鼻先に唇を押し付けられたルッチは、目を丸くしてイツキを見た。やわらかく笑う顔が間近にある。彼のこんな表情を、ルッチは見たことがない。ミケだけがこの顔を見ていた。イツキは人間を愛せない男だ。興味もないし、最低限の付き合いですら疎ましく思っているとルッチは知っている。
「かわいいルッチ、君を世界一愛しているよ」
いつもの調子で甘く囁くイツキが呼んだのは豹の名前ではない。ある人は口にすることすら怯えて引き攣る殺戮兵器の名前だ。
イツキはルッチの癖のある髪を梳き、指先で頭を撫でた。豹の体ではないのに、その手は変わらず気持ちいい。
ルッチは喉を鳴らそうとして、鳴る喉がないことに気がついた。それはそうだ。今は人間である。彼が興味をまったく示さないはずの人間である。
ルッチはよく分からなくなっていた。ルッチは頭はいいが、人に対して殺すか生かすか以外の選択肢を知らない。こんな風にされて、どう返せばいいのか分からない。
とにかく何か言おうと口を開いたが、何も言うことがなくてまた口を閉じた。その唇にイツキの唇が柔らかく重なった時、何故だか知らないが胸の奥がぎゅうと痛くなった。その感情をルッチは知らない。熱くなる頭の理由をルッチは知らない。
これから先、人間のままの姿でキスをするようになっても、意味もなく噛み付きたくなっても、イツキが他の人間や獣を見るだけでいらついたりしても、ルッチはそれを表現する言葉を知らなかった。
「…そうか、君はそんな顔をするんだね、ルッチ」
ミケと呼ばれなくなった豹は、人間の感情を何も知らないのだ。今はまだ、何も。
ミケと呼ばれた
豹がいた