SSリクエスト祭 | ナノ


今はもう過去のものとなってしまったロジャー海賊団には、猫と称される男がいた。悪魔の実の能力で猫に化けられるわけでも、猫を操って攻撃手段としているわけでもない、遺伝子的にはなんの特異性もない、普通の人間の種族の男だ。けれどそう、その姿そのものが猫なのだと、今より随分と昔にその男と邂逅を果たしたマルコは思った。
にんまりと、口が裂けんばかりに笑う口元が、童話の中に出てくる化け猫にそっくりなだけではない。敵も味方もひしめきあう戦場で人の間を縫ってするすると自由に進むしなやかな身体や、マストの上や見張り台へ軽々と跳び上がってしまう脚力。捕まえようとしても捕まらないのに、爪で引っ掻くように首や腹を切り裂いていく鋭い刃物。そして気まぐれに振る舞う言動がまるで猫のようではないかと言い出したのは誰だったか。言い得て妙だとマルコは何度も納得した。対峙する度に、化け猫野郎と罵った。彼はにやにや笑っていたけれど。

男の名前はナマエという。年の頃はマルコより少し上くらいだろうか。ひどく性根の歪んだ男だった。人をなめた態度で弄び、いたぶり、そうしてそれを娯楽とするような、残虐な男だ。にやにやと笑うその口元を、マルコはよく覚えている。おそらくは白ひげ海賊団の中で一番、鮮明に覚えている。

その昔、マルコがまだ若造だった頃の話だ。血気盛んで勢いだけが武器のような青い時代に、マルコはナマエと出会ってしまった。
「ひよこちゃん」。ナマエはマルコをそう呼んだ。不死鳥の姿を見て、にんまりと笑い、嘲るようにそう呼んでからずっと続いた不名誉な渾名だ。もちろんマルコがその侮辱を許せるはずもなく、白ひげ海賊団とロジャー海賊団が遭遇する度に歯向かっては、けれど当時の実力差のせいで何度も返り討ちに遭っていた。ただ刃物で切りつけられるだけならばまだ優しい。羽をもがれ、足を折られ、首を絞めては幾度も幾度も嬲られた。「いくらでも回復するってェのは、いいサンドバッグだなァ」と笑う口元を、マルコは今でも時折夢に見る。恐ろしい男だった。容赦も情けもないような男だった。そして何より、娼婦のような色気を持つ男だった。立ち姿も、振る舞いも、性別を問わず欲情を煽るような仕草がますます気に食わなかった。馬鹿にしているくせに恋人に甘えるように「ひよこちゃん」とマルコを呼ぶ声だとか、暴力を振るうくせにマルコが動けなくなると愛撫するように肌を撫でる優しい手つきだとか。一挙手一投足がいちいち艶やかに感じるのが自分だけではないと気付いたのは、一方的にいたぶられるマルコを助けにきた仲間が不自然に顔を赤くしたり、妙にぎらぎらした目でナマエを睨んでいたからだ。極めつけは、船長であるニューゲートですら、振り下ろした薙刀をするりと避けたナマエに「あんた、すごくおっきいね、ぞくぞくする」と囁かれていた時だ。一瞬ぎしりと動きを止めたのは、おそらく、そういうことだったんだろう。吐息を漏らすような声はナマエの手に首根っこを掴まれていたマルコにも聞こえていて、正直、とても、エロかった。夜の行為を想像してしまうくらいに。それがまた、マルコにとってはとても腹が立つのだけれど。
何度立ち向かっても殺されなかったのは、認めたくはないが気に入られていたのだと思う。海の中に沈められても仲間に助けられるのをただ笑って眺めていたし、痛めつけられて動けなくなったマルコをゴミのようにニューゲートに投げつけたのも手当てをさせるためだったのだと思う。それも馬鹿にされているようでとても悔しくて腹が立っていつか必ず殺してやると腹を決めていたのだが、それを成す前にロジャー海賊団は解散し、船長が処刑されて以来あの男の行方もわからなくなってしまった。海軍に捕まったという噂も聞かないまま二十年は経ち、今ではとうに過去の人である。死んだのかもしれないし、どこかで身を隠しているのかもしれない。けれどそのどちらも、彼には似合わないような気がした。殺しても死なないような化け猫じみた男が、こそこそと惨めに生きている姿が想像出来ない。だからきっと、そのうちまた人を馬鹿にしたような顔で目の前に現れるに違いない。

と、思っていたら。

「なん、っで!ここにいるんだよ!!このヘンタイ!」
「…おいおいエース、ここはお前の国じゃあねェんだ。おれがいたってなんの問題もねェだろう?」
「どうせまた追っかけてきたんだろ!返せよおれのビブルカード!」
「まァそう怒るな。偶然だよ、グーゼン」
「うそつけェ!」

案の定、というか、拍子抜けするくらい、普通に、出てきた。上陸した島の酒場に入ってみればどこか見覚えのある後ろ姿があって、マルコが『まさか』と思いその顔を確かめる前に隣にいたエースが確信をもって罵声を浴びせたのだ。
振り向いた顔は、最後に見た記憶よりも老いてはいるが、それはマルコとて同じだろう。二十年が経った。あの頃と同じではいられないのが人間だ。そうだ、彼とて人間だったのだ。化け猫のように、にやにやと笑うその口元だけは、依然として変わりないけれど。

「いいから、落ち着いて座れよ…おれは酒を飲みに来ただけなんだ」
「なんかすんだろ!」
「なんもしねェよ」

ほら、と自然な手つきでしなやかな腕がエースの腰にまわり、引き寄せるように隣の席へと座らせた。「なに飲む?メシは?腹減ってんだろ?」。囁く声がくすぐったいくらい優しい。そして距離がとても近い。あれだけ敵対心を剥き出しにしていたエースも、隣に座らせられてからは顔を真っ赤にしてちりちりと火の粉を散らすだけで、借りてきた猫のように大人しくなってしまった。どういう関係なのかはよくわからないが、これは一体、どういうことだ。二十年の間に丸くなったとでもいうのか。徐々に集まってきた白ひげの家族達も、あれが本当にあの男なのかと決め兼ね、古株のものはマルコに判断を仰ぐように視線を向けてくるが、マルコとてわからない。マルコが知っているのは、残忍で残虐で残酷な、性根の歪んでいるナマエという男だけだ。

「…なァにそんな目で見てんだよ。また虐められてェのか?ひよこちゃん」

そう、こういう風に悪意しかない笑顔こそ、マルコが知っているナマエという男だ。

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