「海賊って嫌いなんだ。あいつ、出て行ってくれないかな」
憂い顔で呟かれた言葉に、ペルは目を丸くして驚いた。マムシが海賊を嫌っていることに驚いたのではない。いつも優しい顔立ちと穏やかな物腰で、相手がどんな人間であろうと貶したり軽んじたりしている様子を見たことがないマムシから、はっきりと「嫌い」という言葉が出たからだ。さらには「出て行ってくれないか」なんて排除まで願う険呑な物言いに、もしや海賊に酷いことをされた記憶でもあるのかと心配になってしまう。毎回元気そうな姿で帰ってくるので安心していたが、今の時代には海賊なんてものは珍しくもない。アラバスタとて何度も賊がやってきては討伐部隊を組んで排除しているのだから、海に出ることの多い彼が危ない目や悲惨な光景に遭遇しない方がおかしいだろう。マムシはとても強いが、いつだって一人だ。もしかしたら数に押されて、あるいは彼よりもっと強い海賊が、彼の穏やかな心をして「嫌い」だと、「出て行ってくれないか」と言わしめるほどの悪行を働いたのだとしたらそれは許せるはずもないことだ。
眉をひそめてマムシの服の裾を掴んだペルに、マムシは苦笑いで「どうした」と応えた。最近はいつも、こんな顔ばかりしている。何かを憂いたような、無理矢理笑顔を作ったような顔。それが気になって体調でも悪いのかと問い掛けたのがきっかけだったが、思いがけずマムシらしくもないセリフが出てきて、ますます心配になってしまった。
「なにか、海賊に嫌な思い出でも?」
「海賊なんか、好きなやつはいないだろう。犯罪者だぞ」
「マムシさんでも、そういうことをおっしゃるんですね」
犯罪者だから嫌いだと、それはもちろん当然の感情だ。けれど彼が特定の人種に関して強い感情を持つのも、まして存在すら否定するだなんて初めてのことである。彼は良くも悪くも他人に対して不干渉だ。誰かの言動を制することもなく、そして自分の言動にも誰かの制限を受けようとしない。トリトリの実を食べたペルよりもよほど、空を自由に舞う鳥のような人だ。
「…国王様にもそんなことを言われた。この地に根を張り始めた海賊をどうするかというより、気にするのはおれの話なのか?」
「いえ、あなたがそんな風におっしゃるのは珍しくて…国王にもそんなお話を?」
ますます珍しい。実の兄であるコブラをどこか敬遠している様子のあるマムシが、胸の内を明かすような会話をすること自体が想像もつかない光景だ。
だが、ここのところマムシはアラバスタの外を出歩くことが少なくなり、宮殿に滞在する期間が長くなった。それはペルが己の臣としての立場も弁えず、あなたの全てが欲しいとねだってからだ。
全部あげる、とマムシは言った。死ぬまで好きにすればいいと言って放り出すようにマムシ自身をペルにくれたその日から、ペルと時間を過ごすことが多くなり、それに伴って宮殿へ留まるようになったのだから、当然のように宮殿に住む者とも顔を合わせる頻度は増すだろう。もちろんその中には国王も含まれていて、二人で今までしなかったような会話もするのかもしれない。喜ばしいことのはずなのに、ペルの心の内はまたじりじりと焦がすような感覚に襲われる。名前をつけてはいけないその感覚を打ち消すように、「国王はなんと?」と質問を重ねた。マムシは少しばかり自嘲気味の表情で笑う。どうやら彼にとっては納得のいく反応をもらえなかったようだ。
「お前と同じだよ、マムシがそんなことを言うのは珍しいな、と。出先で遭遇した海賊の話なんかも聞かれたが、おれが言いたいのはそんな話じゃなくて、あのクロコダイルという男を危険視してほしいということなんだが」
政府公認である七武海の一人だとしても海賊は海賊だと、マムシはそう続けたが、そのクロコダイルが住み着いた土地はむしろ治安が良くなっているように思う。つい先日はアラバスタに上陸した海賊の蹂躙から街を守ったというし、彼がオープンしたカジノは賑わいをみせ地域の活性化に一役買ってくれている。
もちろん、マムシの言い分もわかるが、実害どころか有益な存在であることはクロコダイルがこの国に来て間もない今でも国民に広まってきているのだ。まして海賊といえど政府が公認している七武海が相手では、海賊だからという理由だけで追い出すことも難しい。
ペルが言いたいことは分かっているのか、マムシはもう一度緩く笑顔を作った。自嘲の顔。どうしてそんな顔をするのか、ペルには分からない。
「…わかってる、気にするな。言ってみただけさ。おれ一人の意見であの男が追い出せるなんて到底思っちゃいない」
「…マムシさん」
「悪かったって。そんな不安そうな顔をしないでくれ」
ペルの頬を撫でて、重たくなってしまった空気を変えるようにマムシは明るく笑った。いつものマムシの顔だ。作り笑顔。全てをくれると言ったのに、結局その胸の内だけは未だに明かしてはくれない。なにを考えているのか。なにをみているのか。近付けば近付くほど、彼の本心がどこにあるのか分からなくて怖くなる。
「マムシさん」
「なァに」
「なにがあっても、私がお守りします」
「…うん」
「役不足かもしれませんが、この身に変えても」
「…うん」
「ですから、どうか、お側に」
