女の悲鳴と陶器の割れる音がどこからか微かに聞こえて、ルッチは浅い睡眠から目を覚ました。任務帰りの体はまだ重く、拭っても洗っても指先から香る血の匂いが落ち着かない気分にさせる。
悲鳴の元は、部屋の外かららしい。ルッチがドアを開けて廊下に出ると、冷たい視線に気付いた使用人が喉の奥で引き攣った声を出した。「ルッチ様」。押さえている指は血が滲み、足元には割れた花瓶と薔薇の花。どうやら棘が指に刺さった拍子に落としたようだ。くだらないとルッチが舌打ちをすると、使用人はあからさまに怯えた様子で早口に言い訳を述べた。
庭師の男が皆様のお部屋に飾る花の棘を抜いておかないものですから、皆様が怪我をしては危ないと思って抜こうとしたのですが、手を滑らせてしまいました。申し訳ございません。お休みのところ、大変失礼いたしました。どうかお許しを。申し訳ございません。申し訳ございません。
ひたすら謝ることしかしなくなった使用人に興味がなくなり、ルッチは何も言わず部屋の中に戻った。廊下では大袈裟に安堵の息を吐く音が聞こえる。思わず笑いが込み上げて、くつくつと喉の奥で笑った。使用人の怯え様がおかしいのではない。薔薇の棘のことだ。
ルッチはベッドの近くに戻って、サイドテーブルの上へ無造作に置かれた薔薇の冠を手に取った。何本もの薔薇が編み込まれ、絵画にでも描かれていそうほど美しい花冠に仕上げられた薔薇は、強く握っても傷どころか痛みすら感じない。当たり前だ。この薔薇には棘なんかひとつも残っていない。
久しぶりだね、ミケ。今年もまた薔薇が綺麗に咲いたよ。お前に似合う真っ赤な薔薇だよ。
一週間の任務から戻って、報告へ行く前に通り掛かった本島の庭でイツキに会った。寸前に豹の姿になったルッチを嬉しそうに目を細めたイツキが出迎え、そしていつものように丁寧な手つきで首や頭を撫でる。一人と一匹の傍らに咲きほこる薔薇は、ミケの不在の間に開花したようだ。血を吸ったように真っ赤に色付く品種である。
イツキはその中から一際形のいいものを選んで鋏を入れると、器用に茎を編み込んで冠を作った。もちろん棘は丁寧に抜いて、ひとつの欠片もない。
それを恭しくミケの頭に乗せて、イツキは呟く。
ただ豹が花冠を頭に乗せただけ。ミケとしたら、それがどうしたと言いたい。だがイツキはまるで恋をした女のように頬を染めてはにかむものだから、ミケは仕方がなく付き合ってやることにした。
そうしてルッチの部屋にあるのがこの薔薇の冠だ。人間の掌で乱雑に掴んだ花びらはちぎれ、室内にむせ返るほどの甘い香りが広がる。それに紛れて微かに漂う血の匂いは、人体を貫いたルッチの指先からではない。棘を抜く時に指を切ったイツキの血の匂いだ。頭の中が痺れそうになるその匂いを吸い込んで、ルッチは冠を力任せにひきちぎった。
「
「ひっ…!」
ドアを開ければ、まだ使用人は割れた陶器を片付けている。その上へ無惨な姿になった薔薇の束を放り投げると、「捨てておけ」と言い付けてルッチは今度こそ興味を無くした。
薔薇の香りが充満する部屋はルッチの頭を冷静にさせる。今度こそ、ゆっくりと眠れそうだ。