1000000 | ナノ


「明日の出航、もし一時間前におれの姿が無ければ、予定を早めて島を出てくれないか」


「クロコダイルには、海軍に狙われているとでも言っといてくれ」。ナマエがそう言い出した時、ダズは何も聞かずに「わかった」と了承した。理由など、聞くまでもなく分かっていたからだ。

元七武海のクロコダイルや賞金稼ぎを生業とし殺し屋とまで呼ばれていたダズとは違い、ナマエはあくまでも単なる一般人でしかない。使用人という立場の、クロコダイルの生活に最も密接だったからこそアラバスタの一件でも加担していたとされてインペルダウンに連れていかれたが、実際は計画の一端すら知らなかったというのだから冤罪を被っただけの哀れな一般人だ。
ナマエ自身、チンピラのような風貌ではあるが感性は世俗的で、自分に害をなすものならば暴力を振るうことに躊躇いはないものの自ら進んで他人を虐げたりはしない。相手が善人ならば尚更だ。
特徴をあげるとするならば、常人よりも察しはいいという部分か。家事の手際も良く、細かいところにもよく気付く。馬鹿正直で自分の感情を隠そうともせず、野心を持つこともしないようだから、嫌な思いをすれば顔に現れて、ましてや腹芸で誰かを出し抜こうなどと考える素振りもない。この海を渡れるくらいに腕は多少立つものの、所詮はクロコダイルが本気になれば殺すことなど造作もない程度の実力だ。

それらの要素は全て、クロコダイルにとっては都合がいいが、ナマエが何故クロコダイルに付き従っているのかダズはずっと理解が出来なかった。唯一、水に好かれるという呪いにも似た体質を抱えて本人もコンプレックスに思っているようだが、大きな水害を引き寄せるわけでもあるまいし、生きる場所を選べばどうとでも出来る筈だ。けれど彼は、文句を言いながらも、冤罪を被せられながらも、身の丈に合わない危険を承知しながらも、クロコダイルに付き従っている。あんなにも馬鹿正直で、悪巧みなどしそうにない男がその性質とは正反対のクロコダイルから離れていかない理由がわからなくて一度直接聞いてもみたが、「あいつ、勝手に離れてったら怒るだろう」と、結局はクロコダイル基準の理由でしかないのだから、もしもナマエがこの船旅に着いてこれなくなった時や、他に優先したいものが現れた時、クロコダイルを出し抜いてでもここから離れていくのかもしれないと、ダズはずっと予感していた。
その予感が、どうやら明日、当たることになるらしい。ダズは引き止めも問い質しもしなかった。驚きもしなかったのは、ログを溜めるためのこの数週間のナマエの行動を知っていたせいもある。

町の外れで、チンピラのような輩数人に囲まれて連れ去られそうになっていた女。見過ごすには後味が悪いとわざわざ助けてやったナマエに、その礼をしたいと申し出たその女がこの数週間ずっとナマエの傍にいた。最初は町の案内。それが住めば宿代わりに自宅へ泊まってほしいと言い出して、それからはまるで恋人同士のようにナマエの隣を歩いていたのをダズは知っている。知っていて、何も干渉しなかった。

懸賞金がかけられていないナマエは目立たず物資補給を済ませやすいために別行動をすることも多いが、その間まるで会わないわけでも連絡を取らないわけでもない。「変なの引っ掛けちまった」と最初は言っていて、不機嫌なクロコダイルとああだこうだ言い争っていたのもダズは聞いている。しかしやがてその女と過ごす時間の方が多くなり、船や宿の方にも寄り付かなくなって、いよいよ明日出航するとなってナマエが言い出したのは別離を匂わせるような宣言とくれば、その女に心を奪われて船を下りることを検討しているのだと考えるのが普通だろう。

