200000 | ナノ


日に日に血の臭いが濃くなっていくなまえの体に、ジャブラは目を眇めた。今日は昨日よりもひどく、昨日は一昨日よりもひどい。殺し屋を生業としたCP9にとったら、知らぬふりも出来ないほど嗅ぎ慣れた匂いだ。

なまえが自分で巻いたのだろう、ぐちゃぐちゃに絡んだような包帯は、血が滲んで乾燥し、赤から茶に変色している。それを見れば頭によぎるのは既視感だ。いつかの日も、なまえは随分な大怪我を自分で手当てしていたが、その時もこんな風に適当な処置だった。
どうせ今回も、原因は一緒なのだろう。    ロブ・ルッチ。彼の能力、レオパルドの強靭な顎と鋭い牙によって、なまえの皮膚が食い破られているのだ。

「……なにやってんだお前らはよォ」

狼姿のジャブラが呆れたように呟いて、なまえのシャツをぺらりと捲る。案の定、ずれた包帯からは肉食獣に噛まれた痕が覗いていた。それもひとつやふたつではない。首や胸、手足に背中、腰。なまえを歯磨き用のガムと勘違いでもしているのかと思うほど、全身に歯形が残っている。これは番犬部隊にやられたわけでも、ましてやジャブラが噛み付いたわけでもない。ならば残る可能性はたった一人だ。以前は半信半疑で否定したそれが、今では断定出来る。なまえのこの傷は、ひとつ残らずルッチの仕業だ。

二人がいつどこでどうやって出会い、どんな関係性を築いているのかはわからないが、どうやらルッチはなまえをいたく気に入っているらしい。血と殺しを求める冷血漢が他人に執着するのはとても珍しいことだ。理由といえば、心当たりはひとつだけある。ジャブラでさえ陥落したなまえの心地好い掌に、ルッチも惹かれたのかもしれない。
なまえの掌は、動物にとって麻薬に近い。凶暴な野犬とて一度撫でれば腹を見せるだろう心地好さは、彼の動物に対する愛情が深い証だ。絶妙な力加減も、かゆい部分に手が届くような丁寧さも、彼が動物の体を理解し、気持ちよくしてやりたいという愛が為した技である。
とはいえ所詮マッサージはマッサージ。ジャブラは別になまえを独占したいとも可愛がってやりたいとも思わない。ただでさえなまえは使用人としての常識や性格が破綻しているのだ。
ルッチとなまえのよくわからない関係だとて本来ならば放っておくのだが、ジャブラにはそうもいかない理由があった。

この怪我を目にしているのは、何もジャブラだけではない。使用人も、海兵も、政府の人間も、庭師であるなまえを見掛ける可能性のある不夜島の住人は、この血の臭いに顔をしかめ、そしてそれがなまえの体にある噛み痕から漂うものだと気付けば、皆一様に噂するのである。

「ジャブラと痴話喧嘩でもしているのではないか」、と。

そもそもジャブラとなまえは一時期なまえのせいで恋仲ではないかと噂されたという、ジャブラにとっては最低で最悪で不名誉な過去がある。一度は落ち着いたそれも、ほんの些細な出来事でまた熱をぶりかえしてエニエス・ロビー全域を駆け巡った。なにせここは娯楽の少ない法の島。真偽はもはや関係なく、ゴシップは玩具として格好の餌食だ。
噂を払拭しようにも、片割れであるなまえは人の評判などまったく気にかけない男である。肯定しなければ、否定もしない。ジャブラだけが慌てている実情は、ますますジャブラだけの立場を悪化させた。

