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エースにとって、甘えることは格上の相手に怯まず立ち向かって行く以上に難しい。原因は圧倒的に乏しい経験値のせいだ。

昔から大人の悪意にさらされ、育ての親すら仲がいいとは言えなかった。たまに訪ねてくる義祖父は可愛がってくれたようだが、エースに言わせればあれは「愛の鞭」という意味のかわいがりで、端から見れば虐待ともおぼしき躾の数々に、当事まだ幼かったエースは愛というより恐怖を感じたものである。
だからエースは、甘えてもいい大人の存在を知らない。甘えるという行為を知らない。厄介者、親友、兄、船長。受ける扱いはずっと、甘えを許されない立場だった。そんなことないだろ、と言ってくれる人はいたのかもしれない。しかしエースには意地があった。矜持もあった。甘えることは弱い人間がするものだと、甘えることを知らないエースは思い込んでいた。

    ここではお前は弟なんだから、甘えるのも仕事のうちだよ。
そう言われたのは、エースが白ひげの家族になってまだ間もない頃。スペード海賊団の船長であった頃と同じように、単独で敵船に特攻をかけた時のことだ。傷は負ったが大したことではない。他の仲間も「やるなァ」と褒めてくれた。しかしエースの怪我を手当てしてくれた中年の船医だけは、苦笑いして「もっと周りに甘えなさい」と言ったのだ。それがエースの、弟の仕事であると。
勿論エースは反論した。仲間や家族とはいえ、情けない姿は見せたくないし、甘えなくたって生きてこれた。甘えるなんて弱い奴のすることだ。
半ばキレ気味で反抗するエースに、彼は笑った。

「そうか。ならお前は、まず甘えることを覚えなきゃいけないな」



船医のなまえという男は、元々が大家族の長男だったという。たくさんの弟や妹の面倒を見て育ってきたので、年下を甘やかすのも叱りつけるのも躾るのも得手だ。それゆえに、問題のある新人は大概彼の手伝いをしながら白ひげ海賊団での過ごし方を学ぶことになっている。エースとてその例に違わず、問題のある新人として彼の船医室に通う日々が続いた。
白ひげに何人かいる船医やナースから隔離された小さな船医室、通称『教育指導室』で、彼から教えてもらったのは大したことではない。薬や包帯をしまう場所。応急手当ての仕方。二日酔いに効く食材。性病の恐ろしさ。エースには必要のないことや、知っておけば役に経つこと、たくさんの知識を彼は教えた。
寂しくなったら抱き締めてもらうこと。眠れない夜には子守唄を歌ってもらうこと。悲しくなったら泣いてもいいこと。傍にいてほしかったら口に出して言うこと。
お前は飲み込みが早いけど、甘えることに関しては覚えの悪かったね、となまえは言う。しっかりとエースを甘ったれに育てた癖に、嫌みったらしいことを言うものだ。エースは彼の背中に頭突きを食らわせて、そのまま腹に腕を回して抱きついた。じゃれつく、という甘えた行為。これもなまえが教えたものだ。

彼の船医室へ通うことがなくなっても、エースは眠れない夜や寂しい夜に彼の船医室に行く。誰にも知られないようこっそりと忍び込んで、奥のベッドで寝ているなまえの腕の中に潜り込む。人の体温と呼吸、匂いを感じながら、安らかな眠りに落ちるのが好きだった。
頭を撫でられて、頬のソバカスにキスを落とされて、話を聞いてもらって、抱き締められて。それを享受するのがどんなに心地良いか、なまえは根気よくエースに教え込んだ。エースは今でもなまえ以外には上手く甘えられないが、なまえは笑って「仕方がないね」と言うから、またそれに甘えてしまっている。

エースの甘えは、日に日に酷くなっていった。
エースはなまえにしか甘えられないが、なまえは誰でも甘やかす。ハルタもイゾウもサッチやマルコでさえ。彼よりも年下なら誰でも。それが気に食わなくて駄々をこねたりもした。なまえはハグとキスをしながら、「じゃあ夜にくればいいじゃないか、ベッドの隣はお前だけのものだ」とエースを宥めて、それからは寂しくない夜でも彼の船医室で眠っている。
人の欲は際限がない。なまえといるとどんどん甘えたくなってしまう。自分のものにしたい。ずっとこっちを見ていてほしい。無理矢理こんな甘ったれにした癖に、放り出すのは酷いことだ。