ダズはナマエに対して何も言わなかった。元より口数が多いわけでも、相手の人生にあれこれと干渉するタチでもない。ナマエが決めたのなら、それはダズが口を出すべき問題ではないのだ。
何よりも、ナマエは海賊にも犯罪者にも向いていない男だ。まだ懸賞金の掛けられていない今ならば、この平和な島ならば、余所者のナマエでもあんなにも慕っている女とならば、きっと彼は一般人らしい幸せを手に入れるだろうと思ったので。


「ボス、出航予定一時間前に姿が無ければ出航を早めてほしいと、ナマエが」
「…あ゛ァ!?」

出港予定時間の三時間前。つい『うっかり』早めに、「追っ手に狙われているとでも言っといてくれ」という頼みを『忘れて』しまったダズは、最悪に機嫌を降下させたクロコダイルが足音荒く出て行くのを見送った。仕方がないことだ。クロコダイルの行動まで制限することは、ただの部下でしかないダズには到底出来はしないのだから。



***



「あんた、騙したのね!」

耳障りな甲高い声が頭に響く。血をだらだらと流す傷口がさらに広がったような気がして手で押さえようと思ったが、両腕とも拘束されていて叶わない。仕方なく眉を顰めて痛みを耐えたが、さらに頭を強く殴りつけられて目の前に星が散った。メリケンサックだろうか。あるいはバール?バットかもしれない。近接武器と、当たり前だが銃も持っているだろう。あのクロコダイルを討ち取ろうというのだから、人数もこんなものではないはずだ。さて、どうやって切り抜けようか。いくつかの案も事前に考えてはいたものの、初手の一発が避けきれず思った以上にダメージを喰らってしまったため意識がぼんやりとしている。仕方がない。最悪死ぬだけだ。細い息を吐いて痛みをやり過ごすナマエの顔を、殴りつけた男が掴んで上げさせた。

「おい、悲鳴のひとつも上げねェぞ。まさかこの程度で死ぬんじゃねェだろうな」
「ちょっと、殺さないでよ!クロコダイルがどこにいるか分からなくなるじゃない!」
「人質にも使えんだ、やるなら手足にしとけ」

喚く女と、男が数人。男達は見間違いでなければ、先日女を囲んでどこかに連れ去ろうとしていた顔だ。おおよそ、ナマエをクロコダイルの仲間だと察知した女が、男達を唆してクロコダイルの首にかかった懸賞金を山分けにしようとでも誘ったのだろう。いや、男達が女を唆したのかもしれないが、その点についてはどちらでもいい。要はナマエを餌としてしか考えていなかった癖、「騙したのね」と詰るとは呆れた話だ。騙したのはそっちの方だろうに。

「ちょっと、クロコダイルはどこよ!ここに船を寄せるっていうのは嘘なの!?」
「……もう海に出てる頃だろうよ。おれがこの時間に戻らなきゃァ、狙われてると思うように言ったしな」
「なんですって!?あんたまさか、最初から気付いてたっていうの!?」

気付いていたわけではない。女を助けたのは完全に善意でしかなかったし、町を案内してもらった時も、家を宿代わりに使って欲しいと申し出てくれた時も、ナマエは女をただの女だとしか思っていなかった。だが、何日経っても自分から離れていかない様子と、クロコダイルの船が停まっているようだが仲間かと聞かれたときに認識を改めたのだ。この女は警戒するべき存在ではないのかと。確信などない。女は上手く本性を隠していた。

バックについている男達の気配を微塵も感じさせず、会話も仕草も清楚な女そのものだった。可愛い子だなァと思った。
男達に囲まれていたのは、ろくでなしの親が借金を残して消えたから代わりに売られそうになったのだと言っていた。可哀想になァと思った。
おれは水難にとりつかれているから濡れたくなけりゃ離れた方がいいと言った時も、そんなこと気にしない、一緒に濡れましょうと笑ってくれた。いい子だなァと思った。

可愛くて、可哀想で、いい子で。女の人物像が美しく象られていく度に、ナマエは警戒心を強めた。女がヘマをしたわけではない。騙されているという確信はなかった。罠に掛けられているという証拠も一切。けれどナマエは、その人物像をそのまま受け入れることはどうしても出来なかったのだ。

