コラソン長編 | ナノ


「なんか欲しいものはねェのか?車でも時計でも、なんだってくれてやる」。彼が従順に任務をこなしてきたとき、ドフラミンゴはいつもこう問いかけていた。しかし何度問いかけても、金にも物にもさして興味を示さない彼が欲しがるものはたったひとつだ。「それなら、おれが必要だと言ってくれ。それだけで幸せだ」。穏やかに微笑みながら何よりも『言葉』を褒美とした彼に、ドフラミンゴは「欲のねェ野郎だ」と満足そうに笑っていた。コラソンはそのやりとりを見ていつも胸に痛みを感じていたけれど、マフィアらしくない欲のなさが好きだった。

「デリヘルでも呼んでやろうか。種無しでもなきゃァ溜まってんだろう」。ある日ドフラミンゴが気まぐれが出した提案にも、もちろん彼は笑って首を振っていたけれど、「グラディウスがお前を真似して遠慮しやがる。可愛い弟分のためにもたまにゃァもらうもんはもらっておけよ」と強引に話を進めてしまった。「どんな女が好みだ?」。そういう話なら、なにも女じゃなくてもいいだろう。金でも酒でも、もらって困らないものをやればいい。そう思ってもコラソンには何も言えない。自分には関係のない話だし、なにより言える口がないからだ。「まあ、そうだな。こんな脚だからな。消極的な子だと困る」。弟分のためを思ってか、珍しく話に乗った彼にコラソンの胸がじくじくと痛んだ。普段の比ではないくらいの痛み。「任せとけよ、最高級のビッチを呼んでやる」。他でやってくれないか、と思った。なにもわざわざ他の人間がいる前で、コラソンのいる前でするような話ではないはずだ。「そういやお前、ガキが好きなんだったな」。「はは、違うから。それはそういうそれとは違うからな?」。「なんだつまらねェ」。彼の純粋な優しさを邪推して汚すような言葉に、彼はもっと怒ってもいいはずだ。彼が怒らないから、聞いているだけのコラソンの方がいらいらしてしまう。「じゃあ何が好みだ?乳のでかい女か、それとも尻か?ああ、男っつう選択肢もアリだが」。ぴく、と肩が動いてしまったのは無意識だった。「特にこだわりはないな。任せるよ」。「男でも?」。「男でも、ニューハーフでも、おれが突っ込む方ならなんでも」。「へェ、そうかい。男でもイけんのか」。にんまり笑ったドフラミンゴは、そういえば、どうしてあの時コラソンをじっと見ていたのだろうか。



「…コラソン?どうした?」

風呂上がりにヘルツの部屋のドアをノックして入ると、彼はいくつかのモニターを乗せた大きなデスクの前に座っていた。椅子の背もたれを軋ませて、入ってきたくせに何も言わないコラソンに首を傾げている。

「何か用事か?」
「ん、いや…」

問いかけられてももごもごと言葉を濁らせて、はっきりしない態度にヘルツは何を思っただろうか。ローも既に寝静まった深夜1時、普段なら同じくコラソンも眠っているような時間帯でも、彼はまだ仕事中だ。大型のレシーバーから聞こえてくるのは警察の無線でのやりとりや、マフィアらしき誰かの会話。警察やドフラミンゴファミリーの現状を知れる情報を傍受して、どう動くべきなのかを、コラソンとローが助かった今でもヘルツは把握して守ろうとしてくれている。前に少しだけ覗いたことがあるモニターも、まだヘルツがファミリーに居たときにやっていたこととさして変わりはない。金と人と情報を転がして、『家族』を守るのが彼の仕事だった。

レシーバーとモニターの電源を切って、「どうした?」とヘルツは改めて問いかける。それでもはっきりと言葉に出来ないコラソンに、「とりあえず座るか?」と促した先はベッドだった。
わかっている。他意はない。ただ単にこの部屋には、ヘルツが今座っている椅子以外に腰を下ろせる場所はベッドしかないだけだ。わかっている。決してヘルツに他意がないことは。

「…す、すわる…」
「ああ、どうぞ」
「ん…」
「なんだ、そんなかしこまって」
「いや…」
「言いにくいならゆっくりで構わないが…風呂に入ってたのか?髪がまだ濡れてるぞ」
「わっ!」

首にかけていたタオルで、丁寧に髪の毛を拭かれる。唐突な接触に大きな声を上げて驚いてしまったが、とうのヘルツは「なにビビってるんだ」と不思議そうに首を傾げるだけだ。濡れた髪の毛を乾かされるのは、ファミリーに居たときから度々されていたのでヘルツにとっては特別なことでもないのだろう。けれど妙に意識してしまっている今はダメだ。落ち着かなくて、恥ずかしくなってしまう。
顔が熱くなってばくばくと心臓が波打つのを耐えているうちにタオルは取り払われて、少し乱れた髪を撫でるように整えられた。まだまともに話せそうにはないが、ヘルツが先に「ああ、そうだ」と何かを思い出して椅子を引いた。