しかしジャブラは知っているのだ。もうひとつの悪因は、ルッチである。彼が他人に対して非情であるという事実には絶大な信頼が寄せられているのをいいことに、ジャブラを隠れ蓑にしてやりたい放題だった。
「あんなに噛んだら可哀想よ」とカリファに半笑いで言われた時、ジャブラはあれはルッチがやったんだと真実を暴露した。しかし長い鼻で笑ったカクに「そんなわけなかろう」と一蹴されたのだ。「ルッチがあんな一般人に興味を抱くか」と端から否定したのはブルーノ。「そもそもなまえと接してるところすら見たことがないチャパー」とはフクロウ。クマドリには罪を人に擦り付ける人間性を窘められ、スパンダムにはわざとらしい盛大な溜め息で馬鹿にされた。ジャブラはこの時にも既視感を覚えたのだ。前にもこんなことがあった。馬鹿にされて、からかわれて、腹いせになまえをいたぶろうと思ったところでルッチから返り討ちに遭ったのだ。今思い返しても腹立たしい。しかしあの時よりも腹立たしいのは、ルッチが周囲にはわからない角度から口元だけで笑いながら、からかわれているジャブラを眺めていたことだ。性格の悪い化け猫め、と食って掛かるのは、何もジャブラだけに非があるわけではないだろう。


「お前なァ、せめて血は止めてから来いよ。くっせーんだよ馬鹿が」
「…ジャブラ様こそ、どうしたの?この傷」
「うっせェ馬鹿触んな」

額に貼られた絆創膏に伸びる手を払いのけ、ジャブラはなまえの包帯を引き剥がした。小さな呻き声がして、なまえが苦痛の表情を浮かべる。包帯の下にはおびただしい数の噛み痕が並び、包帯を剥がした拍子に薄い瘡蓋が破れてまた新しく血が溢れ出した。常人の感覚では受け入れがたい痛みだろうに、それでも何とか仕事をする根性はなかなかのものだ。もちろん、誉めてやる気には到底ならないけれど。

「ジャブラ様、手当てしてくれるの?」
「しっかたねェだ狼牙!お前のせいでこっちがどんだけ迷惑してると思ってんだ馬鹿!!」
「ありがとう」
「お、あ、おお…」

顎の下をぐりぐりと撫でられて、ジャブラの溜飲が少しばかり下がる。もちろん狼の姿でなければなまえはジャブラを気遣いもしないのだが、こうやって丸め込まれていることに気付くのは、いつだって殺意が治まってしまった後なのだった。




ジャブラの部屋の草木を整えた後。使用人に宛てがわれた小さな部屋へなまえが戻ってくると、シングルベッドの掛け布団が不自然に膨れていた。規則正しく微かに動くその中身は大体の見当がついている。なまえは一瞥しただけでそのままシャワー室に向かうと、土いじりで汚れた体を洗い流してからベッドへ近付いた。布団をめくる。中から現れたのは黄色に黒の斑が混じった毛皮。「ミケ」と呼べば獰猛な瞳で睨まれてしまったので、「ルッチ」と直してもう一度呼んだ。唸る喉を撫でて眉間にキスを落とす。

「どうしたの。おれの部屋なんか何もないだろう」

ルッチは答えない。ぐるる、喉の奥で唸って、うるさいとばかりに細まった瞳で睨んでいる。なまえの部屋には何もない。せいぜいなまえしか使わない仕事道具や着替え、それから剪定で刈り取った草花が飾られているだけだ。ベッドだって、CP9に用意されたものの方が広くて柔らかくて寝心地もいいに決まっている。狭くて硬いマットに伏せる豹の姿は愛らしいが、自室に帰って寝ればいいのに、となまえは思うのだ。しかしルッチは不機嫌そうにじろりと睨むばかり。これは何も言う気がないのだな、と諦めて、なまえもベッドの端に乗り上げる。

「もう少し端に寄って」

ルッチは動かない。真ん中にどっしりと体を据えたまま、馬鹿にしたような目付きでなまえを見ている。しかしこれは別に嫌がらせではないのだ。嫌がらせに見せ掛けた、単なる甘えだとなまえは知っていた。素直な言葉で表すどころか、甘えている自覚すらおそらくないのだろうルッチに、なまえは顔には出さないようにやれやれと呆れながら、うつぶせに寝そべった豹の体を抱き上げて寝転んだ自分の腹の上に乗せた。ずっしりとした重みが傷に響くが、顔に苦痛を表すほどでもない。もう慣れた。ぎゃあぎゃあと喚きながら手当てをしてくれたジャブラには悪いが、どうせすぐに包帯も薬も意味がなくなってしまうのだ。包帯を緩めて、薬を洗い流さなければならない手間が増えるだけである。