女から「あなたについていきたい」と言われた時、今日のこの時間この岩場に一度寄せた後で出航する予定だと伝えた。本当についてくるつもりなら来て欲しいと言うと彼女は嬉しそうに頷いたが、その顔に裏がなくとも連れて行くつもりなどなかった。適当に言いくるめるか、まとわりついてくるのを撒いて船に乗るつもりだった。女が本当に可愛くて素直でいい子なら、幸せになるべきだと思ったからだ。そして彼女を幸せにする自信はナマエにはなかったし、そもそも別に彼女のことを好きでもなかったので、幸せにしてやる義理もないと思っていた。女を助けて、今日この日まで戯れに付き合ってやったのは単なる気まぐれの親切心と、何らかの企みがあるなら暴かなければならないという猜疑心だ。恋慕の情など何もなく、例え本当に女が可愛くて可哀想ないい子でも、さっさとおれのことは忘れてくれとしか答えようがなかった。

だが実際、女の方にも恋慕の情などはなく、ナマエが警戒した通りの展開になっている。
女と二人で岩場に向かえば数人の男達が出てきて、後ろから頭を思い切り殴られた。逃げられないよう両腕を拘束されたまま、しかし予定の時間になっても船は一隻も現れないものだから、逆に騙されていたのだと勘付いた女がヒステリックにナマエを罵っている。それだけのことだ。惜しむらくは、警戒が足らずまともに一撃喰らってしまった点だが、最悪死んだところで、何かあった時のために手を打っておいたので他に迷惑をかける心配もない。あとはダズがうまくやってくれていることだろう。
彼は、ナマエの存在を不思議がっていた。当たり前だ。クロコダイルやダズと違い、さして特殊な能力やズバ抜けた戦闘力があるわけでもない、ただの雑用係でしかないのだ。お前はここにいるべき人間ではないという視線や態度を隠しもしなかったので、ナマエが降りたところで何の異論もあるまい。むしろ進んで協力をしてくれるはずだ。

「…おれを人質にして呼び戻すだなんて考えるなよ。単なる雑用を拾いに戻ってきて大人しく無抵抗になるほどクロコダイルが温情ある男だと思ってんのか」
「うるさい!ねェ、ちょっと早く港を探してよ!まだそう遠くまで行ってないはずよ!」
「探すのは構わねェが、上手くいかなかったら今度こそてめェを売り飛ばして借金のカタにしてやるからな」
「わかってる!ちくしょう!黙って騙されときゃァいいのにこのクソ野郎が!」
「ははは!あんたも災難だなァ、ギャンブル狂いの女を助けちまったために仲間にも置いていかれて、こんな目に遭ってよお」

げらげら笑う男達と、悔しがって細い脚で蹴りつけてくる女の会話を聞くに、なるほど借金は父親のものというのも嘘だったらしい。つまりはなんの同情の余地もない女ということだ。助けない方がよかったか、とは思うものの、後悔はしていない。悔しいとも思わない。騙される方が悪いのだと、警戒が足らなかったと反省こそすれ、怒りなど感じなかった。


何故ならナマエは、最初から誰一人、信用してはいないからだ。


人は裏切るものだと知っている。幼い頃とても仲の良かった友人達が、街の水害をナマエのせいではないかと噂する声を耳にして、手のひらを返したように遠ざけ、罵り、島から出て行けと石を投げてきたことさえある。何も根拠のない理由で、ナマエが生まれるずっと前から起きていた水害をナマエのせいにして、一方的にナマエを責め立てた。
どう言い訳をしても、また仲良くなれるよう手を尽くしても、無駄だった。その時からもう、ナマエは諦めている。どんなに親しい人間だって、裏切る時は一瞬だ。手間も時間も掛からない。気持ちひとつで、相手の都合も無視して、裏切ることはできる。簡単なことだ。誰にだって出来ること。ならば、誰が裏切っても不思議なことではないだろう。
アラバスタの時だってそうだ。クロコダイルが捕まった際、海兵に事情を聞かれていたナマエに手錠をかけるよう言ったのは、アラバスタで知り合い、買い出しに出た市場でよく会うようになって、時折飲みに行くような親しい青年だった。友人といってもおかしくはないはずの存在が、「そいつも仲間だ!捕まえてくれ!」と叫んで、ナマエの話など何も聞かずに決めつけナマエを睨みつけた。その目をナマエは知っている。こちらの言い分など何も聞く気がない人間の目だ。

