SSリクエスト祭2 | ナノ


気配もなく、背後からぬるりと伸びてきたしなやかな腕にベックマンは声も出せないほど驚いた。咄嗟に身構えて払い落とそうとするより早く、「ベン・ベックマン」と耳元で囁かれて背筋が震えた。嘲笑うように、誘うように、無駄に艶めいた声色で呼ばれた名前は、ただの自分の名前だというのに睦言のように頭の中で反響して熱を煽るのだから困る。蛇に睨まれた蛙のように凍りついてしまった一瞬の隙を逃がすはずもなく、『彼』はベックマンの首筋、そして胸に手を這わして抱きすくめてしまった。

「なァ、あそぼうぜ」
「…っナマエさん、いちいちからかうのはやめてくれませんかね」
「からかう?馬鹿言うな、遊んでんだよ」
「なおさらタチがわる、ッう!」

どうにか拘束を解こうと身体を揺すると、抵抗したことが気に食わないのか足元を払われて、バランスを崩したところを突き飛ばされた。壁に背中を預けて座り込むように強制されたベックマンは、痛む尻を抑えながらも最早文句を言う気力も無くしていた。

このタチの悪い男、名前をナマエというが、世間では顔も名前も知られているなかなかの大悪党だ。紙面でしか見たことがないような男を初めて目の前にした時は悪戯に潰されでもするのかと冷や汗を掻いたものだが、実際はこの船の頭であるシャンクスと旧知の仲だというだけで訪ねてきたのだから、案外情の深い男なのかもしれない。   と、思ったのは一瞬のこと。彼の人と成りを改めて知った今では、単なる愉快犯、あるいは余程の暇人なのではないかという可能性も考えられる。なにせ彼は、前触れもなく気まぐれにふらりと現れては赤髪海賊団の面々を驚かせ、手合わせや飲み比べで一人一人潰していくか、宝探しをさせるかのようにシャンクスをどこかへ隠してしまうのが常だ。「若いもんをからかって楽しいかね」とヤソップがぶすくれた態度で抗議をしても、「じゃあ、もっと楽しいことで遊ぼうか?」と含みのある言い方でおちょくられるのがせいぜいである。シャンクスは笑うばかりで彼を止めようとはしないし、むしろ煽っているような様子さえ時折見受けられる。大半のクルーは、彼が青臭いルーキーをからかって遊んでいるのだと思っているだろう。しかし出来る限り遠いところから様子を伺っているベックマンは、おそらく彼がシャンクス以外に心を許していないことに薄々気付いていた。

まずもって、接触を許さない。すぐに話をはぐらかす。自分の情報を決して開示しない。そのくせ上辺ばかりは親しげにクルーと話しているのだから、ベックマンはいつまで経っても警戒を解けないのだ。まあ、警戒したところでこうやってすぐに捕まってしまうのだから、意味はないのかもしれないけれど。


「…お頭のところに行かにゃならんのですがね」
「知ってるよ」
「…行かせてはくれないようですね」
「まあ、ちょっと遊んでからでも遅くはないだろ?」

にんまりと笑う顔が、化け物くさくて背筋が凍る。この表情を前にして平然と笑ってられるシャンクスはただ単に鈍いのかと思っていたが、観察してきた今ならわかる。この顔でさえ、シャンクスに向けるものは特別だ。柔らかくて温かく、そして人間味がある。ベックマンたちに向けるような、どういたぶってやろうかと企む酷薄な冷たさはなく、わがままな子供を甘やかすように優しい。その、誰も気付かないような僅かな違いに気付いた時、ベックマンは恐ろしくなった。シャンクスさえ無事であるなら、きっと彼はこの赤髪海賊団のクルーを見捨てることも、あるいは手にかけて潰すことも躊躇いはないだろう。どれだけ楽しそうに過ごしていても、腹の中では何を考えているんだかわかりゃしない。
今だってそうだ。彼が冷静に観察を続けているベックマンを、面白く思っていないであろうことは知っている。副船長として船長であるシャンクスに用事があり一人で行動する時を狙って、ちょっかいをかけられることが多くなった。それはまるで、『余計なことをしたら殺す』とでも釘を刺されているかのようだ。
「考えすぎだろ」とシャンクスには相談しても笑われてしまったが、こうやってマウントを取られ、顎を掴まれて無理矢理視線を合わせられるとそんな楽観的なことは言えなくなる。食われてしまいそうな目だった。猫が遊びで狩りをするように、嬲って痛めつけて弄んで、そのまま平然と捨て置かれそうな残酷さが彼には確かに存在している。

「そう怖がるなよ、ベックマン」
「………」
「おれはこれでも、お前をそれなりに気にいってるんだぜ?」
「…それなりに、ですか」
「ああ、シャンクスが選んだ男なだけあるよ」

シャンクスが、と口に出した声はやけに甘ったるくて、わざとらしく強調されている。またしても背筋に悪寒が走ったが、逃げることも目をそらすことも許されそうになかった。「おとなしくて、いいこだね」。優しい声。甘やかすような声。幼子を手込めにする犯罪者のようだと思った。警戒も顕に眉をひそめるベックマンに、ナマエはポケットから何かを取り出し、唇をなぞる。べたつく感触で、その何かを塗られたのだと理解した。「何を」と問いかけると同時に、今の今までベックマンを逃がすまいとしていたナマエの拘束が緩み、飽きたようにすんなりと離れて「シャンクスは部屋にいるぞ」と言い残して去っていった。無防備に向けられた背中はもはやベックマンに興味を示さず、関わる気もないらしい。本当に、気まぐれな猫のような人だと一先ず安堵したベックマンは、先程何かを塗られた唇を乱暴に手の甲で拭った。日に焼けた肌にずるりと汚く移った赤は、どうやら口紅のようだ。何故口紅。何故こんなものを。ベックマンがさらに戸惑い、一度きちんと顔を洗ってこようと思ったとき、「ナマエさーん?どこ行った?」と呑気な声で廊下の向こう側から部屋のドアを開けて出てきたのはシャンクスだった。思わず振り向いてしまったベックマンの口元を、シャンクスも目を丸くして見ている。

「ああ、これは…」
「ナマエさんか?」
「ん、ああ…」

こんな惨事の犯人を、シャンクスはすぐさま言い当てて疑問にも思わなかったらしい。「おれ以外にやってんの、久々に見たなァ」と懐かしそうに言うということは、彼が仕掛ける悪戯の中によくあったのかもしれない。

「気に入られたってことだな、さっすがうちの副船長」
「…いいんだか悪いんだか…」
「ははは、そう言うなって」

巻いていた腰布を解いたシャンクスは、汚れるのも構わずにベックマンの口元を拭ってくれた。自分でやる、と言おうとしたベックマンは、しかしシャンクスの手つきがいささか乱暴なことに気付いて閉口する。がしがしと、まるで唇の皮でも剥けそうな勢いを、どうしてだとつつけばまた要らぬ心労を負わされそうで、賢いベックマンは気付かないふりをしたのだった。

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