200000 | ナノ


「ないの」

か細い声がどこからか聞こえてきて、ジャブラは左右に首を回した。しかし見えるのは見る影もなく崩壊したエニエス・ロビーと、見るも無惨に服を引き裂かれたカリファだけだ。他には誰もいない。つまりあのか細い声はカリファから発された以外に有り得ないのだが、ジャブラは今まで一度たりとて彼女のそんな弱々しい声など聞いたことがないのですぐに信じることが出来なかった。

「…おい?」
「ないの」
「無いィ?何が無いってんだ」

無くなったものは沢山ある。地位。職。自信。誇り。居場所。エニエス・ロビー。カリファにいたっては衣服まで。薄布一枚だけを被って瓦礫の中を細い指で探す姿は、哀れを通り越して惨めだ。つい先刻までちやほやと持て囃されていたCP9がなんてザマだろう。
「指輪、指輪がないの。なまえの指輪」。泣きそうな声はらしくもない。弱っているのだろうか。それはそうだ。気丈でいられなくとも仕方のない状態である。ジャブラはひとつ舌打ちをして、面倒臭そうな素振りでカリファの隣に座り込んだ。どうせブルーノが他の連中を回収してくるまで、出来ることなど何もないのだ。どんなに下らないものでも、取り戻せるものなら取り戻す手伝いをしてやってもいい。本当に取り戻したいものは、エニエス・ロビーと共に潰えてしまったのだから。

「んだよ、ったく…指輪ァ?高価なもんなら海賊どもに盗られてんじゃねェの?」
「そんなの、いやだわ。いやよ。あれは、私が持ってないと意味がないのに」
「嫌っつったってよォ…」

疑問だ。こんなにも貴金属に執着する女だったろうか。確かにいくつものアクセサリーをとっかえひっかえ付けてはいたが、無くなれば無くなったですぐに新しいものを購入していたように思う。それが今は代わりの衣服を調達するより先に、指輪ひとつを探しているのは異様だった。なまえの指輪、とカリファは言ったがなまえとはおそらく人の名前だろう。その名前を、ジャブラは随分と昔に聞いたことがあった。
CP4のなまえ。優男の外見で、腹は真っ黒なカリファの恋人。政府の機密を知って殺された。殺したのはカリファ。その当時、CP9に入ったばかりのカリファに非情な殺し屋としての素質があるか試されたのだ。
政府も悪趣味なことをするものだと、ジャブラは笑った記憶がある。しかしカリファは何の躊躇いもなく彼の息の根を止めてきたのだから、大したものだと更に笑った。その程度の記憶だ。当のカリファも、傷心の様子すらなかった。随分と昔の話だ。ジャブラとて、カリファの口から彼の名を聞いてもすぐに思い出せなかったくらい、記憶が褪せている。

「…昔の男にもらったもんをとっとくようなタマかよ」
「昔じゃない、今なのよ」
「あァ?」
「今もいるの。なまえは、いるの」

ジャブラは自分の耳を疑った。いるわけねーだろお前が殺したんだから。そう言っても間違いはないだろう。カリファが躊躇った時のために、カリファごと始末をするよう監視役についたのはジャブラだ。なまえは確かにカリファによって殺された。「カリファちゃんに別の男ができるの、嫌だなァ」。そんな馬鹿みたいな『恋人』の台詞ひとつを遺して。

頭がおかしくなったのかと、ジャブラはカリファの横顔を見る。美しい指先をボロボロにしながら這いつくばって瓦礫の下を探る様相は、確かにおかしい。「…おい、カリファ」。返事はない。「カリファ!」。怒鳴るように呼びつけて細い肩を掴むと、ようやくカリファはジャブラを見た。

「…邪魔をするなら、放っておいて」

焦点の合わない目で凄まれて、ジャブラは思わずたじろぐ。カリファには幾度となく窘められたり叱られたりしたが、こんな風に感情を剥き出しにして怒られたことはない。服も身に付けていないカリファの哀れな姿と合わせて、ジャブラは自分が悪いような気がしてきた。口をつぐむと、カリファはまた瓦礫の中を漁り始める。柔らかい色彩の壁の破片。割れた鏡。砕けたバスタブ。おそらくこの辺りはカリファの部屋の瓦礫が集まっているのだろう。仕方なくジャブラも手を動かし始めると、カリファは熱に浮かされたような小さい声で、ぽつりぽつりと話し始めた。

「帰ってきてからすぐに、鏡台に置いておいたの。ただいまって言ったのに、すぐに返事をしてくれなかったわ。意地悪なのよ、あの人。私をからかっていつも遊んでる。ひどいの。やっと話し掛けてきたと思ったら、『久し振り』も『おかえり』も言ってくれない。それどころかウォーターセブンにいた時のこと、全部知ってた。どうしてって聞いたら、指輪についてずっと私と一緒にいたっていうの。ひどいでしょう?あの部屋でしか存在出来ないって言ったの、あの人なのよ。なのに本当は指輪があればいつでも私に話し掛けられたなんて、ひどい話だと思わない?寂しがる私を眺めて、笑っていたのよ。最低だわ。でも、だから、指輪があれば大丈夫なの。部屋が無くてもいいの。でもないの。指輪がないの。なまえが、いないの」

とつとつと語る内容は、気が狂ってしまったとしか思えない。つまり、一体、何の話だ。ジャブラは沢山聞きたいことがあったのだが、カリファはまともな返答をしそうにない。「なまえが見えんのかよ」。「見えないわ」。「幻聴じゃねェのか」。「幻聴じゃないわ」。「なんでわかんだ」。「だって、動いたんだもの、指輪」。    さっぱりわからない。
早く誰か帰ってきてくれ、と思うものの、他のメンバーを探しに行ったブルーノは手間取っているのかまだ来ない。一向に見付からない小さな貴金属など、この瓦礫の山で見付かるはずもなく、沈痛な空気に耐えきれずジャブラさえも頭がおかしくなりそうになった時。キィン、と軽やかに響く音がした。金属の音。ジャブラが振り向いて、カリファは立ち上がった。

    なまえ?」

走り寄る。期待の籠った声で恋人の名前を呼んで、一直線にカリファは音のした方へと向かっていった。ジャブラからは、本当にそこに指輪があるのかは見えない。しかしカリファが屈んで、何かを拾って、左手の薬指にはめる姿を見た。その何かが指輪なのかもしれない。しかし汚れたカリファの指にはまったものは、同じく汚れているのか、目を凝らしてもよく確認出来なかった。座り込んで動かないままカリファを眺めているジャブラへ、彼女はいつもの自信たっぷりな表情に戻った顔で『そら見ろ』とばかりに笑う。

「ねェ、わかったでしょう、ジャブラ」
「…何が」
「動いたのよ、指輪」

本日は強風。山と積まれた瓦礫は、燻る熱に焼かれてあちこちで倒壊を起こしている。そんな環境で、指輪が動いたからどうした。口をつぐんだジャブラは、何も言わなかった。指輪を取り戻せたというカリファがすっかり元の様子に戻ったので、今更なにも言えることなどないのだ。

崩壊は既に済んでいる。
大工でもないジャブラには、直せるものなど何もなかった。


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