▼幸せの箱庭
!ヤンデレ注意
ガタン、扉が開いて大きな影が現れた。
「起きているか?」
お盆の上に食事を乗せた鯉登が入ってくる。
「最近体調が優れないだろう?顔色が良くない。食事は出来そうか?」
優しい笑みを浮かべてゆっくり近づいてくる彼に、名前はぎこちなく笑顔を返した。
「ありがとうございます。戴きますね」
お盆を受け取ろうと身を乗り出し手を伸ばす。
ジャリ、と両腕に嵌められた枷の音が一際大きく鳴った。
「すまないが、すぐ月島と出かけなくてはいけないんだ」
名前がお盆を受け取ると、足早に扉の方へ向かって行く。
「いい子で待っていてくれ」
返事をする間もなく閉じられた扉に、小さなため息が溢れた。
視線を落とすと、お盆の上に美味しそうな食事たちが所狭しと並んでいる。ひとまず頂こうと名前は深い藍色の箸を取った。
食事をする度に鳴り続ける枷に、一体何故こうなったかと思いを巡らせる。
鯉登と名前は所謂主人と女中の間柄である。
歳の頃は名前の方が2つほど上な為、失礼な話だが昔は世話の焼ける弟の様な感情で接していた。
野山を駆け回る姿を追いかけ、海で泳ぐ姿を見つめ、慌ただしい日々だったが本当に良くしていただいたものだ。
鯉登が家から出て行くときに感極まって大泣きしたことが今でも恥ずかしい。
滞りなく少尉の位に着いたと連絡を受けた時、お使いを頼まれた。
どうも郵便では送れない物の様で、一応鯉登音之進専属の女中という身分であった名前に白羽の矢が立ったようだ。
遠路遥々やってきた北海道でようやく再会し、成長した姿をを見て名前の瞳からはまた涙がこぼれる。
少々の滞在を許されていた名前は、彼の都合がつく範囲で街を案内してもらっていた。
相変わらず、女中相手にも分け隔てなく接する方である。
その中の、世間話の一環だったと思う。
「きっと音之進さまも、いつかは可愛らしいお嫁さんを娶るのですね」
名前は道行く仲睦まじい夫婦を見て何となく発言した。
「私もいつかは、嫁に行くんでしょうねえ」
すでに行き遅れですけど、と続けようとした冗談は彼の驚いたような顔を見た瞬間、口の中に飲み込まれる。
「嫁に…?」
「ええ、私もいずれ嫁いで家を守らねばなと思いまして」
果たしてそんな出会いはいつ現れるのだろうか、今のところ全く予定がない。
鯉登は何かを考えるように目線を下げたが、ふと気づいたようにこちらに向き直る。
「時間だ」
時計を見ると17時を指している。
「では、私もそろそろ」
深々と頭を下げた後、名前は体を翻して宿泊施設へ向かった。
明日の昼から帰る予定なので、帰る前に挨拶に行かなければ。
彼が暗い目でこちらを見ていたなんて、明日の予定を考えている名前は気づきもしなかった。
目が醒めると、見知らぬ部屋にいた。
「え?」
周りを見渡すも、名前が泊まった部屋とは似ても似つかない様子に戸惑いを隠せない。
驚いて身体を起こすと左手に重みを感じた。
恐る恐る見ると枷が付けられており、伸びた鎖が壁と繋がっている。
「なに、これ」
訳がわからない。名前は慌てて立ち上がり部屋の中を歩き回った。
鎖自体はかなりの長さで、部屋の中であればどこへでも行ける。
部屋の中にあるものはベッドと机と椅子、そして名前の荷物が置いてあるだけだ。
扉が2つあったため、鎖の近くにある扉を開けてみると、中々良い作りのお手洗いだった。
ぼんやりと、独房という言葉が頭をよぎる。
急に恐ろしくなりもう片方の扉に駆け寄った。
取手に手をかけるも鍵がかかっているようで開かない。
「開けてください!誰かいませんか?!」
大きな声を出し扉を叩き続ける。
どれだけこうしていたか分からない。名前の声は枯れ、扉を叩く手に血が滲んでいた。
もしかしたら、このまま死んでしまうのかもしれない。
これだけ大きな音を出しても誰も来ないと言うことは、近くに人がいないんだろう。
諦めて手を下ろした瞬間、カチャリと鍵が開く音がした。
助けが来た。名前が勢いよく顔を上げるとよく見知った顔がそこにある。
「おとのしん、さま」
溢れる涙もそのままに彼に縋り付いた。
声は枯れ果て上手く喋れないし、扉を叩き続けた手は感覚が鈍っているが、助けが来てくれたからにはもう大丈夫だ。
無礼にも足に縋り付く名前の手を優しく解き、労わるように包み込む鯉登の両手の暖かさに更に涙が落ちる。
もはや涙でとても見れる顔ではないだろう。
「大丈夫か?」
まるで大切な物を持っているかのように触れられる手に安心する。
声が出ないかわりに大きく首を縦に振った。
「後で医者を呼んで治療させよう」
立つように促されて従うと、近くのベッドに座らされる。
はて、彼はいつこの枷を取ってくれるのだろうか。
「よく考えたんだが」
こちらを見ない鯉登に、名前は言い知れぬ不安が腹の底から湧き出でくるように感じた。
そもそも何故自分はここに居るのか。荷物ごと運ばれた理由はなんだ。鎖で繋ぐ意味はあるのか。
何故、何も知らないはずの彼がここに来れたのか。
「お前が他の男を結ばれる事を考えるとどうにも我慢ならん」
鯉登は怯える名前を意に介さず続ける。
「お前に触る男の手を切り落とし」
名前の手に、壊れ物を扱うように優しく触れる。
この手は昔から知ってるはずなのに。
「お前の声を聞く男の耳をそぎ落とし」
髪をゆるりと撫で、耳にかける。
そういえば、遠くから声をかけても聞こえるくらい耳が良かった。
「お前と喋る男の舌を引き抜き」
つつ、と手が耳から口に移り軽く唇を開かれる。
幼い時から彼の話し相手になっていた。
「お前を見つめる男の目をくり抜きたくなる」
昔から見て来たお顔なのに、こんなに淀んだ目をする彼を私は知らない。
思わず後ずさりしようとした名前の体をシーツが邪魔をする。
「鶴見中尉は本当に素晴らしい方だ。私ために部屋をくださった」
鶴見中尉とは上官にあたる人ではなかったか。
「お前は私のものだろう?」
その言葉と共に強く抱きしめられ、名前の記憶はぶつりと途切れた。
閉じ込められてから数ヶ月たったが、甲斐甲斐しく世話を焼かれる日々が続いている。主人に世話される女中とはなんと滑稽であろう。
ただ、あの日の淀んだ目を見ることはなくなっていた。
未だ枷は付けられているが、これを外されてもここから出て行かないだろうと名前は確信している。
扉が開く音に反射的に振り返った。
「ただいま」
私は鯉登家女中。
お土産を片手に携え微笑む彼の、笑顔を奪うことなんてできないのだから。
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