もしそれがマムシ一人で負えるような事態ではないとしたら?チャカは確かめなければならない。マムシの無事を、多少強引にでも。


「失礼します    ”鳴牙”!!」

ジャッカルの姿へ変化して扉へ体当たりをするように刀を叩きつければ、重厚な造りといえど木製のそれはメキメキと大きな音を立てて破れ、中の様子が顕になる。
果たしてそこに、マムシはいた。普段と変わらぬように椅子に腰掛け、疲れた顔で目を伏せて、何も知らなければただまどろんでいるようにも見える。ただ、その足元に倒れ伏している給仕の女と、一層濃く香る血の匂いが存在していなければ、の話だ。

「マムシ様!!一体何が…!!」

問い掛けは悲鳴に近かったかもしれない。心臓が捻りあげられたように痛み、冷や汗が額からどっと噴き出す。ドアから室内への短い距離を駆け足で近寄り、俯いたまま動かないマムシの両肩を掴んで身体を起こさせたが、青ざめて隈の濃くなった顔が力なく上を向くだけでその目は開かなかった。そこまで近寄ってようやく、チャカは血の匂いの正体に気付く。マムシの腹からだ。椅子の影になって、赤褐色の絨毯に染みていたので一見ではわからなかった。だがチャカが立つ足元の床に広がっているのは、紛れもなくマムシの血である。着ている衣類からじわじわと染み出し、今もなお流れ出て止まらない。刺されたか、撃たれたか。それも答えは床にあった。小さいが、人を殺すには充分な刃渡りのナイフが切っ先を血で汚して転がっている。刺されたのだ。おそらくは、この給仕に。

「なぜ…!いや、そうじゃない、手当てを…」

チャカの記憶によるところだけでも、長らく勤めていたはずの給仕だ。内乱の時期にも怪しい動きを見せなかった彼女がなぜマムシを害するような凶行に及んだのかはわからない。だが今は原因の追求よりもマムシの命を救うのが先だ。ぐったりと力なくチャカの手にもたれかかる身体を再度椅子に預け、急ぎ医者を呼ぶために離れようと踵を返したが、それを阻んだのは他でもない、マムシの手だった。

「マムシ様!!!」

ひんやりとした指がチャカの腕に食い込んで足を止めさせる。意識が戻ったのかと安堵したのも束の間、跪いて覗き込んだマムシの顔がゆるゆると首を横に振るのでその意図がわからず顔を顰めた。「なにがあったのです、いえ、それはあとで構いません、まずは止血をしましょう」。焦りを隠せず早口になったチャカの声が、聞こえていないわけではないだろう。だのにマムシはじっと、何かを待つようにチャカの腕を掴んで動きを止めさせていた。医者を呼んでくるにも、止血のための布を調達するにも、離してもらわなくてはどうにも出来ない。「マムシさま、」。呼んだ声はもはや震えていたかもしれない。不敬を承知で手を無理矢理剥がそうにも、体温を失っている指は固まっているかのように動かなかった。なぜ。どうして離してくれないのか。このままでは死んでしまう。どれだけ強くとも、誰より勇敢でも、目の前にいるのは人の子なのだ。血を流し過ぎれば、呆気なく死んでしまう。

「マムシ様、離してください、……誰か、おい、誰か!!」
「……チャカ、しずかに」

壊れたドアの向こうに声を上げると、それを窘めたのはマムシの声だった。ようやく発されたその声は、か細く、頼りなさげで、泣いてるようにも感じられた。マムシのそんな声を、チャカは今まで聞いたことがない。ダンスパウダーの一件で疑いをかけられた時にも、クロコダイルとの一戦で死に掛けていた時にも、昔から、それこそマムシを若い頃から知っていても、知っているだけで一度として彼を理解できる機会などチャカは授けてもらえなかった。だからこそ怯んでしまう。急いで処置をしなくては手遅れになることなど分かってはいるが、自然と彼の言葉に従ってしまう。それは彼が王族の立場だからだというだけではない。いつだってアラバスタを思って行動する人だからだ。

「いいんだ……」
「な、なにがですか、なにがよいと?このままでは死んでしまいます!」

マムシとてわかっているはずだ。小さなナイフでも人は致命傷を負えることくらい。それでもなお発された「いいんだ」の意味がわからないチャカは、息を呑んで続きを待つしかなかった。待ったところでマムシのためになる理由が返ってくるとは、到底思えるはずもない。けれど微かに望んでしまうのだ。医者を呼ばずとも、助けを呼ばずとも、問題ないと言える手立てを彼が既に打っているという可能性を。

「さわぎになる……おおごとにしては、いけない」
「そんなことを言っている場合ですか!」
「もう、めんどうなんだ、なにもかも」
    なに、を」

なんの脈絡もなく放り投げられたマムシの泣き言を訝しむと同時、壊れたドアの向こう側から微かに慌ただしい足音が聞こえてくる。人払いがされていたといえど、チャカがむりやり扉を断ち切って中へ入ったのだから、その衝撃音で耳聡いいものが気づいてもおかしくはないのだ。早く誰か来てくれと、そればかり願ってしまう。出来ればビビか、コブラが気付いてほしい。ペルだっていい。マムシを無理矢理にでも救える権利がある人。マムシの心に触れられる人。