「丁度良かった。おれも渡したいものがあったんだ」
「え?」

デスクの引き出しの中から取り出したのは一枚の封筒。航空会社のロゴがプリントされたそれを手渡されて、促されるまま開いた中身から出てきたのは飛行機の搭乗券が2枚、そして一枚の地図だった。

「ここはまだファミリーのアジトに近い。下手に外へ出ると鉢合わせる可能性がないとも言い切れないからな」

コラソンは、今住んでいるここがどこの位置に存在しているのか知らない。瀕死の状態で運び込まれて、怪我が完治するまではと軟禁のような状態で暮らしているからだ。天気のいい日には外に出たくなる時もあったけれど、「大人しくしているように」と釘を刺すヘルツが心配してくれているのはわかっていたから、不満を抱いたことは一度もなかった。
けれど、アジトが近いというのは初めて知らされることだ。コラソンとローを安心させるために黙っていたのかもしれないが、確かに少し考えればわかることでもある。重傷の大人と子供を連れて、まして片足の不自由な人間がすぐにそう遠くへは移動出来るはずもないのだ。何の懸念もなく自由に暮らしていくには、確かに移住が必要なのかもしれない。それは分かる。理解出来る。しかしコラソンが言葉を失い、手元に視線を落としたまま動けなくなったのは、渡されたチケットが2枚しかないことで嫌な予感が頭をよぎったからだ。そしてその予感を現実とするように、ヘルツは淡々と『今後』の話を展開していく。まるでコラソンを突き放すかのように。

「出発は来週の木曜日、朝の5時だ。その地図に書いてある家に必要なものは全て用意してあるから、手ぶらで行っても構わない。田舎で不便な思いもするだろうが、ここよりはずっと安全だ。何も気にせず暮らしていくといい。もしも何か危険が迫るようならすぐに連絡をする。…言われるまでもないかもしれないが、ローと二人、仲良くな」

彼の示した計画は、コラソンとロー、二人だけのものだ。「ヘルツは?」。どうしてそこに彼がいないのかと震える声で問いかけるコラソンに、ヘルツはそれを別の意味で捉えたらしい。体重を掛けた背もたれのスプリングで遊ぶようにぎしぎしと音を立てながら、「どうするかなァ」とやけに呑気な声で相槌を打った。

「助けることばかりを考えてて、その先のことは何も考えてなかった」
「なんで、」
「そう言うな、視野が狭いのは自覚してる。まあ時間は腐るほどあるんだ、自分のことは後でゆっくり考えるさ」
「…ちがう、なんで、なんであんたは一緒じゃないんだ」

縋るような声で責めるコラソンに、ヘルツは今その選択肢に気付いたような顔で目を丸くした。その反応はおかしいだろう。一ヶ月以上を一緒に暮らしていて、今更離れる方が不自然じゃないか。恋人や家族がいるならばそちらを優先するのもわかるけれど、彼は『家族』をコラソンによって捨てざるをえない状況にされ、仮にもコラソンを『好き』だと言った。そして、どう受け止められたかはわからないがコラソンも同じように『好き』だと返したのに、どうしてこのまま一緒にいられないのかが分からない。ましてヘルツはこの先のことも一切決まっていない状態だというのなら、ここに残る理由もないはずだ。ファミリーに見つかって困るのは、死んだことになっている彼とて同じはずなのだから。

「…おれが一緒にいると、気を遣うだろう。今だって、何か言いたいことがあったんだろうに、そんな言いにくそうにして」
「ちがう、おれは、そんなつもりじゃなかった」
「別に、おれのことなんて気にしなくていいんだ。おれはお前達が元気に生きていてくれたら、それだけで嬉しい」
「そうじゃない、ちがう、おれがあんたと一緒にいたいんだ。好きだって言ったじゃないか、あんただって言ったのに、なんで急にそんな、突き放すような真似をするんだ!」

封筒を握り締め、勢いよく立ち上がったコラソンにヘルツは目を丸くしている。どうしてそんなに驚くのかが分からない。おかしなことは言っていないはずだ。好きだから一緒にいたいというのは、当たり前の感情だろう。ヘルツだってコラソンを好きだというのなら、同じように思わないのだろうか。それとも、あれはやはり何か別の本心を隠すために吐いた嘘だとでもいうのか。

「おれはっ!料理も下手だし洗濯物も上手く畳めないけど!あんたがしてほしいことなら何でも頑張るし!今度はおれがあんたを守るから、…っなあ、一緒に、いちゃ、ダメなのか…!」
「…お前にはローがいるだろう」
「ローもあんたも両方いなくちゃ嫌だ!」

まるで頑是無い子供だ。欲しがって喚いて駄々をこねて、困らせているのは分かっている。けれどヘルツは勘違いしている。確かに多少なりとも気を遣ってはいたし、ヘルツのことで頭を悩ませることは多かったけれど、それは決して嫌なことではなかった。どうしたら彼を喜ばせられるのかと、そんなことばかりを考えていた気がする。彼がコラソンを邪魔だと言うのではなく、コラソンが彼を邪魔だと思っていると思われているのならば、それはひどい勘違いだ。恩返しをしたい。笑っていてほしい。幸せになってほしい。出来れば自分の目の前でそうなってくれたならいいと、この一ヶ月以上、ずっとそう思っていた。

