エース長編 | ナノ


視界の端でエースが拳を握ったのを捉えて、サッチはギョッと目を丸くした。あれくらいなら避けるだろうと思ったカイロがあっさり殴られているのを見て、更に驚いた。

    言いてェことがあんならはっきり言え!」

まるで咆哮のようなエースの怒鳴り声に、あんなにも慌ただしかったコックたちの動きは止まり、厨房と厨房に繋がる食堂はしんと静まり返る。カイロは何も言わない。それに更なる怒りを覚えた様子のエースがカイロの胸倉を掴んだところで、何人かのコックが厨房から飛び出していった。取り押さえられたエースはぎゃんぎゃん吠えているが、当のカイロは喚くエースも、呆気に取られているコックたちのことも素知らぬ顔をして鍋を抱えたまま立ち上がる。真っすぐに向かったサッチの元に鍋を返して、それからサッチにしか聞こえないくらいの小さな声で、言った。

「マルコに叱られてくる」
「…それはいいけどさ、後でサッチさんにも何があったのか教えなさいね」
「呆れられたくないから、いやだ」

なんとも幼い言い方をする。サッチが苦笑を漏らすと、カイロはいたたまれないとでもいうような顔で一言だけ謝った。その謝罪はきっと、忙しい時間に邪魔をしたことに対しての謝罪だ。どうせならば、信じてくれていないことを謝ってほしかった。

カイロという男はひどく歪んでいて自虐的で、ゆえにこの大家族の中でもエドワードとマルコの二人しか信用していない節がある。くだらないことでひがみねたみは当たり前のようにされても、同時に大好きだ大切だという気持ちが溢れんばかりに家族を愛していることもサッチは知っていたので、信用されていないことはとても悲しい。呆れようが怒ろうが、嫌ったりしないことをカイロはあと何年経ったら気付くのだろうか。

「なあカイロ」
「なんだ」
「おれのこと、好き?」
「好きだ。当たり前だろ」
「じゃ、エースのことは?」

テーブルの天板が割られる音。エースとコックたちの怒声。それらがけたたましく響いてカイロの答えは掻き消されてしまったが、近くにいたサッチだけには確かに「すきだよ」と動く唇が見えていた。


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