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盛大なパーティーから早数日、名前はいつも通りの生活を送っていた。
あれから独歩は更に忙しくなったのか、来店は無い。代わりにメディアの露出が目立ってきているため、なんだか毎日会っているような錯覚を起こしていた。
テレビによると、明日がバトルの日らしい。綺麗な声のアナウンサーが些かテンション高く伝えている。
ふと、手元のスマートフォンが目に入った。
「頑張ってとか、送ってもいいかな」
急に連絡したら馴れ馴れしいとか思われるかな、いやでも応援くらいはしても良いんじゃないか。
なんてぐるぐる考えているうちにすぐ出勤時間になってしまって、慌てて全てカバンに詰め込んだ。
今日は来てくれるだろうか。
テレビを消す瞬間に映った彼の姿に思いを馳せる。
まあ、明日がバトルなら来れるわけないよね。
案の定会いたいと願った赤い髪の男性は来ないまま、時間だけが無情に過ぎていった。
「お疲れ様です」
「あ、はいお疲れです」
とうとう退勤時間目前になっても目的の人は現れず、名前は知らず知らずの内に肩を落とす。
そろそろ帰る準備を、と厨房を抜けようとしたところ、何やらざわつく様子が見受けられた。
「どうしたの?」
「あ、名前さん!何か今日異常にオムライスの注文多くて、卵買いに行った方がいいかなーって話してたんです」
厨房担当の困惑した空気に、名前は確かにと今日の注文数を思い出す。
あれかな、昨日やってたグルメ番組のせい。
オムライス特集と銘打って全国の美味しいオムライスが紹介されていた番組が鮮明に記憶から甦り、名前のお腹も鳴りそうだった。
「誰も手が離せなくって、でも今行っとかないと心配で…」
「じゃあ私行ってくるよ。どうせもうすぐ上がりだし」
「え、でもまた店来るの手間じゃ無いですか?」
困っている様子を見過ごす訳にもいかず名乗りを上げたが、反応が芳しくない。
「帰ってきたら私もオムライス食べたい」
交換条件と言わんばかりに名前が言葉を続けると、厨房担当は笑いながら納得したようだった。
「じゃあお願いします」
渡されたお店用の財布を鞄に入れ、勝手口の扉を開ける。
「じゃあいってきます」
「お願いします」
にこやかに送り出された名前は、抜けるような青空の中意気揚々と歩き出した。
歩き出した、のだが。
「いやー、まさか急に降ってくるとは」
買い物を手早く終わらせ、そのまま帰っている名前の頭はしとしとと湿っている。全身濡れ鼠という事態を避けられただけ僥倖と言えるけれども、顔に張り付く髪の毛が鬱陶しい。
通り雨だろうが、生憎折り畳みの傘すらない自分には走って戻るにしては距離が遠い。
急いで駆け込んだ公園の東屋で一息ついていると、視界の端からこちらへ近づいてくる人物が見えた。
「あれ?」
傘から覗く見覚えのある緑色のネクタイ、赤い紐が揺れるネームプレート。
「独歩さん?」
名前の問いかけに、独歩は視線を隠していた傘を持ち上げた。
「やっぱり、名前さんだ…あの、大丈夫ですか…その、髪の毛が」
おたおたと傘を持ちつつ鞄から真新しいタオルを差し出してくる彼を、名前は未だ脳内処理が追いつかずじっと凝視してしまう。
それを何か勘違いしたのだろう。独歩は慌てた様にタオルを自分の方に引き寄せた。
「あ、その…これはさっき取引先から貰ったもので決して俺は使っていないので…いや、そもそも俺から何か渡されるということがもう不快なのか…はは、こんな草臥れたリーマンから受け取るタオルなんて気持ち悪いよな。どうして俺はそこまで配慮することが出来ないんだ。これだから…」
「あ、いえいえ!すみません独歩さんがいてびっくりしただけで!あの、タオル使わせて頂けるととても助かります」
ぼそぼそと聞こえる負の感情を煮詰めたような発言が、名前の意識を現実に引き上げた。
