夜も更けた時分に目が冴えてしまったペルは、ベッドで横になっているのも苦痛で部屋を出た。明日も朝から訓練があるのだから早く休まなければならないと思うのに、宮殿にマムシが滞在している間はこうやって眠れなくなってしまう日が多くなった。
誰かと話す横顔。遠くなっていく笑い声。用事はないとばかりに向けられた背中。そんなものばかりが頭の中に焼きついていて、言い表しようのない不安がペルを襲ってくる。
マムシは、ペルに構わなくなってしまった。いや、ビビの相手をするのに時間を使ってしまって、ペルのことは後回しになったと言った方が正しいだろうか。
顔を合わせれば話しかけてくれるし、名前を呼ぶ声は相変わらず甘くて柔らかい。ただ、抱き上げてくれることも、頭を撫でてくれることも、ペルと遊んでくれることもなくなった。もう子供ではないのだ、それは当たり前のことなのに、当たり前のことがひどく胸を痛めつける。抱き上げて、頭を撫で、遊んでもらえるのを当たり前の権利として持っているビビを羨ましく思い、そしてそんなふうに考えてしまう自分を浅ましく思った。
彼は王家の人間だ。親しみやすく、気軽に接してくれる雰囲気があるとしても、ペルとは最初から立場が違う。今まで甘やかされていた自分を恥じても、彼と同じく王家の人間であるビビを羨むことなどあってはならないのだ。
「 ペル?どうしたんだ、こんな時間に」
「…っ、マムシ様…」
長く続く廊下の角を曲がったところで、月明かりが差し込む窓辺にマムシが立っていた。周囲には誰もおらず、その手には彼が海の外へ出る際にいつも持っているバッグ。夜も更けた時間帯だというのに、その服装は明らかに寝巻きではなかった。
「…出立なさるのですか」
「ああ、今日は天気が良さそうだから、今のうちに港まで出ておきたい」
「国王様には…」
「まだ寝てらっしゃるよ。いつものことだ、起こすのも申し訳ない」
確かにいつものことだ。王家の人間でありながら、宮殿を離れるというのに彼は誰にも伴をさせず、見送りさえ必要とせず、行先すら伝えようとしない。
「おれは単なる放蕩息子だから」と言ってはいるが、それを許されているのは彼の実績と性分、そしてこの国で誰よりも隙のない強さを持っているからだ。海に出る度たくましくなって帰ってくる彼には、並みの護衛隊はもちろん、ペルやチャカ、イガラムですら敵いはしない。ツメゲリ部隊の四人すらまとめて軽くいなした時には、その場にいた誰もが息を飲んだものだ。「おれが王家の人間だから、みんな気を使って本気で打ち込んでこれないんだよ」。困ったように笑っていたマムシの言葉を、きっと幼い頃なら鵜呑みにしていただろう。けれど今ならそれが真実ではないとわかってしまう。だからこそペルは、誰にも言わずに海へ出ようとするマムシを引き止めることが出来ない。まだペルが護衛隊に入ったばかりの頃、「私にお供をさせてください」と願い出たとき、「この国で一番強くなったらね」と彼は言った。その約束を、ペルは今でも果たせずにいるのだから。
「ペルは、どうしたんだ?もしかして起こしてしまったか?」
「いえ、少し目が冴えて…」
「眠れないのか、どれ、手を貸してごらん」
「え」
肩にかけていた荷物を床に下ろし、ペルの握り締めていた手を取ると、マムシは温めるように両手で包んだ。「冷えてるな。布団が薄いのか?」。いいえ、あなたのことを考えていたんです、と言ったら困らせてしまうだろうか。無言で手を握り返すペルに、マムシは片手で指を絡めるように繋ぎ直すと、空いた片手で荷物を持って歩き始めた。行く先は宮殿の出口ではない。ペルが先ほど歩いてきた廊下を、彼はペルを伴って進んでいく。
「マムシ様…?」
「ベッドに入って待っておいで。ホットミルクでも作って持って行ってあげよう」
「そんな、やめてください、あなたにそんなことをさせるわけには!」
「お前はアラバスタの大事な戦力なんだ。体調を崩されては困るよ」
困ると言うくせに、その声はどこか楽しげだ。「この間は、ハチミツが名産の国に行ってきたんだ。とっておきのを買ってきたから、ミルクに混ぜてあげよう。甘くて美味しいぞお」。子供扱いされている。恥ずべきことのはずなのに、それがとても嬉しいなんて。
「…マムシ様、私はもう、子供ではないんですよ」
「……ブランデーの方がよかったか?それともホットワイン?」
そういうことではないと言うべきだ。構わずに出立してほしいと言うべきだ。
けれど気遣うように振り向いたマムシの目に、自分の姿が入っていたから、ペルはこの手を離すのが惜しくなってしまった。
こんなのは、どうかしている。