ルッチ長編 | ナノ


血の匂いに誘われて、ミケは一本の木に辿り着いた。
根本に立てかけられた木鋏と竹籠の持ち主を知っている。太い枝から垂れ下がっている片足は、イツキのものだ。ミケはするすると木に登り、血が足らなくて青褪めた顔に鼻を近付けた。けれどイツキは気付かない。当然だ。幹に背をもたれて、気を失ったかのように眠っている。

「…ん、」

鼻を頬に押し付けて、ミケは唸った。細い呼吸の中で呻き声を漏らしたイツキは、うっすらと瞼を開けてミケを認める。「ミケ」。安心したような声は寝起きのせいか掠れて生気がない。「もう、会いに来てくれないかと思った」。そう思うのも無理はないだろう。普通の獣だったら殺すつもりだと思われるほど強く噛んだ肩は、血が滴るほどに深い傷を負った。シャツの下に巻かれた包帯の厚さが大事を物語っている。
しかしこれは、誰かに手当てを頼んだのだろうか。イツキの性格を考えれば自分から頼んだとは考えにくいが、片手で巻いたにしては器用すぎる仕上がりだ。

鼻を肩口に埋めると、香った獣の匂いにミケは気付いてしまった。途端に機嫌は急降下する。再び威嚇の意思を持って唸り声を上げる喉を、イツキは宥めるように緩くさすった。

「…犬の匂いでも、したかなァ?」

   わかっているじゃないか。
そうだ、犬のせいだ。時折香っていた他の獣の匂いに、ミケだって気付かないわけではなかった。
けれどイツキは庭師だ。そして無類の動物好きである。あの犬と接する機会など、この二年間何度もあった。だからミケは大して気にしなかったし、ミケ自身はイツキが犬に会わない日を狙っていたのだ。匂いでミケの存在がばれないように。
今思えば、なんとも面倒臭いことを二年も続けてこられたものだ。その裏でイツキと犬は何の憚りもなくべたべたしていたというのだから、ミケは頭に来てしまう。第三者の口から聞けば尚更だ。
不満気にがぶがぶと首筋に噛み付くミケの背中に腕を回して、イツキはとんとんと軽く叩いた。駄々をこねる子供を甘やかしているような仕種はおかしい。おかしいはずだ。確かに今はまだ甘噛みだが、つい先日牙を剥いて痛めつけられた獣への態度ではない。怯えるか、避けるか、少なくとももう簡単に牙を近付けられるとは思っていなかった。学習能力がないのかと呆れて離したミケの口に、イツキはキスを落として柔らかい声で囁く。

   ミケが嫌がるなら、我慢しようかなァ」

おれにとってはミケが一番だもの。
そう言ったきり、イツキは瞼を閉ざした。すやすや、風に紛れて聞こえる寝息は、目の前の獣に襲われるとは思っていないようだ。穏やかで安心しきった顔が信じられない。おかしな話だ。ミケには理解が出来なかった。話が通じるわけでもない、何をしてくれるわけでもない、ただ時折訪れては撫でさせるだけ撫でさせて帰っていくだけの動物が、自分に危害を加える獣が、一番などと    



「…バカヤロウ」

小さく零れた誰かの声は、眠るイツキに届かず消えた。


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