「おれのもんになってよ」

真夜中。二人きりの船医室で、エースはなまえに言った。なまえはエースを腕の中に囲いながら、眠そうな声で「うん?」と返事をする。それはエースの欲しい答えではなかった。なまえの顎に噛み付いて揺する。「おれの、もんに、なって」。一言一言を区切って伝えれば、痛みに顔をしかめたなまえはようやく眠気を覚ましたようで、エースの頭を撫でながら瞬きを二度した。

「…おれのものって、なに…」
「おれのもの。他の奴とか、甘やかさないでくれよ。おれだけにしろよ」
「夜までここにいるのは、お前だけだよ」
「そうじゃなくってさァ」
「船は集団生活だからなァ…これ以上の特別は、エースもおれも、他と気まずくなるだけだぞ?」
「…知ってるよ」
「そうか、いい子だ」

知っている。これは甘えだ。どれだけ我が儘を言ったって許してくれることを知ってしまった。けれど我が儘が全て受け入れられるわけじゃないことも知っている。無駄だとわかっていながら口に出せることの幸福を、エースは彼に教えてもらったが、叶わなかった時の虚しさも教えられた。

「………じゃあ、恋人でいーよ。恋人にしてくれよ」

これもどうせ断られるだろうけど。エースはもうひとつ我が儘を言ってみた。案の定なまえはエースの要望に目を丸くして驚いている。さらには溜め息までつくものだから、さすがにこれは呆れられたのかと慌てた。
ごめん冗談、そこまで望んでねェって。
撤回しようとした言葉の先を潰したのは、なまえの唇だ。ちゅ、と音を立ててキスをして、頭を撫でる。この宥め方も、最初は恥ずかしいばかりだったが最近は慣れてきた。他にもしてるんだと思うとひどく腹が立つけれど、やはりそれは、エースが制限出来るものでもない。

「……おれは恋人にしかキスはしない」
「…………………えっ」
「当たり前だろう、こんなこと誰にでもやってたら、とんだプレイボーイだ」
「…うそだろ?」
「嘘じゃない。………そうか、お前はわかっていなかったんだな…おれはもう、お前と付き合ってるつもりだったんだが…」

はァー、と大きく溜め息を吐いたなまえは、どうやら眠気もすっかり覚めたようだ。嘘や冗談を言うような顔ではない。エースは驚いて固まった体をぎゅうと抱き締められて、今更ながらに緊張してしまった。だってなまえは今まで何も言わなかった。恋人になろうとか、付き合ってほしいとか、そういったことは何も。

「…お前もキスしたり抱き付いてくるから、おれはてっきりわかっているもんだと…」
「だ、だって、あんた何も言わなかった!」
「そうか…そうだな、悪かった、うん。いやしかし、一線越える前で本当に良かった…」

ぽんぽんとエースの頭を叩いてから、なまえはエースを引っ張り起こして姿勢を正すと、とても真剣な目で告白をした。

「エース、好きだ。おれと付き合って下さい」
「……は…」
「…返事は?」
「え、あ、うん、…こ、こちらこそ、よろしく」

深々と頭を下げると、なんだか急に恥ずかしくなってきた。しかしなまえは一仕事終えたとばかりまたエースを抱え込んで寝転んで眠ろうとしてしまうので、恋人とはこんなものなのかと拍子抜けしてしまう。
エースは恋人というのがどんなことをするのか知らないのだ。今まで強くなることばかりを考えていて、恋なんてしてこなかった。だからわからない。どうするのが恋人らしいのか、全然わからない。

「……なまえ」
「んー?」
「おれも、なまえのこと、好きだ」
「うん、知ってるよ」

なまえは何でも知っている。甘えることはもう教わった。今度は彼に、恋を教えてもらおう。


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