ペルの頬を撫でていた手が頭の後ろに回り、緩く引き寄せられてマムシの胸に顔を埋める。ペルの不安を宥めるようにもう片方の手で背中をぽんぽんと叩いてくれるが、うん、とは頷いてくれなかった。それどころか、「お前が傷付くのは怖いよ」なんて、王家を守るために存在する臣下に言うべきではない言葉をくれる。結局思うようにはなってくれないのだから、マムシの全てをくれるなんて嘘だ。不貞腐れてしまいたい気分だった。
「…私だって、マムシさんが傷付くのは嫌です」
「うん、ありがとう」
「わかってくださいますか」
「うん」
「本当に?」
「もちろん。ペルは優秀な護衛隊だもの」
「………」
わかってない。絶対にわかってない。胸に埋めた顔を少しずらして見上げたが、マムシは困ったように笑っているだけだった。駄々をこねている子供を相手にするような顔。そんな顔をさせたいわけじゃない。マムシを守りたいのは護衛隊だからではないとわかってほしいだけだ。マムシだから守りたい。誰の手にも触れさせたくない。その心に棲む不安を取り除いて、その隙間に自分の存在を埋め込んでしまいたい。
そんな私情丸出しの欲望を口に出すのはさすがに憚られ、口を噤んだペルを大きな掌が甘やかすように撫でる。もっと、とねだる代わりに抱きしめ返したマムシの体は、こんなにも暑い国に住んでいるのに冷えて硬い。緊張で強張っているかのようだ。ペルはマムシに抱きしめられればいつだって安堵して全身が弛緩してしまうのに、彼はそうではないらしい。歯痒い。悔しい。もどかしい。
「…あなたの助けになりたい」
と本心から振り絞った言葉に、マムシは笑った。「充分だよ」なんて、頼りにもしてくれないくせに。「おれも、お前の助けになりたいなあ」と続けられた言葉は優しいけれど、突き放された気になるのはマムシがペルに何も求めてくれないからだ。体でも心でも、求められればなんだって渡すのに。ひどいことをされたって、きっと喜んでしまう。マムシの全てが欲しいと言ったのは、ただ彼を縛り付けたいという意味ではない。マムシにもペルの全てを欲しがってもらいたいのだ。
「私は、わたしは…マムシさんに、なんだってして差し上げたい…」
なんだっていい。欲しがってもらえたなら。それこそペルの望む救済だ。助けになりたいというのなら、必要としてほしい。ペルでなければダメなのだと、贔屓にしてほしい。それだけでこの心の不安は取り除けるのに、マムシはまるで冗談を笑い飛ばすかのように「ははは」と流してしまうので腹が立って思わず「本気ですよ!」と声を荒げてしまった。下から睨みつける。突然の剣幕にマムシは目を丸くしたが、すぐにふにゃりとまなじりを柔らかくした。
「そうかァ…じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「え」
「ペル、こっち」
するりと抱きしめていた腕を解かれて、連れて行かれたのはベッドの上だ。寝転がるように体を押しやられ、その両脇にマムシが膝をついた時には心臓が大きく波打った。ばくばくと高鳴る鼓動が落ち着かない。見下ろしてくる眼差しが、普段より真剣味を帯びている。顔が熱い。手が震える。喉が渇いて声が出ない。
「ペル」
マムシの、いつもより低い声が、耳の奥をなぞる。まさか。そんな。いや、想像しなかったといえば嘘だ。けれど、本当に?こんな形で、この人は自分を求めてくれるのだろうか?
「抱きしめてくれないか」
言い終わる前に、手を伸ばしていた。首を引き寄せて胸を合わせる。うるさい心臓の音は聞こえてしまうだろうが、なりふり構わず強く抱きしめた。マムシの体温。匂い。体重。それが全て腕の中にある現実に目眩がする。ペルの肩に顔を埋めたマムシは「ごめんな」と呟いたが、なんの謝罪だかわからない。ペルは嬉しいのだ。何もさせてくれなかった彼が、ペルに要求を出しているという事実だけで嬉しい。なんだっていい。なんだってしたい。求めてくれるなら、全てを差し出したい。
「結局、おれは、お前に何も与えてやれない。甘えてばっかりだ…」
そんなことはない!
大声で否定したかったが、カラカラに乾いた喉からは声が出なかった。彼から甘えられたことなど、今まで一度もない。一度でもこんな風に甘えてきてくれたなら、こんなにも焦がれて無様に駄々をこねることもなかったはずだ。
「全部やるって言ったのにな。なにも、やれるものがないんだよ。ごめんな…」
弱り切った声が嬉しいなんて間違っているのに、彼の弱音をもっと聞きたいと思ってしまう欲が止められない。抱きしめて、頭を撫でれば、幼子のように頬を擦り寄せてくる仕草が愛おしい。
「ゆるしてくれ、ペル」
耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな声が、どうして謝っているのかわからない。マムシの心の内がわからないのはいつものことだ。助けになりたいと思ってもかわされてしまうばかり。だからこそ、少しでも本心に触れられたこの瞬間が特別なように思えた。
このとき、ちゃんと彼の苦しみに気付いていれば。
どうして謝るのかを、無理矢理にでも聞き出していれば。
何かが変わっていたのかもしれないと、ペルはこの先ずっと悔いることになろうなどとわかるはずもない。
ダンスパウダーが王宮に運び込まれていたという騒ぎがあったのは、その翌週のことだった。