500000 | ナノ


善人だと名乗るつもりはないが、悪人になったつもりもない。人に迷惑をかけたとしても、罰せられるほどの罪を背負うことはない。
そう思って生きてきたなまえに、罪人のレッテルが貼られたのは他でもないクロコダイルのせいだ。

アラバスタで紛争が起きて、余所者の自分はぼんやりとそれを見守っていて、気付いたらクロコダイルが捕まっていて、お前も加担していたんだろうと手錠を嵌められて、「お前なにしてんの」「うるせェ」「馬鹿だな」「うるせェ」「ダッセェな」「うるせェ」という会話ののち、船にどんぶらこっこと揺られてたまに海に放り出されて引き揚げられてまた放り出されてを繰り返しながらインペルダウンにやってきた。逃げられる瞬間はいくつかあったのだけれど、クロコダイルが脱走を拒否したので、なまえもなんとなくついていくことにした。何故ここで見捨てなかったかといえば、クロコダイルが悪人であることなどとっくの昔に解っていたからだ。見捨てるならとっくの昔に見捨てている。
それに、冤罪と認められれば釈放もあるだろうが、ここで逃げれば確実に罪人だ。有実の罪で追われるくらいならば、無実の罪で捕まった方がいいと考えるなまえは、善人ではないがそれなりに誠実な男だった。

さて、ついてきたはいいが、どんな悪行を働いたのかよくわからないままのなまえと、国家転覆の首謀者であるクロコダイルが収容される場所を同じくする訳ではなし、共謀者を会わせてやるほど優しい監獄とも思えない。ましてや出られるかもわからない状況に自ら飛び込んでしまったのは早計だったのではないかと悔やんでいたところ、苛酷にも程がある獄中生活に一筋の光明がさした。インペルダウン全てのフロアを巻き込んだ大脱走劇だ。
どさくさに紛れて枷を外したなまえは、すぐに同じ建物内へ収容されているはずのクロコダイルを探した。なまえの元雇用主で、冤罪を被る原因を作った男。ひたすら外界を目指して駆け上がる囚人とは反対に、クロコダイルを探して逆走していたなまえは喧噪の中でも目立ったのだろう。再会は予想よりも早かった。
「なに降りてきてんだてめェ」「うるせェ」「馬鹿か」「うるせェ」「…死にたくなきゃついてこい」「はいはい、仰せのままに」という会話ののち、しかしなまえはクロコダイルの傍にはいなかった。遭遇は他にもあったのだ。
海侠のジンベエ。魚人である。特になまえと縁もゆかりもない男ではあったが、陸上では思うように力が出せないという彼の傍にいればこの身に降りかかる水難が役に立つと思った。
案の定、破裂した水道管と遭遇し、水責め用の巨大な甕が落ちてきて、倒した獄卒に苦し紛れで何か投げられたと思ったら飲料水のボトルだ。望んでも望まなくてもびっちゃびちゃに濡れるまで水を集めるなまえに、水一滴でも凶器に変えるジンベエは喜んで受け入れてくれたし、もうひとつの邂逅も引き寄せた。

「お前すげェな!ミズミズの実の能力者か!?」
「ちっげーわ馬鹿ただ単にびしょ濡れになってるだけだわ」
「ヌレヌレの実か!」
「ちっげーわ馬鹿なんかエロいわ」

麦わらのルフィ。よくわからないままインペルダウンに放り込まれたなまえだとて、クロコダイルを倒した男の名前はわかる。どんな偉丈夫かと思えば、そこらへんのガキと大差ない普通の、いやむしろ馬鹿丸出しの子供だった。

「おいお前ちょっとこっち面貸せよ、目元まで煤だらけじゃねェか」
「うぷっ!うぶぶっ!…ぶわァ!ありがとう!スッキリした!」
「お前さんやはり何らかの悪魔の実の…」
「ちげーわただの不運だわ」

不運を利用して少し手助けをしてやっただけで、掌を滴る水で顔を洗い流してやっただけで、海侠のジンベエと件の子供はなまえを味方だと判別したらしい。麦わらが崩れ落ちる瓦礫を弾いてくれたり、海侠が後ろから飛び掛かってきた獄卒を薙ぎ倒してくれたおかげでなまえは思いのほか楽に脱獄が出来た。

