小説 | ナノ



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 「ぐっ…ううっ」
 「なんつー声出してんだテメーは」
 決して如何わしいことをしているのでは無い。
 目の前の参考書と格闘しているのである。
 何これ?どうしてたかしはお兄ちゃんを置いて出かけたくせに忘れ物してんの?どうして点Pは動き回るの?molってなに?
 教科書を引き裂きたい衝動に駆られながら上げた呻き声は、冷静な一言で遮断された。
 呆れたような声色と寸分違わぬ表情で私を見下ろす男、千空に何度目か分からない助けを求める。

 苗字名前、ただ今受験勉強真っ只中です。

 「千空先生、わかりません」
 「あ゙?今どこだ?」
 そう言いながら千空は何かしらの作業を止め、私の手元の問題を覗き込んできた。
 「あ゙ー…昨日と同じ公式使うんだよ。これな」
 昨日やっていたページを捲りとんとんと指し示す。半信半疑で箇所の公式に当てはめると、するすると答えが導かれていった。
 「ほんとだ」
 「ほんとだ、じゃねえ。小説読むのと同じように問題文読めばいいんだよ。得意だろうが」
 そう、理系が壊滅的な私は、このままではみんなと同じ学校に行けないという危機に直面しているのだ。
 この間出た評定ではギリギリ落ちるラインで、先生からひっそりと志望高変更の提案が来ている。
 「普通の文章読解は出来るくせに何で理数問題の文書問題になると躓くんだ?」
 「こっちが聞きたいですね」
 「開き直ってんじゃねえ」
 軽口を叩く私の頭を、千空が全然力が入ってない手で叩く。
 完全に集中力が切れてしまった。
 テーブルから少しだけ距離をとって、ペンをくるくると指先で遊ばせる。
 「どうにか文系問題だけで合格にさせてくれないかな…」
 「仮に文系でオール満点だとしても理数全滅ならアウトだな。非現実的な事考えてねえで問題解け」
 「ですよねー」
 とりあえず言ってみただけの言葉にも的確に返してくる彼と会話するのは楽しい。
 しかし私は目の前の問題に取り組まなければならない。次の春に笑っていられるかは己の努力にかかっているのだから。
 黙々と勉強を再開した私を見て、千空も何か作業に戻ったらしい。暫くはカリカリとノートに文字を書き込む音だけが、しんと静まり返る部屋に響き渡っていた。


 私が半泣きで千空に頼み事をしたのは初めてだった。
 あまりにも悲惨なテスト結果に親から渋い顔されようが、先生に苦笑いされようが関係無かったけれど、同じ高校に行けないとなれば話は別である。
 私は知ってる。というか私以外のみんなだって分かってるはずだ。千空は本当はもっと頭の良い学校に立っていける。科学実験だって、もっと良い設備が整った場所でやろうと思えばできる人なのだ。
 それなのに、彼は大樹たちと同じ高校を選んでいるという不思議。何でなんて考えるのは野暮だ。
 それよりも大事なのは、このチャンスを逃してはいけないと言うところ。少しでも同じ時間を共有できる機会を増やさなくてはならない。
 千空に限って無いとは思うけれど、会わない時間が増えて忘れられたりされるのは嫌だ。

 『お願いします千空大先生!終わったら何でもするんで勉強教えてください!』
 『はあ?………何でもすんだな?』

 これが漫画だったならこの後恋愛的な展開になるんだろうが、そこは安心安全な千空大先生。
 千空に勉強を教えてもらう代わりに、私は未来の労働力を提供することになった。
 ある意味終わった後が恐ろしいが、今はなりふり構っていられない。
 何だかんだ言って千空は教えるのが上手だし、相手をやる気にさせるのもうまい。
 私の能力が付いていっていないだけだ。でもやらなくては。
 「絶対受かってみせる」
 「あ゙ぁ」
 テメーならできる。
 そうやって笑ってくれる貴方のそばにもっといたいから頑張れる、なんて絶対口には出来ないけれど。

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