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「うつすなよ」
「うづずが、ボゲ」

ひゅうひゅうと空気が漏れたような呼吸音で悪態をつかれても、普段と比べれば随分と弱々しい。耳障りな濁声にクロコダイルが眉をひそめたのを見て、真っ白いマスクを二重につけて口を覆ったなまえは虚ろな目で「用があれば呼べ」とだけ言って部屋を出て行った。悪態をついておきながら、クロコダイルの傍にいてはいけないと思っているのだろう。その判断は確かに正しい。少なくとも今日一日、なまえは風邪菌の温床である。

クロコダイルが割と本気でどついてもケロリとしているくらい頑丈で回復も早いなまえの体だが、数年に一度は風邪を引く。高熱と頑固な咳を伴う、常人ならば肺炎を引き起こして死に至るようなひどい風邪だ。
滅多に病気になどかからないクロコダイルからすれば「軟弱な野郎め」としか思わないし実際になまえが風邪をひく度に罵っているのだが、死んでもおかしくない程度の風邪をひいても一日二日で完治するなまえも常識的に考えれば十分化け物じみた体力のはずだ。
そもそも、滅多に体調を崩さないという方がおかしい。
不可思議な体質のせいで水難を呼び寄せ、日常的に身体を冷やし、体温を下げては体力を消費している。その上、生活の全てはクロコダイルに合わせているのだから掃除洗濯といったハウスキーピングはもちろん、ちょっとした遣いまで任されるなまえの仕事量は多かった。住み込みで働いているだけに、休みなんてあってないようなものだ。クロコダイルが邸を不在にする日だって、バナナワニの世話や買い出し、執務室の整理など、やるべきことはたくさんある。それだけならばまだしも、頻繁に勃発するクロコダイルとの喧嘩のせいでぼろぼろになるまで殴られることもあるのだから体への負担は常人の比ではない。ロビンは彼の働きぶりを見るたびに「よくやるわね」と呆れと感嘆が混じったような声をかけるが、なまえ自身は自分の仕事に疑問を抱いたことはないらしく、「そうか?普通だろ」と首を傾げるだけだ。
風邪をひいた時でさえ、なまえは休むということを知らない。クロコダイルの下で働いて一番最初に風邪をひいてしまった時、軟弱な野郎だと罵られたのが頭にきたのか「仕事はサボらねェ、休みもいらねェ。ただしお前にゃ近付かねェ。これでいいだろなんか文句あんのか」と勢いよく啖呵を切ったのを律儀に今も守っているようだ。
風邪をひいた時のなまえはまるで透明人間のように仕事をこなしていく。朝に「風邪をひいたから今日は近付かねェ」と報告したきり、食事の用意も片付けもクロコダイルがダイニングにいない時に済んでいて、掃除や洗濯もいつの間にか終わっている。もちろんバナナワニの世話と買い物もだ。呼びつければすぐに姿を現すものの、それ以外はとんと気配を消して邸にはクロコダイル一人しかいないかのように静かになる。一度皮肉で「普段からそうしときゃァ目障りじゃねェものを」と吐き捨てたことがあったが、なまえは怒るでもなく「お前、おれの姿見えないと不安だろ」とさも当然のことのようにあっさりと返すので、確かに自分の敷地内でこそこそと何かやられていないか疑ってしまうという意味ではその方が目障りだと納得してしまった。お前ごときを相手に誰が不安になんかなるかと、しっかりと喧嘩は買ったけれど。

なまえが気配を消した邸は静かだ。
広い敷地の中を日常的に出入りする人物は幾人かいるけれど、なまえが使い物にならなくなった時にはいつも封鎖している。勝手にそうしたのはなまえだが、クロコダイルに異論はないのだから好きなようにさせていた。
時計の針の音。書類と指が擦れる音。窓を打つ風には砂が混じっていて、かちかちと硝子を鳴らす音、それら全てが耳障りだ。なまえの声を聞かず、足音を聞かず、水が滴り落ちる音を聞かない一日は穏やかなだけにゆっくりと時間が過ぎていって、クロコダイルを苛立たせる。自分以外の要因で日常が変化するというのが我慢ならないせいだ。
日が落ちて夜も更けてくると静寂は尚更顕著だ。耳にきんと響くような沈黙が苛立ちを助長させて、クロコダイルは我慢ならずになまえの自室へと向かう。夜の10時を過ぎれば、基本的になまえの仕事は終わりだ。クロコダイルが呼びつけなければベッドの中で休息をとっても構わないようになっている。

クロコダイルが身体を砂に変化させてドアの隙間から部屋の中に侵入すると、なまえは予想通りベッドの中で休息をとっていた。分厚い毛布にくるまるようにして、荒い呼吸を吐きながら、苦悶の表情を浮かべて眠っている。なまえの部屋にある古ぼけたスツールに腰掛けるとぎしりと音が鳴ったが、眉を寄せる程度の反応を示したくらいで動き出す気配はない。随分と無防備な姿だ。回復させるために必要な休息を貪るために、眠りが深くなっているのだろう。水をかぶったように汗で濡れている額をクロコダイルの右手が這って乾きを与えても、まるで気付く様子もなかった。

「…おい、クズ」

なんの用事もない、ただ呼びかけたいだけの罵倒に、ようやくなまえがうっすらと瞼を開ける。虚ろな瞳は潤んでいて、なんだよ、といういつもどおり不遜な返事は小さく掠れて潰れた声だ。
いつの間にか自室に侵入してきているクロコダイルを見ても、なまえはもぞもぞとベッドの中で体勢を正してクロコダイルに向きなおすだけで、それ以上はなにも言わなかった。ただ黙ってその左手の鈎爪を、軽く宥めるように二度撫でるだけだ。

「…クズ」

改めて罵倒したクロコダイルに、なまえはいつものように怒るわけでもなく言い返すわけでもなく、息を吐くように笑っただけだった。「あしたは、だいじょうぶ」。がらがら声の癖に、安心しろと言わんばかりの穏やかな口調が気に食わなかった。
心配しているわけではない。ただ見える場所にいないことが目障りで、異常なほどの静けさが耳障りなだけだ。

「…さっさと治せ、クズ」

吐き捨てるようなクロコダイルの『命令』に、生意気で忠実な使用人は「あいよ」と言って笑ったのだった。

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