硝子の割れる音がした。空気を破裂させるような音。木々が軋む音。何かが倒れる音。それらは徐々に大きくなって、近付いてくるのをイツキは感じていた。ルッチもそれは気になるらしい。去ろうとした足を止めて今度こそ本当に訝しげな目で音の方を睨むと、ぴりぴりした警戒の空気がルッチから漂ってくる。
音の原因はジャブラだ。それはわかる。どうやらひどく怒っているらしく、イツキが聞いたこともないような声で吠えた後にこの音が響いていた。エニエス・ロビー本島でも端の、木々に囲まれたこの場所からはわからないが、何かが起きたのかもしれない。やがて肉眼であのふわふわの毛皮のシルエットが見えてようやく、彼が自分に向かっているのだとイツキは気付いた。遠目に合った視線は刺さるほど強い。
はて。随分と怒っているようだが、何かしただろうか。
「
責める声色で空から降り立ったジャブラは、いつもイツキに毛皮を触らせてくれる獣の姿ではない。中途半端に人と獣が入り混じったような体は大きく、脚立に座っているイツキすら見上げるようになる。人獣型と呼ばれる形態があることは知っていたが、見たのはほんの数回だ。ジャブラが機嫌を悪くして、イツキを脅す時。
…あ、なるほど、脅されているのか。
イツキはようやく気が付いた。
「…なんだァ?化け猫も一緒じゃねェか。おればっかり矢面に立たせやがって」
ジャブラはルッチをちらりと一瞥して、一際機嫌が悪そうに唸る。空気がひやりと冷えていくのを感じたが、それはおそらくルッチが原因だ。この組み合わせがよくないと気付いているのはイツキとルッチだけで、ジャブラは何もわかっていない。脚立から立ち上がって「ジャブラ様、」と呼び掛けたイツキより早く、ジャブラは口を開いた。
「肩噛まれても構わねェってか?ったく大したもんだぜテメェの根性はよ」
皮肉をかけられて動いたのはイツキではない。ルッチの方だ。一瞬の間に、ばちん、と空気が弾ける音がして、衝撃で木々がざわめく。ジャブラが腕を交差させて防いだ攻撃はイツキには目視出来なかった。
「……なんだァ?」
「黙れ野良犬」
「しゃしゃり出てくるたァ珍しいじゃねェかルッチ。噛み付いて反抗したくせに、他に傷付けられるのは気に喰わねェってか」
「黙れと言っている」
張り詰める空気と、崩壊の兆しが見える展開にイツキの背筋がざわめく。きっと全てを知っているのはイツキだけだ。ジャブラが何故怒っているのかは知らないし興味もないが、ルッチが涼しい顔の下でどんな心境なのかは予想に易い。焦っているか、怒っているか、疎ましく思っているか、だ。
どん、どん、と破裂するような音が立て続けに響いて、爆風で脚立の上に立っていられなくなったイツキはハットリとともに木の影へと移動した。空気を震わせる衝撃は皮膚に痛い。これがCP9同士の喧嘩かと思うと、なるほど確かに彼らは超人だ。しかし人獣型のジャブラに比べ、人のルッチは分が悪いようだった。
素人目で見ても互角の勝負は、CP9最強と呼ばれている男に相応しくない。おそらくは本来の能力を引き出せていないのだ。側にイツキがいるせいで。
てっかいやらしがんやらかみえやら、イツキにはよくわからない単語の隙間に、ルッチは舌打ちを何度もした。ジャブラは心底不思議な顔をしている。それはそうだろう、突っ掛かってくるくせにルッチは本気を出さない。だのに苛つく素振りを見せる。
「おい、どうしたルッチ。ナメてんのか」
「…あ」
思わずイツキは声を漏らした。
ジャブラは言った。
こんなにもあっさりと、言ってしまった。
ロブ・ルッチが豹になれるという事実の、決定打を。