「…それって中将が決めることじゃなくないですか?」
怒るでも悲しむでもない、ただ疑問を口に出しただけのような声色に、モモンガの方が絶句してしまった。訳がわからないと言わんばかりの表情は、話を有耶無耶にしようという意図があるならまだ話が通じているだけマシだ。しかしロットのこの顔は、真っ向からモモンガの言い分を否定しかねない意思が見える。素直に諦めそうにない気配を感じる。何故。普段あんなにも素直だというのに、どうして、こんな時ばかり。
先日のレストランよりは大衆向けの、しかし人様にはあまり聞かせるべき内容ではない話をするために個室がある店を選んだモモンガは、味のわからない食事を終えたタイミングで話を切り出した。
今はもう随分と時間が経ったように思う先日のロットの告白のこと。
返事に時間が掛かってしまったが、それを受けるつもりはないということ。
元来女性が好きだというのだから、今はきっと何かの勘違いにより感情が誤作動を起こしているのだろうということ。
先日存在を知った同期の女性海兵との付き合いを考える方が、余程現実的で生産性があること。
「お前はかわいい部下だ、幸せになってほしいと思っている」。だから付き合う気はないのだとはっきり告げたモモンガに、緩んだ顔から徐々に表情を無くしていったロットの返事は素直に頷くでも駄々をこねて否定するでもなかった。極めて冷静な、喜怒哀楽を全力で表す男にしては珍しいほどの凪いだ顔で、ぽつんと疑問をひとつ投げたのだ。「それって中将が決めることじゃなくないですか?」と。予想していた反応とはまったく違う応えに、困惑してしまうのは仕方ないことだろう。
「な、なに?」
「おれが何を幸せと思うかなんて、中将が決めることではないですよね」
「それは…」
「同期の女性海兵ってたしぎちゃんですか?あの子は男に興味ないですよ。おれが『犬』だから仲良くしてくれてるだけです」
「だがお前の方は、」
「実家の姉ちゃんに似てるから放っておけないだけなんですよね。好きになるんだったらもっと前になってます」
「こ、この先はどうかわからないだろう」
「離婚する夫婦だって、結婚したときは離婚するつもりなんてなかったと思いますけど」
「だからといって、なにもこんな中年でなくとも!」
「好きになっちゃったものは仕方ないじゃないですか。歳の差20だろうが30だろうが、珍しいけど無いわけじゃないですよね?」
「お前はまだ子供だからそんなふうに…!」
「中将っておれのこと幼児かなにかだと勘違いしてませんか?今まで女の子だけじゃなく男の人と付き合ったこともありますけど、別れても後悔なんてしたことないですよ」
「な」
んだと、と続くはずの声は音にならなかった。男とも付き合ったことがある。その一言におかしなほどショックを受けている自分が信じられなかった。いや確かに、今まで全く経験がないと勝手に思い込んでいたのはモモンガの方だ。子供みたいな言動と、ちょっとしたふれあいで顔を赤らめているのではそう思っても仕方ないだろう。それがまさか、女だけではなく男もだなどと。
ひとつひとつモモンガの言い分を潰していくようにまくし立てたロットは、二の句を継げなくなったモモンガを悲しそうに見た。なんの表情だというのか。素直に諦める素振りもないくせに。
「…いつ死ぬか、わかんないじゃないですか、この仕事」
否定のしようもない事実を切り出されて、反論は出来ない。
「将来のことを考えて、今好きな人といられない方が不幸だ」
つい先日も、部隊の中から一人殉職者が出た。珍しくもない出来事だ。けれど可能な限り避けたい出来事でもある。もう将来を考えることすら出来なくなった死者に、いつ自分がなるとも知れないことを考えれば、確かに好きな人に好きと言えるロットの方が余程建設的なのかもしれない。
「今おれが好きなのは、モモンガ中将ですよ。否定出来るのも諦められるのもおれだけです」
まっすぐな眼光がなんのてらいもなくモモンガを貫いてくる。顔が熱い。どうしてこの若者が、兵士としてでも上司としてでもなく自分を恋い慕うのかが本当にわからないのだ。今は好きかもしれない。だが三ヶ月後はどうだ。一年ももつか?三年続けば奇跡だろう。いつ愛想を尽かされることか。やはり間違いだったと切り捨てられるのはモモンガの方だ。そんな懸念も察してくれない若造が、生意気にも今が大事だと説いてくる。モモンガはロットのためを思って「やめておけ」と言っているのに、それも無視して。
段々と腹が立ってきたモモンガは、何かを言い返そうと口を開いた瞬間、ロットの目が徐々に潤んでいくことに気付いてしまった。
「…好きです」
喉の奥から振り絞るような声が、『きゅうん』と鳴くように弱々しい。これがいけないのだ。わかっている。モモンガはこの、ロットの叱られた子犬のような態度に、とても弱い。
「どう言われようと、好きになってしまったんです。それだけは、信じて」
目のふちから零れた涙が、ぽたりと音を立ててテーブルに落ちた。それを無かったことには出来ないというのに慌ててナプキンで拭い取ろうとした手を、ロットの大きな手が掴んだ。
「モモンガさん、好き」
「う」
「やめとけって言われたって、おれの気持ちは変わりませんからね」
「わ、わかった、わかったから…」
ぐず、と鼻を啜るロットは、泣いているくせに強気で諦めそうにもない。顔が熱くなりすぎて頭痛までしてきたモモンガは、もはや抵抗する気力もなく頷くしか出来なかった。
「えへへ…それは、今度こそちゃんとお付き合いしてくれるってことで、いいですよね?」
とけたように泣き笑う顔が屈託のない子供のように輝いていて、それに勝てないモモンガの選択肢など結局ひとつしかないのだ。
無駄な遠回りをしてしまったと、そして今後もずっと苦悩させられるだろうことを予感して、モモンガはうなだれるように頷いた。