200000 | ナノ


サンジは女の涙に滅法弱いが、男の涙には滅法強いという自負がある。女が一粒でも涙を溢せば夜を徹して慰めることに尽力するだろうが、男が目の前でおいおいと泣いていたって、勝手にやってろと放置するだろう。しかし今、男であるはずのなまえがぼろぼろと大粒の涙を瞳から溢しているのを見て、サンジは言いようのない罪悪感に捕らわれるのであった。

「サンジくんも、おれからナミを盗ろうとするの?」

ぼたぼたと床に滴る涙を拭うことすらせず、なまえは目をいっぱいに開いてサンジを凝視する。サンジはその強い視線から逃れられない。蛇に睨まれた蛙のように動けなくなって、冷たい汗をかきながらどうにかこうにか首を振った。

「い、いや、おれは…」
「…おれが」
「へっ?」
「おれが、魚人どもからナミを奪い返そうとするのに、掛かった年月を知ってる?」
「し、知ってる…」
「ようやく魚人どもを殺せると思ってココヤシ村に戻ったら、他の海賊にナミを奪われた後だと知った時の絶望は?」
「な、何度も聞いた…」
「グランドラインを辿ってナミに追い付いて、また一緒にいられるようになった時の喜びは?」
「毎日見せ付けられてます…」

なまえの声はこれ以上ないほど哀れに歪んでいるのに、サンジを責め立てる声だけははっきりとしていてサンジの良心にぐさぐさと刺さってくる。

なまえは、ナミの幼馴染みだ。ナミやノジコと同様に、アーロン達魚人によって人生を狂わされたココヤシ村の住人の一人である。
アーロンに連れ去られたナミを、取り戻すのは男である自分だと幼いなまえは考えた。しかしそれには力が足りない。無力は何も出来ない。だから単身、海に出て鍛えた。家族の奉貢を減らすためもあったのだろうが、死んだように見せ掛けて故郷を離れ、何度も何度も実際に死ぬ想いをして、たった一人の少女を救うために、無力な少年は魚人を殺せるまでの力を身につけた。それがどれほどの苦しみだったろう。死んだ方がマシだと思ったことだって何度でも。しかし想いが報われるのであれば、どんな苦痛や屈辱にも耐えられた。もう一度彼女と昔のように笑い合えたら。他愛のない喧嘩が出来たら。彼女が描いた海図を眺めながら将来の話が出来たら。それだけで、本当に何だって耐えられたのだ。
それがどうだ。刺し違える覚悟さえ持って故郷に帰ってきてみれば、アーロンパークは崩壊、村は平和に、それでも愛しのあの子だけがいない。聞いてみれば海賊に連れて行かれたという。

なんで?なんでみんなそんな笑っていられんの?おかしいんじゃないの?連れて行ったのは海賊だろう?これはナミ一人の犠牲で成り立っている平和なんじゃないの?それでお前らなんで笑っていられんの?頭おかしいの?なんで?なんで?なァなんで?
魚人を殺せるとまで自信をつけた男が、大暴れして村を再び恐怖に陥れる惨事になろうとした瞬間、それを止めたのがナミの姉、ノジコだった。
ナミはいい海賊に自分から望んでついていったんだよ。アーロン達を追い払ってくれたのもその海賊なんだよ。あの子は笑っていたよ。あんたもあの子が大事なら、あの子の幸せを考えてあげなよ。一生懸命守ったこの村があんたのせいで無くなったら、あの子はまた泣くよ。
三時間に及ぶ説得の末、なまえは頷いた。「じゃあ、その海賊達に会ってくる。気に入らなかったら、殺していーい?」。そう言い残して、ノジコの返事も聞かずにグランドラインへ入ったのだ。

そして今、なまえはメリー号にいる。理由は簡単だ。なまえが無事にこの一味を気に入ったからである。勿論それまでには多少一悶着あったのだが、仲間入りしてからはようやく再会出来たナミにべったりで構ってもらうのに忙しく、今までの恨み辛みを思い返す暇もないらしい。

しかし、サンジは度々なまえに出会った時の狂気じみた視線に遭遇する。例えば今だ。キッチン兼会議室で海図を描いていたナミがいつの間にか寝てしまったので、風邪をひいてしまわないようサンジはジャケットを彼女に掛けてあげた。それは女性にしか発揮されない優しさではあったが、逆に言えば女性にならば誰にでも発揮される優しさである。そこになまえは遭遇してしまった。そしてサンジも遭遇してしまった。なまえのあの、狂気じみた視線に。

「おれが先に気付いてたんだ。ナミが寝てたから、毛布取ってきてあげようって」
「あ、ああ」
「そしたらサンジくんが先にジャケット掛けてた」
「…わりィ」
「煙草臭いジャケット」
「………わりィ」
「でもそれは優しさだ。知ってるよ。ナミが風邪ひかないように気遣ってくれたんだろう」

ありがとう、と言うくせに、頭を下げも微笑みもしない。ただ瞳からはぼたぼたと涙が溢れ続けて、床に水溜まりを作っていた。
サンジは動けない。潤んでいるくせ、強すぎる目力はサンジに穴を開けるほど見つめてくる。

なまえは子供のまま大きくなってしまった、とナミは言う。幼い心のまま力を持ってしまって、人を殺すことに何の罪悪感もない。大きくなった今でも、大きくなったら何になろうか、と子供みたいに夢を語る。なまえの中では自分もナミも子供のままで、ナミ一人が世界の全てなのだ。本当はちょっと視線をずらすだけで、抱えきれないくらいの世界が広がっていることを彼は知らない。

「サンジくんは、女子の誰にだって優しい。ナミにもロビンちゃんにも、ビビちゃんにも」
「お、おう…」
「でもそれは、女子なら誰だっていいってことだ。ナミでもロビンちゃんでも、ビビちゃんでも」
「それは…いや、おお…」
「おれはナミしかダメなんだ。ナミしかいないんだ。誰でもいいんだったら、ナミはとらないでよ」

懇願のようで、恫喝に似ている。とらないで、となまえは言う。ナミはなまえのものではない。どちらかというと、なまえがナミのものだ。再会してから四六時中、ナミの側にいてナミの膝枕で眠りナミの近くで戦う。挙げ句は女部屋の床で夜を過ごすことすら許されてしまうのだから、サンジはひどく嫉妬と憤慨を覚えたものだ。ずるいずるいと声に出して抗議した。そのうちなまえには性欲の欠片もないのだと知って、ナミのペットぐらいにしか思わなくなったのだけれど。

なまえはただ不安なのだ。また誰かにナミを盗られてしまうのではないかと毎日怯えている。ナミが誰かのものになることを恐れている。それは子供の拙い独占欲だ。けれどなまえはもう子供ではない。独占できる術を持ってしまっている。

「サンジくん、お願い。おれからナミを盗らないでね」
「…わかってるよ、盗りゃあしねェから…さっさとその毛布、掛けてやれよ」
「うん」

サンジがナミの肩からジャケットを退けると、なまえはようやく涙を止めて恭しく毛布を掛けた。しかしサンジは、まだそわそわと落ち着かない。

平和なキッチンにそぐわない、毒の塗られたナイフ。
あれがなまえの右手から離されないことには。

サンジは決して、彼の瞳から目を離してはいけないのだ。


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