軍艦に揺られてどんぶらこっこ、よくわからない間に戦争の最中へ潜り込むという展開に乗るしかない状況の中、なまえはやはりクロコダイルの傍ではなくジンベエの隣にいた。理由は普段の不運だ。海に出れば転覆する。沈没する。波にさらわれる。さすがに軍艦を落とすほどの悪運はないのか、幸いなことに大勢の囚人が乗った船に影響はなかったが、突然の大揺れに振り落とされて海に放り出されたり、船の縁にまで届く波しぶきによって塩水のシャワーを浴びたり、貯水タンクが破裂して中身が降りかかってきたり、なまえにとっては慣れ親しんだの日常ではあるが、事情を話したジンベエは不憫に思ったらしく、せめて先程の礼にと船から放り出される度に手を貸してくれた。

「ありがとう。おれ結婚するなら魚人にした方がいいな」
「………それは…わしらにとってもありがたい言葉じゃな」
「うん?」
「いや、なんでもない。お前さんも数奇な星の下に生まれておるな」
「ほんとにな。もう慣れたよ」

乾いた笑いを溢した瞬間。貫くような鋭い殺気がなまえの背中を突き刺した。犯人はわかっている。誰かに恨まれるような悪行を働いたこともないなまえが、先の大乱闘で誰かを犠牲にして助かったわけでもないなまえが、殺したいと思うほどの強い感情を持たれる縁などこの船にはひとつしかない。

    なに睨んでんだよ、クロコダイル」

なまえの元雇用主で、なまえに冤罪を被せた人間。クロコダイルその人である。

「…うるせェな」
「お前が呼んだんだろ」
「呼んでねェよ」
「目で呼んだ」
「…呼んでねェよ」

つん、と澄ました態度で顔を背けたクロコダイルは、多分、おそらく、拗ねているだけだ。何年傍にいると思っている。歪んでいるクロコダイルの言動を歪んだ目で見れば正しい真意を見抜けるようになると気付くまで、なまえは彼の傍にいた。

やつれた頬、汚れた体、艶のない皮膚の色。それ以外は変わらない威厳と服装だけが救いだったが、いつか喧嘩をしてアラバスタのあの邸を離れた数日間を思い出すのには充分だ。自分が傍にいれば二度とこんな顔をさせないと思っていたのに、その誓いは果たされないまままた離ればなれになった。
原因はクロコダイルだ。クロコダイルが全ての元凶で、なまえの獄中送りもクロコダイルのせいである。恨む道理はあったとしても、申し訳ないと思う要素はない。けれどなまえの仕事は、クロコダイルの世話だ。極悪人の彼が健やかに過ごせるよう、衣服の用意をし、食事の手配をして、住まいを清潔にするのが勤めだ。報酬はたっぷりともらっていた。彼が善人でないこともわかっていた。だからなまえは、彼が極悪人であるとしても世話をする義務があるのだ。例え世間一般の常識から外れていたとしても、なまえの中では当然の義務である。

「きったねー面して…ほらこっち向け」
「触んじゃねェ」
「顔の煤とか埃を拭ってから言えよ」
「汚ねェ手で、触んなっつってんだ」
「おかげさまで獄中生活でも散々水浴びしてたんだ。お前よりは清潔だよ」
「そうじゃねェよ、………さっき…」
「あ?」
「…なんでもねェよ。ガキくせェ手で触んなっつってんだ」

その言い種でピンときた。なまえはクロコダイルに数えきれないほどの罵倒を受けていたが、「ガキくせェ」という理由で触れるのを拒絶されたことはない。ならばガキくさいというのはこの場合他の人物、この船の中ならば候補も限られる。加えて先程、なまえはこの手で別の人物の顔面を拭ってやった。麦わらのルフィ。彼は確かにガキで、そしてクロコダイルが彼に良い感情を持っていないのは当然のこと。

「…じゃ、手拭いな。探してくるから少し待ってろ」
「いらねェ」
「お前汚ェの嫌いだろ」
「…うるせェな」
「なに駄々こねてんだ。ったく、相変わらず手のかかる…」
「…なら、さっさとどこにでも行きゃあいい。あの魚人にメスの魚でも紹介してもらって、海底一周の新婚旅行ってのはどうだ?お前にぴったりだろう」
「…なに機嫌悪くしてんだお前」
「うるせェな」

