だっだっだっ、と地面を蹴る音がする。衣類を身に着けた大型犬がこちらに勢い良く駆けてくるのが見えて、モモンガはその場に立ち止まり追いついてくるのを待ってやった。徐々にその姿が形を変え、人の成りを作っていくのは悪魔の実の能力だ。モモンガの目の前ですっかり人に戻った犬、もといロットは、いつもの満面の笑みでモモンガに敬礼をした。
「中将っ!おつかれさまですーっ!」
ニコニコしながら挨拶してくるロットは、ゾオン系の能力者である。イヌイヌの実を食べた、犬人間だ。
最初にそれを知った時、モモンガはつい笑ってしまった。仕種も表情もまるで犬みたいだと思っていたら、まさか本当に犬だったなんて。
周囲からも散々「お前にぴったりじゃないか」とからかわれているようで、笑いをこらえられなかったモモンガにロットは拗ねたような顔で口を尖らせていたが、そう思ってしまうのも無理はないだろう。むしろ悪魔の実の影響であの性格になったのだと言われた方が納得できるというものだ。
犬の姿になっても全長は人並み以上。毛皮は黒。吠えれば海賊が怯えるほど迫力のある犬種だというのに、中身がロットだと解っている海兵達は獣化しているロットを見ると必ず一撫でしていく。ペット感覚の扱いに勿論ロットも良いとは思っていないのだろうが、怒るどころか撫でられてうっとりしてしまうのが一番の問題だと思うのだ。目を細めて大人しくされれば、かわいく思って撫でてしまう輩も少なくはない。
餌付けされたり、芸を仕込もうとしてきたり、あるいはその犬ならではの優れた嗅覚を見込まれて探しものを頼まれたりと大人気だ。今回も、センゴク元帥に声を掛けられて本部内にいるはずのガープ中将を探す手伝いを依頼されて3時間ほどモモンガのもとから離れていたが、終われば嬉しそうに戻ってくる姿は忠犬そのもの。かわいいものだ。しかし微笑ましく思うより先にその変わり果てた姿にギョッと目を剥いてしまった。
「……なんだその格好は」
「えへへ、ガープ中将にしごかれましたァ」
つい先程までは違和感がない程度に整えられていた衣服や髪が、ちょっと目を離した隙にもみくちゃにされたかのように乱れている。実際もみくちゃにされたのだろう、髪はあちこちが跳ね、襟元や裾には皺が寄って疲労困憊の様相だ。今回の探しものであるガープが犯人だと聞けば、モモンガも「ああ…」と納得して頷いた。なにもガープに限ったことではないが、面倒見がいい性質の上官や先輩に放っておけないと思わせるのはロットの得手だ。とはいえ本人は無意識なので、可愛がられるばかりではなく、たまにこうして台風に巻き込まれるかのような被害を受ける。おそらくはセンゴクへ届け出る前に、一絞りされたのだろう。上司であるはずのモモンガが預かり知らないところで別の上官に使われていたり鍛えられることも日常茶飯事だ。
「まったく、そんな格好でうろつくんじゃない…ほら、かがめ」
ガープに乱された衣服や髪を撫で付けて、身嗜みを整えてやりながら、モモンガは溜め息を吐いた。どこをどう通ってきたのかは知らないが、少なくともガープのいる訓練場からモモンガの執務室まではこんなみっともない格好で来たということだ。規則にうるさい上官にでも見つかればまた説教されることが目に見えているというのに、当のロットはにこにこへらへら笑ってモモンガにされるがままになっている。
「…なんだそのだらしない面は」
「えへ、嬉しくって」
「何がだ」
「中将に構ってもらえて」
「は!?」
ふにゃ、と愛しいものを見るような甘い視線と目が合って、モモンガは思わず過剰に反応してしまった。大袈裟なほど勢い良く後ずさり、熱いものに触れたかのように手を離す。「えー、終わりですかァ?」と不服そうに唇を尖らせるロットは、満足する前に撫でるのが終わってしまった犬のようだが、忘れてはならない、ロットは犬でも子供でもなく、れっきとした海軍兵士なのだ。身だしなみを整えるなど自分で出来て当たり前だというのに余計なことをしてしまっては、ただでさえモモンガに想いを寄せているなどと馬鹿げたことを言っているロットに気を持たせてしまいかねない。
先日とて、顔に触れた程度で不穏な空気が流れてしまった。諦めさせてやらなければならないというのに、普段のロットがどうしても懐いてくる犬にしか見えずにいつもモモンガは余計なことをして、墓穴を掘ってしまうのだ。
「甘ったれるな!身嗜みくらい自分で整えてからこい!」
「だって、早く戻ってきたかったんですもん…」
きゅうん、と鳴きそうなか細い声で言い訳を述べながら、ロットは自分の手で髪や衣服を整えていく。しかしシャツの襟、右側の部分が内に折れたままで、ついつい手を伸ばしてしまったモモンガは、またもロットの甘ったるい視線とかち合うことになったのだった。