「なにをしてもうまくいかない」
「なにが、」
「やくにたたなければいみなどないのに」
「な、」
「いきてるかちなんかないのに」
「……なん………」

そんなことはないと逐一否定をするべきはずなのに、今まで触れたこともないマムシの弱音があまりにもチャカの想像とかけ離れたもので唖然としてしまう。「しんだほうがいい」とぽつり呟かれた言葉に、「そんなこと、あるわけがないじゃないですか!」とようやく反射的に否定を告げるも、マムシには響かない。緩く首が振られる。この場においてチャカの言葉は、なんの効力もないようだった。

「このまましなせてくれ。もう、なにもかんがえたくない、はたらきたくない……らくになりたい」

掠れた声が解放を望み、耐えきれないとばかりに瞳からぼろりと涙が零れる。そんな風に追い詰められていたなどと、誰が気付けただろうか。周りはいつだって、働きすぎだと止めていたくらいだ。
いや、だが、しかし、彼を頼りにして復興を進めていたことも確かである。彼の豊かな人脈と、まるで過去にどこかの国で復興を行なったことがあるかのような手際の良さが容易に皆の頼りにさせてしまった。チャカにはマムシの仕事の全容などわからない。それでも毎日せわしなく働く彼が、自ら働いているからと疲れを感じないわけではないことくらい、誰しもがわかっていたはずだ。周りに休むことを強いられてなお働き続けていた彼は、何に追い詰められていたのか。チャカは知らない。誰かは知っていたのだろうか。誰も助けてはやれなかったのだろうか。


    マムシさま」

静かな部屋にぽつりと呟かれた名を呼ぶ声は、チャカではない。ましてマムシのはずもなく、後ろを振り向けばそこに立っていたのはペルだ。元より白い顔は青褪め、色をなくし、少なからずこの状況を把握したのだろうとは理解できる。いつからそこにいたのかは知らない。足音も気配も察せなかったのは、チャカがマムシの声に耳をそばだてていたからか、あるいはペルが不穏な気配を感じて中の様子を伺いながら入ってきたのか。そんなこと、今はどうでもいいけれど。

「ペル…マムシさま、が…」

情けない声を出した自覚はあった。なんという体たらくか。無理矢理担いで医者の元へ駆け出せばいいものを、それすら出来ない。お前の言葉なら、おれの言葉よりもよほど届くだろうと場所を譲った。悔しい気持ちがないとは言わない。けれどチャカにはもう、ペルに頼るほか術がない。

「マムシ様」
「…………」
「手当てを、しましょう……」
「…………」
「医者を、呼びますから」
「…………」

俯いたままゆるく首を振る様が、まるで幼子だ。立ったままマムシのつむじに向かって声をかけるペルは、チャカと同じくその頑是ない態度に屈し    たりは、しなかった。


「マムシさん!!!!」
「ふぇっ」


びくん、と肩を揺らして気の抜けた声を上げたのはマムシかチャカか、2人同時だったかもしれない。それをチャカが自覚する間もなく、突如つんざくような声量で名前を呼ばれたマムシはようやく顔を上げ    ペルの右手が振りかぶっているのをその目で確認して、「えっ」と驚きの声を出したのは、やはりマムシとチャカの両方だったはずだ。


そして、バチン!!!と派手な音を立ててマムシの頬へ叩きつけられる掌を、チャカは見た。見送った。止めることすら思いつかず見守ってしまった。


「もう、二度と…っ、おいていかないといったではないですか!!…っうそつき!!!」

あまりにも幼稚な、しかし聞く方が胸を締め付けられるような苦しげな声で、ペルはマムシを罵った。「…えっ」ともう一度声に出したマムシはといえば呆気にとられていて、状況が理解できないとばかりに叩かれた頬を掌で押さえているものの、ペルの眼からぼろりと涙が溢れた瞬間に今までの生気の無さはなんだったのかというほど元気にうろたえ始める。

「えっ、え、ペル、え、泣いてる?」
「どうして、いつも…そうやって、うそつき、おれのことなんて、結局…!」
「ご、ごめん、え、なんで?え、ちゃ、ちゃか……」
「………マムシ様が泣かせたんですから、責任とってくださいよ」

情けなく眉を下げて助けを求めてくるマムシに気が抜けたせいか、チャカにもようやく怒りがわいてきた。こちらの心配も知らず一人で追い詰められて、勝手に死を受け入れ、挙句友人を泣かせている。内乱の後は少しマシになったかと思えばこれなのだから、独りにすべきではないのだ。しつこいくらいにしがみついて独りにさせない誰かが、マムシの側にはいないと。

「どうしよ…え、どうすれば……ペル…?」
「どうもこうも!手当てするしかないでしょう!!」
「アッハイ」
「ほら止血しますよ!傷口を見せて!!」
「ふえぇ」
「かわいい声を出しても無駄です!手を挙げなさい!!」
「はい…」
「い、医者を呼んでくる」
「急げ!コブラ国王とビビ様にもお伝えしろ!!」
「はい!!」
「アッアッ……国王様とビビには…………」
「絶対に叱ってもらいますからね!!!」
「ふぇえ…」

医者を呼んで、国王とビビに告げ口をして、それから給仕の女の身柄確保と、客人にはひとまず帰って頂いて。
一気に慌ただしくなったというのに、深く溜息を吐いたチャカの口元には微かに笑みが浮かんでいた。


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