「…犬の匂いがする」

不機嫌そうにぽつりと人間の言葉で呟いたルッチは、恐怖しか感じさせない目付きでなまえを睨んだ。「ジャブラ様の部屋にいたんだもの」。飄々と答えるなまえに、誤魔化すつもりも弁解をするつもりもない。諜報部員としても優秀なルッチに何を言っても真実を隠すなど出来やしないし、ましてやなまえに疚しいことなどありはしないからだ。ジャブラと会うのは仕事で、ジャブラの部屋に行くのも仕事。ジャブラと話すのも仕事のうちで、ただひとつジャブラを撫でたのは余計ではある。

ぐるる、と不機嫌な唸り声が大きくなる。人を殺せる牙が剥き出しにされて、なまえの肩に噛み付いた。

「…う、」

ぎちぎちと食い込む牙から、溢れた血がシーツに滴り落ちる。いつものことだと、なまえは抵抗もしない。
怒らせたから噛まれたわけではないのだ。ルッチは噛みたいから怒る。今日はジャブラのせいにしたが、昨日会ったときにはハットリと遊んでいたという理由で噛まれた。その前はぼんやりしていたから。さらにその前はルッチの頭に花を飾って鬱陶しかったから。理由なんて何でもいいのだ。要は、ひどい痛みを与えられても受け入れるなまえを見て、満足するためにルッチはなまえを噛みたがる。
なまえは理解していた。これもルッチの甘えだ。凶暴で可愛げもなく、ただただなまえを傷付けるだけの行為である。
だからルッチの牙を大人しく受け入れるのは、なまえの愛情でもあった。体を明け渡して、ろくな手当てもせず、強引に塗られた薬がルッチの口に入らないようわざわざ洗い流してから噛まれてやっている。

「…ルッチ」

牙が骨に到達する直前で離れたルッチは、今度は脇腹にも噛み付こうと頭をずらした。名前を呼び掛けて、顎を撫でて、けれどなまえはやめろと言わない。けれど最近は噛まれて流血することが多かったせいか、貧血気味で意識が朦朧とするのも確かだ。「るっち」。小さく掠れた声でもう一度呼ぶと、珍しくルッチは口を止めた。じとりと尋問するような目でなまえを見て、そうしてゆっくり豹から人間の姿へと戻っていく。
鋭い目付きに大差はないが、小さな顎と鋭さのない歯は随分と優しく感じた。黒い艶やかな髪に指を差し入れて撫でると、とろんと緩む表情も豹の時よりもわかりやすい。
血がついた唇のまま、ルッチはまたなまえの肌に歯を這わせた。がぶ。噛まれても痛みはあるが、先程と比べればかわいいものだ。はァ、と吐いた溜め息は安堵に近かったかもしれない。当たり前だ。耐えるのは確かに愛だが、何も痛い思いをしたいわけではない。

「…どうせ噛まれるなら、こっちで噛まれる方がいいなァ…」

平たい歯を受けながら呟くと、鰹節にしがみつくネコのようにあぐあぐとなまえの体に噛み付いていたルッチが顔を上げて笑った。悪い顔だ。しかし満足そうでもある。

    そういえば、『ミケ』よりも『ルッチ』の方がいいと言ったのは初めてかもしれない。

ルッチは何も言わないので、何を求めているのかもわからない。けれど察することはそう難しくもないのだ。支配欲の強いルッチは、大方『ミケ』にも敵対心を燃やしていたのだろう。
かわいいな、となまえは思ったが、口には出さなかった。がぶ、とルッチが噛み付いたのは、今度はなまえの唇だったからだ。
血の味がする痛いキスは好きではない。けれどなまえはこれも耐えるのだ。これがルッチの甘えで、なまえがルッチを愛している限り。いつかはこの甘えで殺されるかもしれないと、わかっていたとしても。


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