モモンガ長編 | ナノ


「中将〜…なんで怒ってるんですかァ〜…!」

肩をいからせ、ずんずんと早足で歩くモモンガを後ろから追いながら、ロットは弱りきったような声を出した。いつもの、きゅうん、と鳴きそうな情を誘う声ではあったが、今はそれすらも火に油を注ぐ所業だ。



非番であるロットと、彼曰くの『デート』をした。モモンガにとっては単なる部下との食事でしかなかったが、場所はモモンガと同じ立場であるヤマカジが選んだというだけあってモモンガのような中年男性でも馴染むようなイタリアンレストランだ。喧騒はなく、全てが個室として区切られていて、他の客を気にすることなく食事と相手に集中できるような、まさにデートとして相応しい場所ではある。むしろ誘ったロットの方がそわそわと落ち着かない様子で、普段のふやけた顔がわかりやすく強張っていたくらいだ。

モモンガが店に到着した時、ロットは既に席についていていつものパッと明るい笑顔でモモンガを迎えたが、見慣れない私服のジャケットは窮屈そうで、首元のタイを何度も触る仕草は明らかにそういった格好や食事の場に慣れていないようだった。給仕がワインを持ってきた時にも自らが注ごうとして制止され、何もせずとも注がれる酒を落ち着かない様子でじっと見ていたので、モモンガは思わず笑ってしまった。「なんで笑うんですかあ」。情けない顔で咎められても、慣れない場所に戸惑って飼い主に助けを求める子犬にしか見えない。
「緊張するな、私達二人きりなのだから、マナーも何も気にすることはない。いつものお前でいい」。リラックスして食事を楽しめと助言したつもりだったが、ロットは子供扱いされたとでも思ったのかサッと頬を赤らめて視線を泳がせた。「緊張しますよォ…」。いつもの勢いが嘘のようにしおらしくなるロットに、モモンガは愉快な気持ちを抑えられなかったが、その反面腹の奥が凪いでいくことにも気付いていた。改めて自覚したのだ。ロットとモモンガは立場も年齢も経験も、全てが違いすぎると。

この場所に来るまで、モモンガを好きだと血迷ったことをいうロットにあまり期待させるような言動をすまいと、何ならこの機会にきちんと言い聞かせてその気持ちは不毛なものだとわからせようと頭の中でいくつものシミュレーションをしていた。だが実際そんな考えが馬鹿馬鹿しくなるほどに、ロットと自分は釣り合わない。
少し値段の張る食事に逐一新鮮な反応を見せるロットに対して、自分はもう慣れすぎてしまった。窮屈なジャケットも、首元を締め付けるタイも、人に酒を注がせることだって、今やなんとも思わない。
ロットとて、きっとこの食事ひとつでもモモンガと自分はあまりにも違うのだと感じ取ることだろう。百歩譲ってこれがデートだとしても、リラックスして楽しむことも出来ない。相手に合わせればどうしても無理な背伸びをしなくてはならなくなる。それはドレスコードに気を遣った今日の服装より、心が窮屈なはずだ。

最初は好きという気持ちの勢いだけで我慢が出来たとしても長続きしないことは明白なのだから、やはりモモンガはロットの気持ちに応えて良いはずがない。
約束したとおり夜8時には解散する際、『これで分かっただろう』と伝えてやろうと思った。『もっとお前が伸び伸びと楽しめる相手と付き合うべきだ』と言えば、きっとロットは頷くだろう。素直な男だ。自分の気持ちに嘘がつけないことを、直属の上官であるモモンガは知っている。

ここに着くまでのざわついた感情が一気に落ち着いたモモンガは、素直に食事を楽しんだ。ヤマカジが勧めただけあってどれもこれも美味い。いつもより進んでしまうアルコールは頭を少しばかり緩くさせて、緊張した面持ちで不器用にナイフとフォークを使うロットに笑い声をあげた。「いつもみたいにかじりついていいぞ」「酒はもっと甘いものの方がいいんじゃないか?」「お前これ好きだろう。私の分も食べていいぞ」。まるきり子供扱いだ。さすがに機嫌を損ねるだろうかと思ったが、顔を赤らめながら困ったようにはにかむばかりで、ロットは終始静かだった。いつものはしゃいだ様子も、対応に悩むほどぐいぐい来る様子もない。やはり、と思った。やはりロットも、合わないと思ったのだろうと。わかりやすすぎる男だな、とモモンガはワインをあおったが、2本目のワインはどうにも渋みが強すぎて、モモンガの口にも合わなかった。