どうやら、拗ねているだけではないらしい。語尾を荒げないまでも不機嫌に声を低くするクロコダイルは、確認するまでもなく怒っていた。きっと手元に水があれば、容赦なくなまえの額に叩きつけていただろう。
なるべく優しい声で「どうした」と聞いても知らんぷり。「何が不満だ」と苛つきながら問い掛けても「黙れ」。「何が言いたいんだよ」とドスのきいた声で迫れば、ようやくクロコダイルはなまえを見て、その凶悪な顔で睨み付けた。辺りの小悪党どもは、怒れるクロコダイルと、その悪名高いクロコダイルに喧嘩を売っている無名の男を見てざわめいている。その騒音が耳障りなのか、なまえから目を逸らして舌打ちをしたクロコダイルになまえは苛ついた。顎を掴んで、こちらを向かせる。間違えないでほしい。なまえはクロコダイルの使用人だが、容易にクロコダイルに喧嘩を売る。他の奴らに喧嘩を売るくらいなら、こっちの喧嘩を買うべきだ。

「おれが!お前に聞いてんだろうが!」
「…っうるっせェな!耳元で喚くな!!」
「お前が答えねェから!聞こえねェのかと思ってでかくしてやってんだろ!!」
「おれが言いてェんじゃねェだろう!」
「はァ!?」
「お前がおれに!言いてェんだろうが!!」
「…はァ!?」

なにこいつ意味わからん、となまえが戸惑って顎を掴んでいた手を離すと同時、クロコダイルはなまえを鉤爪で殴り付けた。血は出たが、回復力の早いなまえにはなんの影響もない。平然とした顔でクロコダイルの言葉の真意を探ろうとしていたら、いよいよ周囲がざわめいた。それはそうだろう。七武海に就任するほどの実力を持つクロコダイルが、怒鳴っても殴っても怯まない男。ましてやそれが無名ならば「あいつは誰だ」と騒がれてもおかしくはない。なまえから言わせればこれは日常だし、クロコダイルとて本気ではないのだから大したことでもないのだが、今は騒ぎ立てるオーディエンスが煩わしい。舌打ちをひとつしてクロコダイルの腕を引き、船内に連れていく。空き部屋をひとつ拝借してそこに入ると、不機嫌を顔面いっぱいに表したクロコダイルは、しかしそれでも大人しかった。なまえが触れる時と同じだ。不機嫌な顔をして、口では拒否をしても、クロコダイルはなまえを受け入れる。つまりは今も、部屋に連れ込まれたことに不服を表しながらも、なまえと二人きりで話したいのはクロコダイルとて同じなのだろう。

「…もう一回聞くぞ。お前、何が言いたい?」
「………」
「クロコダイル、こっち向け」

頭を撫でて、髪を梳く。先程は拒んだ手を受け入れたクロコダイルは、もう一度舌打ちをしてゆるゆると唇を開いた。

「…おれじゃねェだろうが」
「ああ、だから、何が?」
「お前がおれに、言いてェことがあるんじゃねェのか」
「………何が?」
「…相変わらず頭が悪ィな」
「………だから、その頭が悪ィおれにも、わかりやすく伝えてくれよ」
「…うるせェ、好きにしろ」
「いやだから、何がだよ」
「おれから離れんのも、麦わらにつくのも、魚人と仲良くするのも、お前の好きにしろっつってんだよ!」
「…言われなくても、好きにしてんだろ」
「あァ!?」
「好きでお前おっかけてんだよ!文句あんのか!!」
「…あ゙ァ!?」
「なんでキレてんだお前は!」

クロコダイルの不機嫌の正体は、掴めそうだったがクロコダイルが暴れだしたのでそれどころではなくなってしまった。押さえ付けて抱き締めて、振り払われて殴り合って床に転がって。いつも通りの日常に、なまえは思わず声を上げて笑った。麦わらも海侠も小悪党も、なまえにとってはどうでもいいのだ。クロコダイルが偉そうであれば、それでいいのだ。

「なに怒ってんだクロコダイル!キスしてやろうか?」
「ふざけんな死ね!」
「ははははは!」

クロコダイルと元気に喧嘩が出来れば、それでいいのだ。

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