糸をハサミで切るように、ロウソクの火を吹き消すように、一瞬で友人だった人間に根拠のない犯罪者のレッテルを貼られたナマエは、何の抵抗もせず海兵に手錠をかけられ、クロコダイルとともに犯罪者としてインペルダウンに送られることとなった。怒りは感じなかった。そういうものだと既にわかっていたからだ。人は裏切るものだと。当たり前のことを避けられなかった自分が悪いのであって、誰かを責めても事態は好転しない。だからナマエは、誰かを恨むことをしない。信用することも、期待することもしない。今までずっと、そうやって人間との付き合いを希薄にして生きてきた。そうすることに慣れてしまった。そうした方が、裏切られた時に楽だったから。

けれど、ただ一人の例外がいる。クロコダイルだ。
あの陰険で陰鬱で陰惨で、性格が悪く暴力的な男とこんなにも長い付き合いをしたのは、あの男が自分から離れていく人間を『裏切り者』として認識するせいだ。
勝手に離れていくことを許さないと、用済みになるまで付き従っていろと一方的に言いつけてくる傲慢な男だったけれど、離れることを惜しまれた記憶がないナマエには唯一の存在だった。島から出て行けと言われながら育ってきた。悪意から庇ってくれた友人でも島から出ることを引き止めてはくれなかった。家族ですら、ナマエと離れることを惜しむ様子はなかった。
ナマエにとって、クロコダイルただ一人が、離れていくことを『裏切り』とし、裏切り者は殺すとまで言った人間だ。嬉しかったと言ったら、おかしいだろうか。どれだけ腹が立っても、理不尽な目に遭わされても、傍にいてやりたいと思うのはおかしなことだろうか。離れたら怒るほど必要としてくれる、唯一の人だったのだ。着いて行く理由など、ナマエにとってはそれで十分だ。

今ももしかしたら怒っているかもしれない。追っ手に狙われているとはいえ、勝手な判断をしやがってと怒ってくれればいいと願ってしまう。それだけでナマエは満足だ。例えこれから殺されるとしても。

「あんた…!何ニヤニヤしてんのよ!」

八つ当たりでしかない罵倒と共に、振り上げられた拳が頭に当たる。いつもならさしてダメージを食らうはずもない女の力でも、鈍器で何度か殴られた後では意識を失うのには十分だった。目の前が暗くなる。ちかちかと瞬く星が瞼の裏に広がっていく。膝をついて倒れ込んだ岩場は、固くて、冷たくて、乾いた砂の匂いがした。



***



「…ったく、手間ァ掛けさせやがって…!!」

どかどかと足音荒く帰ってきたクロコダイルは、左手のフックに大きな荷物を引っ掛けている。だらりと力の抜けたそれは意識を失っているらしく、乱暴に甲板の上へ転がされても文句どころか反応もない。随分と手荒に連れ戻して来たらしい。
大人しく船内で待機していたダズは怪我の程度を見て、まあこいつの回復力なら平気だろうと判断しクロコダイルに指示を仰いだ。

「出航しますか」
「早くしろ!」

怒号のような指令のあと、聞こえてきた馬鹿でかい溜息は苛立ちを落ち着かせるためなのか、あるいは手元にあるべきものが戻ってきた安堵なのか。聞いたところで素直な回答など帰ってくるはずもないのだから、黙って出航準備をするダズはクロコダイルに忠実な賢い部下だ。
優先すべきはナマエの幸せよりもクロコダイルの指令となってしまうのは、部下として仕方のないことなので、悪しからず。

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