「…泣くなよ」
「泣いてねェ…!」

悔しくて悲しくてぼろぼろ溢れる涙に、ヘルツが手を伸ばして指先で拭う。その優しい仕草が好きで、もっと触れたくなって掌に頬を擦り寄せた。「すまない」。戸惑ったように漏らされた謝罪に、コラソンは首を振る。謝って欲しいわけじゃない。ヘルツはなにも悪いことなんかしていない。ただ、上手く気持ちが通じ合わないことが辛かった。

「おれは何も、望んじゃいなかったんだ。言葉にすることも諦めてた。ただおれは、誰にも欠けてほしくなかっただけなんだよ」

とつとつと、小さな声で紡ぐ言葉はヘルツの本心なのだろう。コラソンは何も言わずに頷くだけで続きを促した。

「ファミリーのみんなにも、お前にも、ローにも、死んでほしくなかった。優柔不断だって言われても仕方ない。けど、お前の裏切りを知ったときから、全てが丸く収まることはできないとわかっていたんだ。話し合う度胸すら、おれにはなかった。若もお前も、どちらも譲らないと知っていたから」

ヘルツの言うとおりだ。コラソンは自分の信念を曲げるつもりはなかったし、ドフラミンゴとてそうだろう。全てを理解していた彼にとっては、確かに言葉を交わす意味などなかったのかもしれない。それでも今、ヘルツはこうやって伝えようとしてくれている。触れている手を握り締め、じっと待った。

「その上で、おれはお前を選んだ。後悔なんかしていない。これがおれの幸せなんだと言える。おれはお前が好きなんだ。裏切られていたと分かっていても、それでも良かった。好きなだけで、好きな人が幸せになってくれるなら、それだけで幸せだったんだ。そこにおれがいなくても」
「…おれは、そんなのはいやだ。あんたも一緒にいてほしい」
「ああ、…ああ、うん、ああ…」

立ったままのコラソンを見上げるヘルツの目から、ぼろりと涙が溢れた。一粒だけの、人魚の鱗のように美しい涙だ。「泣くなよ」と今度はコラソンがヘルツの頬を指先で拭う。冷たい肌だ。温めてやりたい。温めてやれるはずだ。もう自分を偽る必要なんかないのだから。

「コラソン…ああ、そうだな。お前さえ良ければ、じゃあ、これからもずっと、一緒にいてほしい…おれも、そうだ、好きなんだ。お前が」
「ああ…おれも、好きだ」
「うん」

子供のように素直に頷いたヘルツが、たどたどしい手つきでコラソンの腕を引いた。上手く対応出来ずに自分の足で自分の足を引っ掛けたコラソンは思い切りヘルツの腕の中に突っ込んで、二人勢いよくヘルツの座っていた椅子ごとひっくり返ったけれど、ヘルツはそれにも構わず床に転がったままコラソンを抱きしめる。

「だ、だいじょうぶか」
「…はは、大丈夫。お前のドジに巻き込まれるのも久々だ」
「あんたがいきなり引っ張ったからだろっ」
「そうだな、悪かった」
「う、いや」
「大丈夫、今度は絶対に失敗しないから」

もう少しこのまま、と囁くヘルツは先程までの拙い言葉使いも無くなっていつもどおりの冷静だ。コラソンは早々に『次』もあることを示唆されてまた顔が熱くなっているというのに、不公平に感じてしまう。いっそこのまま襲いかかって、慌てる顔のひとつでも拝んでやろうかと出来もしないことを画策したところで、部屋のドアが勢いよく開いた。

「おいヘルツ!なにがあっ、…何してんだよコラさん」
「ロー!あっいやこれはだな」
「なんだ、起こしたか。悪いな」
「こんな深夜に騒いでんじゃねェよ」

不服そうに顔を歪めて文句を言うローは、しかしおそらく大きな音に驚いて様子を見に来てくれたのだろう。彼もちゃんとヘルツを心配している。今更敵だとは思っていないだろう。またお得意のドジかとばかりに向けられるジト目にコラソンは慌てて身体を起こしたが、ヘルツは床に転がったままでローの名前を呼んだ。

「ロー、なあ、新しい家を用意したんだが、おれもお前らについて行っていいか」
「はあ?おれ達がお前についていくんじゃねェのかよ」

あんたの家だろ、と事も無げに返したローに、それみたことかとコラソンはにんまりヘルツに笑いかける。この家に住んでいるのは、二人と一人の他人ではない。三人の家族だ。わかっていなかったのは、きっとヘルツだけだろう。
「そうか、そうだな」とトボけたように応えたヘルツは、もう一度だけ鱗のような涙を零して、「愛してるよ」と囁いた。心の底から振り絞るような、美しい愛の言葉だった。


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