ありがたく拝借したタオルで水気を吸い取っていると、独歩が困ったように名前を見てくる。
「傘、無いんですね。多分、その、しばらく降ると思うんですけど…用事とか、大丈夫ですか」
名前の傍に置いてある買い物袋を見ての発言だろう。以前も買い出しを手伝ってもらったことがあるので名前の状況を察したのかもしれない。
「そうですね。早く戻りたいのは山々なんですが、この中走ると風邪ひきそうで」
通り雨と言うには空の雲行きが怪しい。せめてもう少し雨足が落ち着いたら駆け出そうと考えていたところだった。
そんな風に話す名前の目の前で、独歩の視線が落ち着きなく振れる。
「あ、タオルありがとうございます。今度洗って返しますね」
「あ、いえ…貰い物ですし、差し上げます。それで、あの………良かったら、俺の傘、入りますか」
何故か今にも死にそうなくらいか細い声での申し出だった。
名前としてはありがたいお言葉だが、彼に迷惑がかかるのですぐ頷くには気が引ける。
「私は助かりますけど、えっと、独歩さんのお仕事の邪魔しちゃいませんか」
「や、大丈夫です。ちょうど外回りから帰るだけなので…お店に送るくらいは、でもあの…迷惑です、よね」
どちらかと迷惑をかけるのは名前の方なんだが、と思わず口から出かけたが、首を振って否定するにとどめ、感謝の言葉を口にする。
「ありがとうございます。じゃあ、お願いしてもいいですか?」
立ち上がった名前を見て、独歩はあからさまにホッとした表情を浮かべながら、傘を差し出してきた。
「はい。どうぞ」
「えっと、独歩さん?その……傘こっちに寄りすぎでは」
歩き始めてから数歩、すでに独歩の肩はしとどに濡れている。
名前の方から見てもわかるくらい、あからさまに傘こちらに寄せていた。
「濡れると、いけないので」
「独歩さんが濡れたら意味ないじゃ無いですか。ちょっとすみません」
名前はそう言いながら傘を持つ彼の手を掴み、角度を調節する。どちらも濡れないようにするには、どうしても近づくしかないと独歩を見上げると、完全に硬直していた。
そこではた、と自分の行動を振り返る。
無理矢理手を掴んでかつ近づくとか、遠慮が無いにも程があるのでは?
しかしお互いこれ以上雨粒を喰らうのは避けたい。思った以上に近い距離に、名前も思わず動きを止めた。
「ご、ごめんなさい」
先に動いたのは名前だった。
掴んでいた手を離すが、今離れようと動いたら彼は絶対傘を自分に差し出してくる。何となくそう思い、肩が軽く振れる距離で静止している。
「いえ、その…大丈夫です」
全然大丈夫じゃ無さそうな声を絞り出した独歩が、漸く歩き始めた。
暫く雨粒が傘に弾かれる音が聞こえるほどの静寂が2人を取り囲んだが、ふと、彼に伝えたいことがあったのだと名前が口を開いた。
「そうだ。独歩さん、明日のバトルで優勝者が決まるんですよね」
「え、ああ…そうです」
「頑張ってください。現地にはいけないけど、お家で応援してます!」
良かった、言えた。名前が満足そうに頷いていると、独歩の口元が柔らかく上がっていく。
「ありがとうごさいます。チームの2人は強いので、大丈夫です」
絶対的な信頼感を滲ませて、独歩はあまり上手じゃ無い笑顔を作った。
「独歩さんも入れての麻天狼ですよ。3人とも応援しますから」
正直ディビジョンバトルにはそれほど思い入れがある訳では無いが、勝負は勝ってこそ意味がある。
名前は自分の事のように拳に力を入れた。
そうこうしている間に、お店の勝手口にたどり着く。
「お仕事中にすみません、ありがとうございました」
「いえ、そんな…」
深く頭を下げると、慌てた様に独歩は手を横に振る。
ふと見上げた空は相変わらずの勢いで雫を落としているが、名前の気持ちは晴れやかだった。
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