SSリクエスト祭2 | ナノ


風も波もない、凪いだ夜のことだった。
インペルダウンを脱走し、マリンフォードで戦争に首を突っ込んで、そのまま再び懐かしの新世界へと乗り出してきたクロコダイルはここしばらく忙しい日々を過ごしていた。
なにせ一からのやり直しだ。何もかもが不足していて、調達するために随分と暴れまわった。地獄の底で拾ってきたかつての部下と、元から自分のものだった使用人。三人で新世界を渡るなどとどこの世間知らずだと鼻で笑われても仕方のない話だが、それがクロコダイルだとすれば話は別だ。腐っても元七武海。実力は政府のお墨付きである。略奪という形で、すぐに船も資金も用意が出来た。

まだ体制が整わないうちに首を狩って名を上げようとする輩も、もちろん少なくはない。静かな船出とはもちろんいかず、この数週間は毎日のように誰かを屠っていたような気がする。海賊、海軍、賞金稼ぎ。ようやく落ち着いたのは、敵船を襲うような余裕もない嵐がきたあとのことだった。船をへしおるかのような高波に揉まれて、荒れ狂う海域を抜ければ周囲には他に船の一隻も見えなかった。違う方角へ逃げたのか、あるいは沈んだのか。どちらにせよ「今日は久々にゆっくり出来そうだなァ」と呟いた使用人の言葉は、その場にいた者の共通の心情だろう。食事も、シャワーも、穏やかに済ませたクロコダイルが早々にベッドに入ったのは、疲れていたというよりもやることがなかったからだ。

海の上にいるとは思えないほど静かな夜は、沈黙が耳に痛くて眠りが浅い。船が揺れて軋む音も、風が吹いて窓を打つ音も、波に飲まれてしまったかのように聞こえなかった。寝ているとも起きているともつかない意識だけが中途半端にぽっかりと浮かんでいるのに、身体はベッドに沈み込んでいて動かそうという気持ちすら起きない。

クロコダイルが柔らかな微睡みの中に揺蕩っていると、ふと、何かを引きずるような音が遠くから聞こえてくることに気付いた。ずる、ずる、と、おそらくは甲板から船内に入る階段を降りてきているのだろう、徐々に大きくなってくるその音は、こちらに近付いてきているらしい。周囲が静かなだけにやけに大きく響く。耳障りな音だとクロコダイルは眉をひそめたが、起きてその音の正体を確認することはなかった。わかっていたのだ。犯人はクロコダイルの使用人であるナマエという男。そして引きずっているのはおそらく、濡れて重たくなった靴だ。

水難体質という、まるで呪われているかのような数奇な星の下に生まれたらしいあの男は、またどこかで水をひっかぶったらしい。濡れた靴を引きずるように歩いているということは、今回は随分と意気消沈しているようだ。幾度もそんな様子を見てきたクロコダイルには、わざわざ部屋の外に出て確認する必要もない。慣れた日常の中の雑音だ。

ずる、ずる、と重たく緩慢な動きで動いていく音は、クロコダイルの部屋の近くまで来て、その手前で動きを止めた。ナマエの部屋だ。当然ながら、予想は外れていなかったらしい。ぽたぽたと水が滴る音まで聞こえてきて、更に確信を強くした。

しかし、おかしいと思ったのはそこからだ。自分の部屋の前で止まっていながら、部屋の中に入る音は聞こえてこない。ドアを開ける音も、閉める音も、そしてそこから動く気配も、何もないのだ。
何をぼんやりと突っ立っているんだと思ったが、夢と現の狭間で浅い睡眠に意識を任せている身体はどうにも重くて動く気がしない。それでなくてもいちいち様子を見にいくのは面倒だ。こちらの部屋に入ってきて寝首でも掻こうとしているのならまだしも、彼自身の部屋の前にいるならクロコダイルにはなんの関係もない。

無視したところでなんの問題もないだろうとは思っていたが、今度は小さく、何かを引っ掻くような音が聞こえてきた。かりかり、と乾いた硬いものを掻くようなその音は、おそらく床か、あるいはドアを掻いているのだろう。何故、と考えるよりも早くその音はどんどん大きくなっていく。かりかりと、耳を澄ませなければ聞こえないような微かな音から、徐々に大きく、まるで存在を知らしめているかのようにカリカリカリカリ、流石にクロコダイルも見逃せない違和感に眉をひそめたが、音は一心不乱に何かを引っ掻いている。カリカリカリカリ、自分の存在を知らしめるかのように、カリカリ、うるさいくらいにカリカリと、爪が剥がれるんじゃないかと思うくらいに力強く、カリカリ、カリカリカリ、カリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリッガリガリガリガリガリガリガリガリッガリ




    うるっせェ!!殺すぞ!!」

あまりにも耳障りな音に思わず叫んでしまったクロコダイルの恫喝に、再び静寂が訪れた。壁を引っ掻く音はもちろん、何かを引きずるような音も、水が滴る音もしない。そこでようやく、クロコダイルはぱちりと目を開けて、重たい身体を起こした。久々の穏やかな眠りを邪魔しておいて、見逃してやるほどクロコダイルは優しくはない。一発ぶん殴ってやる、と鉤爪を付けてドアを開いた瞬間、船内から甲板に向かう廊下を照らす紫色の朝日がクロコダイルの目を刺した。どうやらいつの間にか夜が明けていたらしいが、その光に照らされた廊下のどこを見ても人影はない。走っていく足音も聞こえなかったはずなのに、だ。部屋の中に入ったのかとドアを開けてみても、中には誰もいない。ベッドを使った形跡すらなく、リネンもきちっと整えられたままだ。

ただ、そこにいたものの存在を表すように廊下から部屋の前にかけては、まるで雨雲が通ったかのように水たまりが出来て床板を濡らしていた。

    ボス?何か?」

クロコダイルの喧騒に気付いてか、一番手前の部屋から顔を出したのは中途半端にシャツを羽織っていたダズ・ボーネスだった。おそらくは着替えの途中で、荒立たしい雰囲気を察して様子を伺いに来たのだろう。周囲に不穏な物陰はなく、クロコダイル本人も釈然としない表情を浮かべていることから緊急性のない案件だと察したらしい。「失礼」と断りを入れてからまずは簡潔に身なりを整え、そしてクロコダイルの元へと寄ってきた。足元の廊下が濡れているのはそこに足を踏み入れたことで理解したようだが、「ナマエですか?おかしいですね」と呟いて、甲板へと続く船室の入口を振り返る。

「…おかしい?」
「ええ、今あいつは、まだ見張り台の上にいるはずですが」

言われて思い出したが、確かにナマエは昨晩から今朝にかけて不寝番をしているはずだ。交代は朝の6時。ダズの様子を見るに、今からその交代に向かおうとしていたのだろう。

「ひどいスコールでしたから、一度着替えに来たのでしょうか」
「…スコール?」
「ええ、ボスも眠れなかったのでは?」

波は荒れていないのにひどい雨音だったと、無表情な顔で言うダズ・ボーネスという男は冗談というものを知らない。
クロコダイルは問いかけに対して何も答えず、甲板に出て見張り台の上を見上げた。藍と紅の混じった空の下、ナマエは真っ黒なビニールのようなものをかぶって、微動だにせず水平線を見ていた。

    ああ、お前ら起きたのか、おはよう」

まだ静かな夜の気配を残す空気の中で、見張り台の上からの声はよく響く。
朝飯にしよう、という声は、今日も無駄にハキハキとして明るかった。

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