モモンガの機嫌が急降下したのは、その後のことだ。時間は19時50分。ゆっくりと食事をして、少しずつだが会話もした。美味い食事のせいでつい酒が進んでしまい酔って頭もぼんやりとはしていたが、それでもモモンガは海軍本部中将なのだ。足元がふらつくということもない。
「あの、もう、時間が…」と言いづらそうに申し出たロットに、なんのことだと一瞬忘れてしまいそうになったが、ああそうか自分が言い出した嘘の予定を言っているのかと頷いて、では店を出る前にとトイレへ立った。用を足して席へ戻る道すがら会計を済ませてしまおうと財布を出したのは、モモンガがロットの上官だからだ。例えロットが誘ってきた場だとしても立場も稼ぎもよほど上のモモンガが支払うのは当然のことで、財布を出すことに躊躇いも疑問もなかったのだが、スタッフから返されたのは「もうお支払いは済んでいます」の一言。ぽかんとしてしまったのは仕方がないことだろう。誰が支払ったのか。まさかここを紹介したヤマカジが?いくらロットを可愛がっていたとしても、別部隊の一兵卒にそれは甘すぎではなかろうか。
少しばかり混乱しながら席に戻ったモモンガは、ロットが「行きましょうか」と促すのに「会計が」とぽつりと零した。モモンガが機嫌を損ねたのは、それからのロットの返事のせいだ。ロットは、「もう支払いましたよ」と当然のように言った。その表情はヤマカジに払ってもらったというような気配も、モモンガに請求する素振りもない。自分が払って当然、というような台詞が、モモンガをとても不機嫌にさせた。





「中将〜〜〜…」

情けない声が、後ろから追いかけてくる。どうして、なんで、と声色で問いただされたが、モモンガも正直、何故自分がこんなにも不愉快なのかわからなかった。自分が払うと言ってもロットは頑なに受け取らず、「だって誘ったのおれですもん」とそれが当たり前のように言い張った。こんなところで金の払う払わないは無粋だと分かっていたが、どうしてもモモンガには納得いかなかったのだ。だから臍を曲げて、足音荒く店を出た。不機嫌だと言わんばかりの態度はロットを大層慌てさせたが、それでも金は頑なに受け取らない。ああ、そうだ、これはきっと、部下に金を出させてしまったという失態のせいだ。立場も給料もずっと下の男に奢られて、顔に泥を塗るような所業のせいだ。

そもそも、ロットは何故奢ったのか、と思う。自分の金をわざわざ使うような相手ではないはずだ。立場も稼ぎもずっと上なのだから、甘えればよかったはずだ。今まで部隊の皆で飲みに行った時のように、モモンガが支払ったことに無邪気に喜んで「ごちそうさまです!」と溶けるような笑顔を見せてくれたら、それでよかったはずだ。それだけでよかったというのに、今日はずっと半笑いのような顔で過ごしていたロットは、今はもう泣きそうになっている。泣くくらいなら素直に言うことを聞いておけばよかったというのに、それでもモモンガの言うことをきかない。思い通りにならない男だ。これが最後だろうに、散々振り回しておいて最後までモモンガのペースを乱してくる。


「ねェ、中将、どうしてだめなんですか、おれが払うの」
「…安くはなかっただろう」
「値段なんてどうでもいいじゃないですか」
「どうでもよくない!安月給が、生意気を言うな!」
「安月給でも、支払いたかったんです。好きな人の前でかっこつけたいの、当たり前じゃないですか」
「…は?」

思わず足を止め、くるりと振り向いてロットの顔を見れば、あからさまにホッとしたような顔で手を伸ばしてモモンガの腕を掴んだ。「わかるでしょ、だっておれ、男ですよ」。そんなことは知っている。モモンガより若くて、大柄で、表情以外は柔らかさなどかけらもない、男だ。それがなんだというのか。いや、その前に今、なんと言った?好きな人?嘘をつけ、あんな、楽しくなさそうな顔で、窮屈そうに食事をしていたくせして。

「生意気いってごめんなさい。でも初デートくらい、いいとこ見せたいって男なら思うでしょ」
「…あんな、つまらなそうにしておいて、今更…」
「えっ!?つまらなそうに見えました!?嘘でしょ!めちゃくちゃ緊張してたんですよー!!」

中将いつもと違う雰囲気だし、初デートだし、なんだかご機嫌でいっぱい笑ってくれるし、ドキドキしちゃいました。
頬を真っ赤にしてふにゃりと笑うロットは、ようやくいつもの顔だ。ぎゅっと胸が苦しくなる。呑んだ後で急に足音荒く店を出てきてしまったせいか、先ほどよりも頭がぼんやりとしている。アルコールが回っているせいだ。考えがまとまらない。何を言うべきかわからず言葉が出ないモモンガに、ロットはいつもの顔で、いつもの声で、いつもどおりモモンガを好きだと言っていることだけはわかった。バカバカしいことだ。まだこんな、中年の男を好きだなんて。

「えへ…やっぱりヤマカジ中将御用達のお店は背伸びしすぎでしたね。味、全然わかんなかった…」
「…ばかもの」
「でも、美味しかったでしょ。中将が満足したなら、それでいいんです」
「…次は私が決める」
「え?」
「お前に払わせっぱなしで気が済むか。次は私が店を決めるぞ、非番の日は空けておけ」

ふてくされたような声で言ってしまったが、ロットはパッと顔を明るくさせて、何度も頷いた。「次、ですね!はい!楽しみです!やったー!」。馬鹿みたいに喜んで、にこにこと笑っている。そんなに嬉しいのだろうか。かわいげも何もなく、立場も年もずっと上の男と食事にいくことが、どうしてそんなに。


はしゃぐ犬の尻尾のように大きくぶんぶんと手を振るロットに見送られて、約束通り夜の8時には別れて帰路にたどり着いたモモンガは翌日になってロットが急に喜んだ理由に気付き頭を抱えた。『次のデート』の約束を、思いがけず自らが取り付けてしまったのだ。なんということ。

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